がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

歓楽街の記憶 親不孝通編

’71住宅地図と現在の住宅地図を比較して、大田原の繁華街で40年以上同じ場所で営業している店舗を調べてみた。一番知りたいのは親不孝通りの店舗の移り変わりなので、中央1丁目付近だけなのだが。

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薬師通り 二葉屋と片岡屋

薬師通り沿いの商店は現在も変わらず営業している店舗が多い。これは土地建物が店主の所有だからということもあるだろう。ただし廃業してそのまま住居となっているところもある。薬師通りからつくしの本通りに入る路地沿いに関しては、今と比較すると以前は民家がかなり存在したことに気付く。

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田原町営業案内図(明治40年 仲町の部分)

大田原官公庁優良商店案内図(1980年前半?)

発行詳細不明の詳細地図。セントラル劇場(1952-1981)がなく跡地に東宝食堂がある点から1981年以降であることは間違いない。

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水道庁舎(旧法務省)近く 天よし食堂

薬師通り、中央通りから入った地区で40年前から現在も営業している店舗は、個人商店が主で十数軒、飲食店・飲み屋に関しては数えるほどしかなかった。そもそも飲み屋はテナントが主だろうし、ずっと同じ場所で営業している店は希ではないか。何らかの理由で移転したり、屋号を改名して営業を続けている処もあるだろうが、そこまで詳しい調査は今回は無理だった。

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中島荘隣 釜めし みちのく

割烹・料亭は老舗がいくつも存在している。薬師通り沿いから那須庁舎の鉤の手にかけての広い敷地の「料亭片岡屋」、薬師通り沿いの「岩井屋」「田中屋」、路地に入って「割烹荒喜家」「割烹吉春」、乃ん喜前に移動する前はあかね通りから入る路地にあった「小料理福の家」など。

バー・スナック・居酒屋などの飲み屋で40年前から現存するのは2軒。

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つくし野本通り沿い、かつて太陽映画館(上栄館)のあった角の「サイゴン」。親不孝にもベトナム景気の恩恵はあったのか。

つくし野本通り、いわゆる親不孝通りは、この映画館があったため、もともとは「上栄館通り」と呼ばれていた。つくし野本通りの名称は昭和62年に公募で募集されたもの。かつて仲町、栄町には田んぼがあり、つくしがいたるところに生えており、つくし野には那須野ヶ原を彷彿させる明るいイメージがあり決定したという。

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あかね通り入口にあった広告ゲート 

他の小路の名称、大信脇通りが「あかね通り」、田中屋脇が「扇小路」、栄町公民館前が「かなめ通り」、奴寿し脇が「花小路」、もこの時に名付けられたものだそうだ。

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大正期の町内の様子。薬師の池がまだ埋め立てられていない。専売公社付近より北は田んぼだ。

 

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「酒房 司」もある扇小路の「パブ ロスコー」。この先の「奥の細道」「麺馬」付近に大田原芸妓組合事務所があった。

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昭和26年でまだ20軒も置屋があったことがわかる。路地裏から三味線の音が聞こえ、夕方には銭湯帰りの艶っぽい芸妓さんが路地を行き交ったという。

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そのほか’71住宅地図に屋号は載っていないが、正法寺参道にある「スナック喫茶クロンボ」がある。父が若い頃何度か行ったことがあると云っていた。

今回親不孝通りを歩いてみて、少し前に在ったはずの店が違う名前に変わっていたり、街の移り変わりが今でも速いことを感じた。通りの裏側にある蔵や家屋、夜の喧噪の街とは別ものの白昼の饐えた路地には、普段見れない風景があった。街の話題での世代間のギャップを埋めるための調べ物であったが、有意義なものがあった。

参考・画像引用:「大田原なかまち今昔」