がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

薄葉の問屋

日光北街道、箒川を渡り河岸段丘の坂を上がると薄葉宿がある。
薄葉にはひとつの宿に2軒の問屋があった。「宿の問屋」渡辺家と「入(いり)の問屋」印南家だ。大田原晴雄氏によると、宿の問屋渡辺家は日光北街道の問屋であるが、入の問屋印南家はどこからの荷物を扱ったのだろうと思って当主の父親に聞いてみると、「私の所は井口からの荷物が多かった」と云われたという。文書の類は火災で焼けて何も残っていないそうだ。
(「那須野の地名」大田原晴雄著より)

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「宿の問屋」渡辺家跡 後に野崎村役場がおかれる

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裏道の原街道槻沢通り(?)沿いの「入の問屋」印南家跡


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中薄葉といえば原街道槻沢通りが日光北街道と交差して、立道を下り平沢で石林通りと合流している。井口方面といえば井口方面か?また薄葉は会津西街道塩原通り、会津中街道と間道で繋がっており、交通の要所であった。間道を通って日光北街道に入ってくる荷物を捌いたのが「入の問屋」ということなのだろうか。

元禄2年(1689)4月3日、芭蕉曽良の一行は薄葉十文字の「ふじや」茶屋で昼食をとっている。農夫に馬を借りたのはこのあと、なんじゃもんじゃ付近。曽良の「かさねとは八重撫子の名成べし」はその際に連れていた小さな女の子に名を聞いた時の印象を句にしたもの。山里にしては優美な名前じゃないの、萌えー、って感じか。