がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

2009-01-01から1年間の記事一覧

岩本酒店の通い徳利

大掃除をしていたら、岩本酒屋の通い徳利が出てきた。父がどこかから貰ってきたものか? うしろの百九号はもしや、と思ってググってみたら、現在はJRバス関東(株)西那須野支店の電話番号だった。徳利に通し番号なんて付けないだろうし、当時の電話番号?だ…

時系列地形図閲覧ソフト

旧版地形図を眺めるのが好きだ。現代の地図では消えてしまった廃道の痕跡を探し、旧道が現役だった頃の道の賑わいを想い、今はなき鉄路の響きに耳を澄ます・・。現代の地図との比較でさらに旧版地形図の魅力が増してくる。地域の発展の仕方がわかってとても…

矢板暮市@本町・扇町

矢板前新通りの暮市に行ってきた。初市シーズンが待ちきれなくて・・。市役所の駐車場に車を停めて行ったのだけど、午後7時ぐらいだったのであっさり停められた。 お好み焼きの屋台は、いろんな焼き方があって面白い!鉄板上のアートにお客さんも釘付け! …

薄葉の問屋

日光北街道、箒川を渡り河岸段丘の坂を上がると薄葉宿がある。薄葉にはひとつの宿に2軒の問屋があった。「宿の問屋」渡辺家と「入(いり)の問屋」印南家だ。大田原晴雄氏によると、宿の問屋渡辺家は日光北街道の問屋であるが、入の問屋印南家はどこからの…

小休止 のうか@高百

大笹峠の継立場、小休戸にあった「蕎麦処 小休止」が移転した店に行ってきた。現在は高百の集落の古い農家を改装して営業している。 会津西街道の高徳宿から日光に抜ける間道沿いだけあって、石仏や道標が路傍にあり、道路沿いに茅葺きの家屋も見られる。高…

遊里跡を想う

今市の「日光珈琲・饗茶庵」の建物を観に行ったきっかけで、栃木県北にあった遊郭・赤線跡が今どうなっているかに興味を持った。今でも妓楼やカフェー風建築物が残っていたりするのだろうか?世間には同じような興味の人がいるもので、赤線跡の写真集や研究…

金治郎長屋@今市二宮町

今市日光街道(R119)から二宮神社参道へ入り、今市報徳二宮神社正門前の路地を左折する。 曲がってすぐ、クリーニング屋の角を左に入ると、今話題のスポット、「analogbooks」「cocoloya」「日光珈琲・饗茶庵」のある玉藻小路がある。 入口右手が新進気鋭の…

むらさきしめじ

叔父より立派なムラサキシメジをいただく。建て前で撒き餅拾ってきたのかと思った。

ぬるぬるきのこ

ツバタケ(ナラタケ)をたくさん頂いた。チタケはうどんの汁のダシぐらいしか楽しめないが、ツバタケは大きななめこのようで食感もグッド!ぬるぬるで免疫力もアップだ。 けんちん汁 煮付け きのこ御飯大根おろしと一緒に食べたかったけど全部煮付けられてし…

れすとらん駒@鹿畑

同僚から鹿畑の「駒」のボリュームと旨さを熱く語られ、これは一度行ってみねば、ということになった。 席に着き壁のメニューを見るが、何がお勧めなのか聞いて来るのを忘れたっ。とりあえず無難にかつ丼を注文してみた。 かつ丼 700円うん、ボリューム満点…

金物伊勢屋@大田原中央

中央通りには土蔵造りの商家が何軒か残っている。和泉屋醤油製造店、旧亀田屋旅館、旧山の手郵便局など。今回、「金物伊勢屋」こと川上謄吉商店の見世蔵をじっくり見る機会を得た。場所は今はなき「おもちゃのエジソン」の隣、今はなき「正美堂」の前。この…

乃ん喜のかつ丼

白昼の親不孝散策後の昼メシは再び乃ん喜。今回の散策で気になる老舗食堂をいくつか知ることが出来た。天よし、青木屋、味楽等々。 大田原官公庁優良商店案内図(1980年頃?)東宝食堂はその名前から、あの地にセントラル劇場が在った頃から存在する食堂だと…

歓楽街の記憶 親不孝通編

’71住宅地図と現在の住宅地図を比較して、大田原の繁華街で40年以上同じ場所で営業している店舗を調べてみた。一番知りたいのは親不孝通りの店舗の移り変わりなので、中央1丁目付近だけなのだが。 大きな地図で見る 薬師通り 二葉屋と片岡屋薬師通り沿いの…

鴻華の五目チャーハン

久々に県北最強の中華食堂「鴻華」へ。 外食デフレって以前に、20年前から価格が変わってないお店。和田屋の焼きそば値上げをお嘆きの貴兄に。 夕刊紙かと思いきやサンケイの栃木版の記事。店主イラストヤバス!檄似。 待望の五目チャーハン、450円。 いつも…

歓楽街の記憶

かつて、大田原の盛り場の中心といえば上町のこの路地であった。高度成長期以降、このわずか80m余りの路地だけでは手狭となり、中央1丁目、いわゆる「親不孝通り」が新たな繁華街として発展していく。 この路地の名称だが、ずっと「上町通り」と呼んでいた…

那須の漬を探そう

大正だか昭和初期に大田原の名物として一世を風靡したという「那須の漬」。どうやら福神漬けのようなものだったらしい。以前、教授と呑んだ時に建物が残ってるよ、と教えて貰ったことがあった。ずっとこの話を忘れていたのだが・・。先日、薬師通りを車で通…

金灯籠の休暇

大田原宿大手門口金灯籠の下には、大田原宿で莫大な富を蓄えた近江商人の財宝の在処が隠されているという。…んなわけない。金灯籠は道路拡幅工事のため、一時別の場所に移設され、工事終了後再びこの場所に戻されるそうだ。しばらくの間、お暇頂きます。後か…

「晩翠橋」 黒磯郷土史研究会

那須野ヶ原博物館で「近代を潤す三大疏水と国家プロジェクト」を観た後に購買を覗いたら、こんなすごい本を見つけてしまった。五代目晩翠橋の工事の過程を記録した旧蔵写真と、歴代晩翠橋の歩みをまとめた一冊だ。 黒磯橋本町と高久橋本町を結ぶ、この那珂川…

「黒船」 サディスティック・ミカ・バンド

トノバンが死んでしまった。 こんな機会でないと取り出さないが、「黒船」('74)を聴き直してみた。 YMOが散開した頃('83)、このLPを繰り返し繰り返し聴いていた。A面「墨絵の国から」から「何かが海をやってくる」、「タイムマシンにお願い」「黒船 …

大宮宿と上平河岸

塩谷町の旧大宮宿。 ここは、玉生から大宮、上平渡を経て宇都宮に向かう田原街道と、かつて氏家阿久津河岸に荷物を運んだ会津西街道大宮通りの分岐点。この場所にも「立場」の屋号の店がある。「塩谷町史」によると、大宮には明治期に建場があり、荷馬車一台…

生そば 乃ん喜@大田原中央

「きらく」と並ぶ大田原の老舗食堂、「生そば 乃ん喜(七が三つ)」に来た。母も子供の頃、母の父親に連れられて来ていたそうで、創業70年ほどになるとのこと。玄関が二つあり、一つはまるで旅館の玄関口のようで、奥には帳場にありそうな江戸火鉢が見える。…

たてばの名残り

「たてば(立場・建場)」とは、街道筋の駕籠や荷馬の人足が休憩する場所で、「継立場(つぎたてば)」あるいは「継場(つぎば)」とも呼ばれる。宿場間の距離が長い場合の休憩所の役割をし、ある程度の大きさの集落となり宿屋などの施設がある場合は「間の…

館脇アンコやの道標看板@須賀川市東町

須賀川市東町の館脇生餡所の軒先に掲げられた道標。なんとも古めかしい看板、いつ頃から掲げられている物だろう?なぜアンコ屋さんに診療所の案内が?行き方をよく聞かれたからだろうか。見舞いの手みやげにヨーカンを、といったところか。5丁(約550m)先…

馬場今宮神社の道標は?

会津中街道を歩く会でさくら市馬場今宮神社に行ってきた。氏家町史の民俗編に載っている追分石(道標)リストの馬場今宮神社の地蔵尊 右わしじゅく 左氏家道をずっと探しているが未だ見つからない。大きな地図で見る馬場今宮神社というのは会津西街道大宮通…

大田原坂ヨリ新橋ヲ眺ム

ネットで調べても入札の結果と橋名、全長ぐらいしか分からなかったので 道すがら眺めました。高阿津道から河岸段丘を下りる通称「大田原坂」より遠く望む。高阿津橋(H21完了予定) φ150 L=800m(※橋長L=159m)だって。小生のくされ携帯のカメラではこれが限…

小休戸集落

今市から栗山を結ぶ大笹峠越えの道は、今でこそひっそりと静まりかえった山奥の林道であるが、昭和初期のころまで人や馬による物資の運搬が盛んに行われていた。栗山青柳からさらに桧枝岐、会津に抜ける裏道としての利用もあった。 「栗山街道」と呼ばれるこ…

矢沢のやな@烏山滝田

那珂川の矢沢のやなに来た。R294バイパスに向かう滝田大橋の分岐から旧道に入ってすぐ川に下りた処の梁だ。 橋に滝田の地名が付いているが、滝田(烏山)河岸はもっと下流、バイパス沿いのファミリーブック脇から河川敷に降りた付近にあったようだ。矢沢と…

まるめしあん@下伊佐野

下伊佐野堀ノ内のまるめしあん。下伊佐野堀ノ内といえば伊佐野道(石上道、伊佐野側からだと大田原道)の到着点。R4日産プリンス脇から法善寺、伊佐野道の馬頭観世音前を通り箒川渡河、雲入から堀ノ内というルートは現在でも地図上で推定できる。石上は大…

大雨後の鬼怒川佐貫観音付近

久々に晴れ間の覗く休日。子供らと川に出かける。ここ数日の大雨で河川は大増水中だろうが、床滑はどうだろう?駄目元で向かってみる。 行きがけ寄った鬼怒川観音橋。上流の五十里ダム・川治ダム等が放流中。佐貫の観測所のデータによるとこの時の水位は3.2…

鬼怒川大渡やな 船場亭@大渡船場

梁遊びシーズン到来。今市大渡の鬼怒川沿いにある「船場亭」にやってきた。移築された茅葺屋根の古民家、あちこちに置かれた民具や琺瑯看板。時がゆっくりと流れているようだ。 ここは日光北街道沿い、鬼怒川の渡渉点。昭和30年代まで、この川を渡るのに船を…