宇都宮環状道路が開通していなかった頃の話。宇都宮日赤にじいちゃんを見舞いに行くのに、穴ぼこのいっぱい開いた崖の脇を通る細道を通った記憶がある。穴ぼこというのは、宮環沿いからも見える長岡百穴(ながおかひゃくあな)古墳のことだ。今にして思えば、白沢街道から長岡街道で戸祭に出るルートは当時の定番だったんだな。
長岡道は奥州道中と日光道中を繋ぐ古い間道だ。海道町から御用川を渡り川俣町で直角に曲がり山田川を渡る。関掘町で田原街道(羽黒街道)と交差して田川を渡れば長岡だ。赤坂を通って釜川を渡り日光街道となる。川俣町の延命地蔵尊が行基(奈良時代の僧)作と伝えられていたり、源義経伝説が残っていたりする。街道沿いには長岡百穴のほか瓦塚古墳群、谷口山古墳や遺跡があり、古代人も行き来していた道なんだと思わせる。
長岡百穴古墳は、凝灰岩の露頭に開いた52個の横穴墓だ。古代人の墓の跡であるが原形を留めていない。もともとは扉石で蓋がしてあったようだが、石質がもろく、また後世に石仏が彫られ(室町時代)崩壊が進んでしまった。横穴墓が作られた時期は古墳時代末期(7世紀前半)と推定されている。同じ尾根上に瓦塚古墳群があり、それに関係するものではないかとされている。
長岡百穴にはいくつかの言い伝えが残されている。豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の東征の際にこの地で激戦があり、戦死した家来を葬った場所だというもの、弘法大師が横穴内に百の石仏を一夜にして作ったというもの、弘法大師が百観音寺を建立した話、藩主により寺が焼払われた話など。
かつてはこの凝灰岩を建築用に切り出していたそうで、長岡百穴の東側街道沿いに石切場跡がみられる。