がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

小休戸集落

今市から栗山を結ぶ大笹峠越えの道は、今でこそひっそりと静まりかえった山奥の林道であるが、昭和初期のころまで人や馬による物資の運搬が盛んに行われていた。栗山青柳からさらに桧枝岐、会津に抜ける裏道としての利用もあった。

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「栗山街道」と呼ばれるこの道は、今市宿内から大谷川を渡り、大谷向町から材木町、瀬尾、入坪を通り毘沙門山の鞍部を越え小百に至る。これは大谷向町の会津西街道と栗山街道の分岐から撮ったもの。ここをまっすぐ行くと大谷橋のたもと、R121バイパスとの交差「大谷向」交差点に出る。現在の栗山街道(県道今市青柳線)はそのまままっすぐ道幅の狭い材木町を通るが、かつての栗山道は本教寺の手前の路地を右に入って行くルートだったそうだ。

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旧栗山道の路地

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小百は日光宿と高徳宿を結ぶ間道と栗山道が交差する要所だ。小百から小百川沿いに遡っていくと急な上り坂の手前に小休戸(こやすど 小休止とも)という集落がある。

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今でも地図上にその地名は載っているが、現在生活する者はいない。かつては今市と栗山を結ぶ大笹峠越えの中継地として大いに栄えた。元禄年間には集落を形成する記録が残っている。明治44年から大正2年までの鬼怒川発電所 黒部堰堤工事の時期が最盛期で、人口は増加し当時集落は20数戸まで増え、小百小学校の分校が設置された。
昭和16年栗山村青柳川治間の道路開通により栗山街道は交通が杜絶する。

戦前に今市から小休戸まで自動車が入れるようになり、昭和28年にはダム建設、森林開発、観光開発のための道路整備が行われ栗山までの自動車道が開通、昔ながらの大笹峠超えの道は使われなくなった。

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現在小休戸には一軒だけ建物が残っている。明治元年建築の斎藤家だ。元々は旅籠として使われていた建物で、厩があり常時2頭の馬がいて栗山から炭俵を、今市から食料品、生活品を荷として運んだという。

 

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かつては木羽葺きで座敷の天井は6尺強の旅籠作り、間取りは一階が八畳の座敷が2つと居間・納戸・板の間・土間・厩で、二階は六畳の座敷が二つ。出窓は後にたばこ店をしていた名残だろうか。

実は小休戸にはもう一軒建物があった。明治2年に建てられた曲がり屋で、かつては継立場として機能していた赤羽家の建物だ。
この風情ある曲がり屋を利用して、「蕎麦処  小休止」という店があった。大笹牧場に行く際にこの道を何度か通ったことがあったので、この店の存在には気付いていたが、8月に来たとき、その場所は更地になっていた。気になってネットで調べたら、2年ほど前に火事で全焼してしまったそうだ。現在は高百で「小休止 のうか」という屋号で評判の店になっている。新蕎麦の季節になったら訪れてみたい。

 

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