がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

迯室馬市場跡@迯室

那須町迯室にある長久寺に来た。ここ迯室は黒羽藩の時代から良馬を産出する地だった。迯室で馬市が行われ売買が行われた謂れの刻まれた産馬大神の碑がある。

産馬大神碑
 高さ306cm 横193cm 厚さ133cm

[表面]
産馬大神
  青木子爵之真跡
[裏面]
我カ下野産馬組合ハ昔時黒羽芦野両藩主ノ施設サレシニ濫觴ス
明治六年塩那産馬共同会成リ生産幼駒売買糶市場ヲ黒羽向町二
設ケヌ然ルニ明治廿三年同会社瓦解スルニ至リ那須村ハ茲ニ独立シ
専ラ馬匹ノ蕃殖ヲ図リ且ツ毎年糶市
場ヲ大字高久二開催シヌ
越テ廿七年栃木県庁ノ那須郡ヲ三産馬組合ニ区分スルヤ北部高久組ハ
奨励ノ為ニトテ県ヨリ種
牡馬三頭ヲ下附サレシカ其ノ事遂ニ空シカラス
事業漸ク発展ノ緒ニ就キス
次テ卅一年糶市場ノ逃室二移サルルヤ吾人ノ
努力スヘキ好機ニ入リタルヲ
自覚シキ卅四年那須郡産馬組合成ルヤ高久組亦之ニ加盟セシカ糶市場ハ
依然逃室ナリキ
合ハ馬格ノ改善ハ優良ナル種馬ニ俟タナル可カラサルヲ認メ
卅六年下総御料牧場ヨリ洋種牡馬ハクニー種第九フォレー
ストビユー号ヲ
横浜ヨリ濠州産種牡馬チェリー号ヲ購入シテ組合各部ニ配置シタルヲ
始メトシテ翌年又青森県馬産地ヨ
リ種牡馬数十頭ヲ購入シタル等
爾来年々多少ノ種牡馬ヲ購入シテ事業ノ発展ヲ画リ又其ノ下野産馬組合ト
改称セシハ明
治卅九年ノ事ナリ
回顧スレバ糶市場ノ此ニ移サレシ以来年ヲ重ヌル十三其ノ時日短ナリトセズ
組合ノ事業亦正二見ルニ
足ルヘキモノトナリ年々ノ生産幼駒ハ実ニ六百余頭ノ
多キヲ数へ其ノ販路ヨリスレハ関東東北関西ヨリ達ク四国ニ互ル
ノ盛況トナリ
逃室糶市ノ名漸ク世人ノ注意ヲ惹カントス此ノ順潮ヲ見ルニ至レルハ組合ノ
画策其ノ宜シキヲ得タルニ基
因セルハ元ヨリ論ナシ然リト雖モ毎年ノ糶市場ニ
対シテハ吾人ノ努力必スシモ多少ノ補フ所ナシト言フヘカラス其ノ補
ヤ誠ニ
徴ナリト雖モ今ヤ此ノ盛況ニ接ス吾人豈多少ノ感ナカランヤ然レトモ生産馬事業ノ
前途尚遼遠ナルニ想到スレバ斯
業隆盛ノ希望ヲ将来ニ持スル事甚ダ切ナルヲ
覚エスンバアラス夫レ思フテ述へ情動キテ詠スルハ豈惟ニ文人詩客ノミト

云ハンヤ茲ニ産馬大神ノ碑ヲ建設スル所以ハ他ナシ一ハ以テ此ノ盛況ニ遇ヒ内ニ動ケル至悦ノ情ヲ述へ一ハ以テ斯業ノタメ将来二限リナキノ希望ヲ繋カンカ為ノミト云爾

 大君の御世のさかえを那須野原 幾千代かけて駒はいさまん
明治四十三年十一月十五日建設
     白石桂玉之書

[上段台石,表面]

寄付金一覧 略


那須の馬産の始まりは、江戸時代の黒羽藩と芦野藩の熱心な馬産政策に起源がある。

明治6年に塩谷郡と那須郡が協力した「塩那産馬共同会」ができ、幼駒(子馬)を売買する競市場を黒羽向町に設けた。明治23年には会社が解散したため、那須村は独立。ひたすら馬の繁殖に努め毎年市場を高久で開催するようになる。

明治27年、栃木県庁は那須郡を3つの産馬組合に分け、北部の高久組には奨励のため、県から種牡馬3頭が与えられた。これが大成功し発展の糸口を掴んだ。

明治31年、馬市場が高久から「逃室」へ移され、当時の逃室の人々は好機の機会がやってきた!と激しく奮起した。明治34年、那須郡産馬組合ができ高久組も加盟。市場は引続き逃室で行われた。

組合は、馬の質(馬格)の改善は優秀な種馬を用意しなければいけないことを認め、

明治36年、天皇家が所有する最高峰の牧場「下総御料牧場」から、イギリス原産の高級馬「ハクニー種(第九フォレストビユー号)」を購入。さらに横浜からオーストラリア(豪州)産の種牡馬「チェリー号」を購入。翌年、馬産の本場である青森県からも数十頭の種牡馬を購入した。

その後、毎年いくらかの種牡馬を購入して事業の発展を図り、またその名称を「下野産馬組合」と改めたのは、明治39年のことである。

振り返れば、競市場がここに移転してきてから13年という歳月が重ねられ、その期間は決して短いものではない。組合の事業も、まさに注目するに値する実績が得られ、毎年の生産仔馬数は実に600頭余という多さに達している。その販売先に目を向ければ、関東、東北、関西から遠くは四国にまで及ぶほどの盛況ぶりとなっている。

逃室の競市場の名はようやく世間の注目を集めるようになってきた。このように順調な流れを迎えるに至ったのは、組合の計画や対策が正しかったことは言うまでもない。だが毎年の競市を行う我々の努力もまた、いくらかの貢献をしていなかったとは言えない。その貢献は本当にわずかなものだが、今こうして大盛況の様子を目の当たりにし、我々の中に感慨深いものが湧き起こらずにいられない。馬産事業の行く手はまだ遥か遠く長いものであると思い至ると、この事業がさらに隆盛していくという希望を将来に対して抱く気持ちが、非常に切実であると感じずにはいられない。そもそも、心に深く思いを馳せてそれを言葉に表し、感情が動いて詩歌を詠むというのは、どうして文人や詩人たちだけの特権だと言えるだろうか。
ここに産馬大神の碑を建立するのは他でもない。ひとつはこの大盛況の時代に巡り合えたことで我々の心に沸き起こったこの上ない喜びの気持ちを残すため、もうひとつは馬産事業のために将来に向かって限りない希望を託す、ただそれだけだ。

  大君の御世のさかえを那須野原 幾千代かけて駒はいさまん
(天皇陛下が治めるこの国の栄光と共に、那須野ヶ原で育った名馬達が、幾千代の未来までも勇ましく駆け巡るだろう)

明治31年、軍馬補充部白河支部那須派出部が現在の田島に事務所を構える。軍馬の供給を担う育成牧場がこの地に出来たことは、同年馬市場が高久から迯室へ移されたことと無関係ではないだろう。

この血統改革が見事に実を結び、毎年生まれる子馬は600頭を超え、その販売先は関東・東北・関西を越えて、はるか四国にまで至る大盛況となった。「逃室市場の名、ようやく世人の注意を惹かんとす」という一文には、迯室が日本全国からバイヤーが集まる一大馬市場に成長した大きな自負に溢れている。

那須郡産馬組合の発足で馬の競り市を迯室、大原間、黒羽向町、沢の4か所に集約したが、明治36年には馬頭と黒田原を追加した。鉄道開通により物資や馬の輸送効率が劇的に変わった。利便性の高い黒田原と軍馬補充部那須派出部に近い迯室。那須駒の新時代が始まった。ここからの展開は黒田原馬市場跡に建つ「鹿野運藏畜産功績之碑」の内容も見てほしい。

補完する情報として「那須村郷土教育資料誌」(S5)の「逃室馬市の由来」には

明治三十二年下野産馬組合に加入後、黒田原(春)及び逃室(夏)両地に各々三日間宛開催せられしも、當地方の馬格向上を軍馬購入地として、指定により、市場も一ヶ所逃室に開くに至る。期間は毎年八月十日より向ふ一週間とす。年々軍馬として購入せらるる数は八頭を限度とせしが近時軍縮の影響により、六頭を通例とし、價格は三百円より三百五十円の間にて購入せらるる。

黒田原と迯室で3日間春夏交互開催、軍馬補充部関係は迯室で8月に1週間別開催とある。

現地の方によると、この碑はもともと長久寺境内にあったわけではなく、那須高原SA南側の2m程の高台の上にあった、というお話を伺った。

実際にその場所に行ってみた。知ってた?那須塩原SAって高速道路に上がらなくても訪れることが出来るんだね。R4の迯室交差点から那須高原スマートインター線(かつての軍馬道である県道349号)に入って、ETC専用入口の手前にある那須塩原SA(上り線)外部お客様駐車場から入れる。

長いドライブでエコノミー症候群寸前の体を解きほぐす、木道の敷かれた緑地帯が広がっている。

地元の方の話だと、このあたりにもともとあの産馬大神碑があったというんだなあ。


実際の迯室馬市場はどのあたりにあったのか。「那須野が原の馬の飼育事業」による聞き取りによると「問屋のところで開かれた」とある。だとするとここからすぐ近くの陸羽街道沿いになる。しかし、この碑がもともと建立されていた場所付近がなんとなく怪しい。

産馬大神碑のとなりに並ぶ種馬碑についても見てみよう。

高さ278cm 横201cm 厚さ131cm

[表面]
種馬碑(原文は横書)

種牡馬第九フォレストビュー号明治
三十五年三月産於下総御料牧場翌三
十六年十月為下野産馬組合所購入同
三十八年合格種馬検査爾来供用種馬
及十七ヶ年大正十年五月二十八日病
死其間栃木県産馬改良上挙異例之成
績依茲建設碑以為記念云爾
大正十年八月十三日 如水書
[裏面]
賛成者(原文は横書) 以下賛同寄付金省略

産馬大神碑でも言及されていた那須駒の馬格の改善において重要な役割を果たした、下総御料牧場より購入したハクニー種の第九フォレストビュー号の記念碑である。

種牡馬「第九フォレストビュー号」は、明治35年3月に天皇家直轄の下総御料牧場で生まれた。翌明治36年10月、下野産馬組合によって購入され、明治38年に正式な種馬検査に合格。以来、17年という長きにわたって種馬として活躍し、大正10年5月28日に病気のため亡くなった。その間、栃木県の馬の改良において誰も成し遂げられなかったほどの大変な成果を挙げた。そこでここに碑を建設し、その偉大な功績を永く記念するものである。大正10年8月13日 如水 書

馬の種付け(交配)活動を17年間も現役で続けたというのは、馬の寿命や体力を考えても並大抵のことではない。大正10年(1921年)に没するまで、まさに「生涯現役」で那須の馬のために尽くし、地域の人々に家族以上に大切に思われていたことが分かる。

第九フォレストビュー号が残した子供たち(産駒)が驚くほど優秀だったこと、それまでの那須駒(日本の在来馬のなかでもがっしりとした南部馬などを改良していたが、それでも小さくてずんぐりした馬)に、イギリスの名門馬である彼の血が入ったことで、那須駒は見違えるほど大きく、強く、美しい馬へと進化した。産馬大神碑にあった「関東・東北・関西・四国まで販路が広がった」という大盛況の立役者は、まさにこの一頭の馬だったのだ。

種牡馬の第九フォレストビュー号といえば、半俵にある馬廻塚馬頭観音にもフォレストビュー号の碑がある。

garitune.hatenablog.jp


長久寺の脇の那須高原SA・スマートICに向かう道はかつて「軍馬道」と呼ばれていた。旧軍馬補充部白河支部那須派出部へ向かう道だ。迯室馬市場は軍馬の供給場所でもあったわけだ。

「那須野が原の馬の飼育事業」石ぐら会 櫻井昭男(2018)
「那須町の記念碑」那須町教育委員会(2005)

矢隠し石@八幡崎

那須与一は三国一よ、男美男で旗頭~。

那須の八幡崎、八幡平には、そんな与一が少年期に弓の腕を磨いたという言い伝えのある場所。那須岳から南東方向に延びる尾根の末端に広がる標高1040mの高原だ。那須連峰を背景に、広く那須野が原から白河方面まで一望することができる。

那須与一が少年期に弓の技術を修練した場所は、南金丸の法師峠では?あるいは三輪の神田城跡では?と思うが、屋島の戦いで願掛けした神々の「八幡大菩薩」は金丸八幡宮(那須神社)、「湯泉大明神」は那須温泉神社であり、そこから派生したサイドストーリーが少年期の弓の修練の逸話である。

八幡崎、八幡平という地名の由来は何なのか、この地に八幡宮が祀られているわけでもなく、坂上田村麻呂の東征の伝説とも関係ないようだ。調べていくとこんな記述があった。

那須餘一の矢場
那須村の西を流れる那珂川を下ること三里にして、高館という那須家の館があって立派に残っている。ここかあら騎馬で那須へ往来したのだろう。途中餘一腰掛松もある。矢場といふは那須湯本を上ること十數町、今は立派に八幡神社ある。ほとりに矢かくし石や、其の下方に平な地があって、東方に地ぶくれ様のものが二、三見受けられる之が餘一幼少の折りに那須温泉神社に祈願を込めての稽古の矢場である。今は大方芝生に躑躅が茂っている。冬季はスキー場となり、血にはやる若者が盛んに辷(すべ)るも何かの縁因であらう。
「那須村郷土教育資料誌」(S5/H8)


那須与一が願掛けし成功を収めた「八幡神」としての那須温泉神社という解釈かと思っていたが、かつては立派な八幡神社があった?ほかの文献には紹介されておらず要確認である。

この南東の斜面が、古くから馬の放牧地だったこともあり与一伝説と結びつき、与一が遠矢の稽古をした「八幡の馬場」という呼称もつけられている。



那須高原線からグリーンロッジ裏を抜け那須自然研究路に向かう。この辺りは昭和初期に矢倉石スキー場として整備された那須のスキー発祥の地である。

 


「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬 昭11より

左手一二町をへだてた大岩は、扁應山から辨天温泉に行くときにも見えるヤグラ石で、躑躅の中に大きく目立ってゐる。この石を那須餘一のヤグラ石といふが、或は那須餘一の矢隠(ヤガクシ)石が正しいのかと思ふ。なほ「ヤ」も「クラ」も石の意であつて、要するにただ石といふことだとも考へられる。このあたりを餘一の矢場といひ、那須餘一が遠矢の練習をしたところと傳へる。これを思ふと、今もなほ勇姿颯爽たる若武者、餘一宗隆が、那須嶽颪に駒の鬣なぶらせつつ、そこらの木蔭から現れさうなところである。
(那須 温泉・登山・ハイキング)



矢隠(やがくし)石、またはヤグラ石ともいう。少年時代の与一が湯泉大明神に祈りを込めて弓矢の稽古をした矢場で、この大岩に矢を隠したと伝えられている。

表面に無数の小穴が開いている。マグマが地表付近で急激に冷えて固まる際に、中に含まれていたガスが抜けてできる溶岩特有の構造だ。

 


このあたりは低木とチシマザサが茂って視界が遮られてきているが、かつては大丸園地付近まで放牧地で、牧場の提(土塁)がずっと続いていたという。今も残っているのかな?

牧畜の発展を目標として設立された県営那須牧場(のちの豊浦農場~毛利農場)が明治12年那須岳中腹(八幡、大丸周辺)に支場を開設。支場は5月から11月まで放牧場として利用された。牛の飼育はうまく行かず明治30年代にはやめてしまった。

黒磯の資産家、倉光三郎は那須牧場、豊浦農場、毛利農場で経営管理を行い、黒磯の発展に貢献した人物だ。後年は産馬の振興に尽くし、日本産馬協会の理事にも就任する。戦前、那須地方が那須駒の産地として全国に知れ渡ったのは倉光三郎のおかげだと言われている。

「那須温泉史」那須町教育委員会(2005)
「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬(1936)
「郷土の人々 矢板・黒磯・大田原篇」下野新聞社編(1973)
「那須野が原の馬の飼育事業」石ぐら会 櫻井昭男(2018)

高岩神社の夏越し@黒羽向町


「川は流れる」聖地巡礼その2。今回は第三話 蛍火の夜のロケーションとして想定される黒羽向町の北の端の高岩神社を見にきた。高岩神社の夏越まつりのシーンだ。

誠之介と万屋の昭吉、玉屋の加代ちゃんは竜吉とお満を連れ立って黒羽向町の町並みを奥沢村方面に歩いてくる。明王寺を過ぎると高岩神社のこんもりとした杉林が見えてきた。ずっとまっすぐだった道が高岩神社の前で方向を変えるのだが、これは城下町の特徴の桝形になっていた部分かな。

 


松井天山の黒羽町川西町真景(T13)。右手に明王寺をみてかつての鉤の手のクランクした道と真っ直ぐに作り直した道が合流しているようにみえる。

この地図では高岩神社じゃなく、「愛宕神社」と表記されている。高岩神社の名称は、明治3年に愛宕神社を含むいくつかの神社が合祀され「高岩神社」と正式に改称されたそうだ。それにしても大正13年の地図で高岩神社表記になっていないのはどういうことだ? 境内にある石柱や鳥居などはほとんど昭和初期のものだ。昭和10年の改修記念碑があるので大幅なリニューアルがあって古い石碑は取り払われたのか? 火事?火伏せの愛宕神社が火事になってはシャレにならないな。唯一本堂脇に安政4丁巳年の灯籠がひとつ残っている。

その隣には「不動堂」、高岩波切不動尊が描かれている。那珂川の沿岸の高岩の周りはは現在も「高岩公園」ないし「高岩園」と呼ばれている。高岩の上には松が茂り、灯籠や四重の塔が描かれている。

という創垂可継に収められている文化文政期(1084~1830)の「封域郷村誌図面」という地図には、真っ直ぐな向下町・向上町の町並みの北端に木戸が描かれている。ちょうどこの場所だ。「封域郷村誌図面」には赤い屋根の「不動」は描かれているが、北側に茶色で着色された建物は描かれているだけで神社は描かれていない。どういうことだ?

封域郷村誌地図




入口ちかくの池の畔に「従是南黒羽領」「従是東黒羽領」「従是北黒羽領「従川中西黒羽領」の境界石が無造作に建っている。越堀宿浄泉寺にあるものと同じなのでどこか近くにあったものを移設したものかな、と思ったが那須郡誌には

川西町黒羽向町高岩神社の境内にあるのは上河岸の倉庫に残っていたのを発見してここに立てたもので別義はない

とある。


黒磯市誌にも

なお同様の標石は黒羽町高岩神社境内にも移し建てられてあるが、これら標石は増業大阪城加番の時(文化10~11(1813~14))大坂で造り海路黒羽に運ばれたものという。

とあった。これらは倉庫にしまってあった予備の石柱だったのだろうか?

 


手水場を過ぎると左に折れ、高岩神社の正式な参道となる。物語では夏越まつりで賑わう境内の様子が描写される。あちらこちらに篝火が焚かれ、参道には夜店が並んでいる。たくさんの提灯と大勢の浴衣姿の老若男女と子供たち。茅の輪くぐりの順番を待つ列に誠之介たちも加わった。


社殿の前には直径一間半ほどの茅の輪が設けられている。参詣者は茅の輪の前で拍手を打って、茅の輪を3回くぐってから社殿を詣でる。


参考資料:大室高龗神社さんの茅の輪


そんな楽しいひとときをだいなしにする向町の悪童たちの登場だ。田町のよそ者の若侍が向町のマドンナ、玉屋の加代ちゃんを連れて夏祭りに来てるのだ。これはレペゼン田町の名に懸けて因縁をつけざるをえない。


この喧騒のなかで騒ぎになってはまずいので、違う場所で話をつけようと誠之介は加代ちゃんに刀を預け悪童たちについていく。雑踏から離れ、那珂川の川岸に移動する。多勢に無勢、しかもあちらには力士もいるってよ!どうする誠之介!!

 


その後の展開についてはともかく、ここが高岩公園。高岩の上は傾斜していて岩場で滑るのでケンカする場所には向いてないと思う。暴力反対。話し合いで解決しよう。


それにしてもとんでもなくダイナミックな景勝地だ。度胸試しに渕に飛び込んだりしたのかなあ。


高岩から上流の高岩大橋。いやあこりゃ、とてつもなくたかいわぁ(テッパン高岩ギャグ)。


高岩沿いは高岩渕と呼ばれる深みとなっている。


高岩から下流方面。


高岩神社から250mほど北側に、辰の口の山神と呼ばれる場所がある。

このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。

辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。

またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある那珂川の高岩の深い渕に住む竜神様の頭であると信じられていた。村の人々は竜神の頭がここ辰口で、その尾っぽは緒川あたりまで及んでいると想像した。

日照り続きで農作物に影響が出ると、この地で雨乞いの祈りを捧げると雨が降ったという。山の神が祀られている場所の木を切ると祟りがあるといわれ、ながいことこの場所は藪になったまま残されていた。



物語に戻るが、ケンカのあと手打ちを行なった場所が、高岩神社の右側にある高岩波切不動尊だ。

高岩波切不動尊は、那珂川で帆かけ船や筏で舟運が行われていた時代、近郊農民の五穀豊穣と水運の無事息災を祈願したという。その昔、那須与一が屋島の合戦で扇の的を射るとき、鵜黒の駒を海に乗り入れ波立たぬようにこの不動尊に祈願した。この波切不動の霊験によって波が鎮まり、見事扇の的を射落とすことができたと伝えられている。

高岩山密蔵院明王寺に付属し、初め桧木沢二ッ滝の地にあったが、寛永年中に藩主大関土佐守高増が黒羽城より眺められるこの地に移転させたという。寺伝によればこの波切不動尊像は仏師運慶の作と伝えられる。


堂宇に多くの奉納刀が飾られている。不動明王の倶利伽羅剣を模した刀剣を奉納することで煩悩や災厄を断ち切り、不動明王の加護を願うものだ。


刀は朽ちてしまったが安政4年の奉納額が残っている。

参考文献:黒羽町誌、那須郡誌、那須記ほか

 

川は流れる

川は流れる

Amazon

 

水神渕@八塩

森 詠さんの新作が出たとのことで今回は「川は流れる」の聖地巡礼である。

 

森 詠さんといえば栃木県北を舞台にした自伝的小説「オサムの朝(あした)」それに続く「那珂川青春記」「日に新たなり-続・那珂川青春記-」と「少年記 -オサム14歳-」である。東京から疎開してきた少年の目を通した昭和20年代の生活描写が郷愁を誘い、原作本は地元でも大いに売れて映画化もされた。

「川は流れる」は時期としては「オサムの朝」のすぐあとに書かれたものに大幅加筆したものらしい。黒羽藩の青年下士、板倉誠之介の青春譚である。特にストーリーの説明もなく巡礼をスタートするよ。

水 神 渕

冒頭の藩校をサボっての那珂川での水浴びのシーン。「水神渕」はのちの事件でも重要な舞台となるので押さえたいスポットだ。「前田通い」の章の廓のマドンナは誠之介の初めてのひとで、水神渕で出会った「蛇姫様」に面影が被る憧れの存在だ。板倉家の下男である源爺は川漁師で、かつて水神の渕で蛇姫様に出会ったことがあるという。黒羽の少年たちは那珂川で遊び、那珂川に育てられ、一人前の男になるのだ。

水神渕はどこなのか。小説を読み込めば黒羽河岸より下流で田町側(那珂川右岸)だということがわかる。地形図やGooglemapでも、さすがに渕の名前までは載ってない。こんな時は・・。

川に関連したローカルな地名を知りたければ、釣り人に配られる「釣り場案内マップ」といういいものがある。かつては「大和保険の那珂川釣り情報」というサイトがあってだな。今は「那珂川北部漁業協同組合」さんのページだ。ここに「釣り場案内マップ」という遊漁券やアユオトリを扱っているお店で配布されているマップのデータがあるので後世のために保存しよう。 

www.nakagawa-hokubu.or.jp

 

無断転用で大変恐縮ですが、「釣り場案内マップ」からの情報がこちら。八塩に「水神」という地名がある。松葉川が合流した先、流れが湾曲し「渕」と呼ばれる地形になっている。この先の湾曲部は「山渕」「五葉渕」とネーミングされているが、「水神渕」とは書かれていない。これはどうしたことか。


水神から黒岩を眺める。黒羽河岸より古い時期に黒岩河岸と呼ばれる河岸があったらしい。

水神からボウズ、カニ岩方面

水神がある山口地区は、八塩沢が那珂川に流れ混む関係で、堰堤が切れる部分になっている。2019年の台風19号の水害の際に那珂川の流れが堰堤を越えてしまったところだそうだ。かつてはこの先は堰堤が低くなっており、木々が生い茂っていたそうだ。水害対策として低くなっていた部分を2mかさ上げしコンクリートで強化している。八塩沢を挟んだ南側の2軒が移築された。そんな護岸設備の境界に石碑が並べられている。


かつてはこれらの石碑はその木立の中にあったそうだ。


左が件の水神か。中央は何やら句碑のようなもの。右は台石だけが残されている。前述の水害で消失したのだろうか。

寿(す)満(ま)ば屋(や)な 芭蕉翁
八しおの里耳(に)
奈(な)川(つ)三つ記(き)

 

えっ芭蕉の句碑なの?!大発見、かと思いきや。

 

あとで「黒羽町誌」の八塩の項をみたら、この句碑の解説があった。


(五) 八塩

八塩(やしお)は山紫水明の地で、住みよい環境をみせている。

『水神渕』の岩頭に立つ句碑に「住まばやな八塩の里に夏三月 芭蕉」と刻(きざ)んである程である。

この句は『芭蕉』が作ったものでない。芭蕉の踏跡を尋ねてこの地を訪れて詠んだ『桃隣』の句「篭(こま)らばや八塩の里に夏三月」を建碑者等がこれを読み替えて、この里の夏を謳歌したものであろう。

『桃隣』の句心は芭蕉の「しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め」にあるとみられ、興が深い。

芭蕉の三回忌に聖地巡礼をしてた天野桃隣が、この地で芭蕉の句をオマージュして作った句を建碑者が更にオマージュした句、らしい、なんだそりゃ。

しかもここの解説にはしっかり「水神渕」とあるではないか。やはりここは水神渕と呼ばれてたんだな。もちろんただの創作の元ネタなので、実際に水神渕が水深の深い渕だったかは定かでない。八塩沢と那珂川の合流点で、昔から水神を祀って鎮める何らかの必要があった場所なのではないか。

川の蛇行している部分の外側は川底が深くえぐられ「渕」となり、内側は土砂が堆積して「瀬」となる。しかしこの水神渕に関しては、蛇行する外側から八塩沢によって運ばれる堆積物が流れ込み、渕はそんなに深くならないように思える。

2019年の水害のあとの対策工事で那珂川は川底が削られ、川の流れも全く変わってしまっているとのこと。友釣りの川だし安全対策で川底も平らにしているのだろう。

もうひとつこの句碑の解説文献をみつけた。こちらにも施工前の水神の様子が少しだけ載っている。 「黒羽ふるさと雑話」(S54)の第4章かたりつぎより

12 水神渕の句碑
八塩地区に水神渕というところがある。那珂川の流れを眼下に水勢激しく対岸の景もまた絶景である。水神を祀る祠が一基建ててある。風雪に耐えた大きな松が生えていて歳月を物語っている。その境内といっても十アール位の狭いところであるが、一基の句碑が建っている。
 すまばやな八しおの里になつ三つき
そして芭蕉翁と達筆な文字で克明に刻まれている。
碑は芭蕉の作と刻んであるが、実は桃隣の作にあやかったものである。陸奥千鳥(むつちどり)にある句は「籠らばや」であるが、句碑には「すまばやな」になっている。いつの頃この句碑を建てたか定かではないが、その側の祠の年号を見ると、宝暦十一年辛巳七月十七日と刻まれている。その頃とすれば徳川家治将軍の時代である。西暦一七六一年であるから、今から二百十六年前のことである。この句碑の建ったのはその年号の前か後かよくわかっていない。何れ好事家がこの句碑を建てたのであろうと思われる。


沢の合流部分。画像の那珂川沿いの法面の色が変わっている暗い色の高さがかつての堰堤の高さらしい。1980年代の住宅地図をみると、八塩沢の南側に「芭蕉句碑」と書かれた記念碑記号がたしかに書かれている。


カニ岩側からボウズ、水神方面

カニ岩

ネコ岩だ!このヒップラインのネコっぷり!

「釣り場案内マップ」みたいにハイカーや登山客が名付けた奇岩やかつての拝所を網羅した「那須岳案内マップ」があってしかるべきだよなあ。

川は流れる

川は流れる

Amazon

 




筒地の石仏群とつつじ大橋建設中@筒地

那須塩原市上黒磯から那須街道のある那須町筒地を結ぶ黒磯那須バイパスが建設中だ。晩翠橋付近の渋滞を緩和するこのバイパスは、那珂川を渡る「つつじ大橋」を含む2キロほどの工事だ。

新道の脇に並行して段丘下の筒地集落に降りる旧道が残っており、道沿いに石仏群が並んでいる。



個人的な目玉はその存在を知らなかったこの高湯山碑。デカい!

   文化六己巳年
アーンク 高湯山供養塔
   四月大吉祥日

       文化6年(1809) 117cm×78㎝×32㎝

その隣は大正8年徴農軍馬記念碑。第一次大戦後シベリア出兵で第三師団に徴発された愛馬たち きん、好門、瀬越、岩山、松平、人見、木材、萱野、長保、小石、小櫻、平沢号。 

寛政11年の山神、寛政4年の庚申塔文久4年の大黒天など。筒地村と岡室村が合同で建立しているものが多い。高湯山碑は「那須町史」の石碑リストによると所在地が新高久とあるから那須街道の道路拡幅でここに移動されたものかもしれない。

念仏供養塔
[右面]  筒地 岡室
    施主 女人
[左面] 明和八辛卯年  右くろいそ
        十月   左 たかく

馬頭観音群 性神らしきものもある。

十九夜塔と地蔵


石仏群のある旧道から段丘を下りて筒地集落に向かう。


カーブの山際に立派な屋根を掛けられた石碑があった。見た目は碑文のないただの石なのだが、何本かひっかき傷のような線が入ったこの石はなんなのだろう?


こちらが那珂川渡渉点に向かう道と思われる。現在は養豚場に施設があるみたいだ。降りてみたかったが、橋梁工事が行われていて入れなかった。

大輪地原 (那須東原)を東西に横切 って那珂川を渡り、筒地 から高久へと通じて原街道 に交わり白河に至る道を白河道といった。「黒磯市誌」によれば、元文年間に は鳥野目村と筒地村の間を流れる那珂川に橋をかけ通行者から橋銭を徴収していたという。昭和30年前後までは鳥野目・岡室・筒地地区の共同で那珂川に橋をかけて大いに利用していたらしい。

筒地集落

つつじ大橋(この名称、筒地とかけている)が観てみたいので向こう岸にまわってみる。

那珂川河畔公園から鳥野目河川公園に向かう川沿いの道が一般車両も通れるので新しい橋の下に近づくことが出来る。


グーグルマップのストリートビューだと行き来していた名残がなんとなくわかるのだが。

 

まだ黒磯側の段丘上には接続していないようだった。開通が楽しみだ。


筒地の石仏群の向かいの藪に正体不明のミドリの十字を持つ観音像があった。SNSで情報のやり取りをしたところ、那須街道沿いの腰掛松バス停のところに設置されていた交通安全観音が拡幅にともないここに置かれたものだと分かった。確かにうしろに観音像が乗っていたお立ち台もある。腰掛松バス停付近はブラインドカーブになっていて、停留所に停車しているバスを避けようとセンターラインを越えて事故になるケースがけっこうあったようだ。50年ほど前、重大事故のあった各地の危険箇所にこの交通安全観音が設置されたらしい。

参考文献「那須野ケ原の道」(H3)












玉田のソウゼンサマ@玉田


栃木県北に馬頭観音の碑が多数残存することは、この地域のかつての農村社会が馬に強く依存していたことを示している。馬は生産活動の中心であり、家族のように大切にされた「労働者」だった。この碑は、馬の健康や活躍を祈り死を弔うためのもので、その存在は馬への深い敬意と親愛を物語っている。近代化で機械が普及するまで、馬は日本の経済と生活を支える基盤だった。宿駅伝馬として、農耕馬として、明治以降は荷馬事業が盛んとなった。
馬頭観音はもともと馬の神様ではない。阿弥陀仏の化身で、頭上に宝馬をいただくその姿からいつしか馬の守護神として信仰されてきた。馬頭観音のほかに馬力神、勝善神、生駒大神などが信仰された。

 


入り口にある柱には「日本三勝善のひとつ 玉田勝善神社」とある。

矢板市玉田にある生駒神社はソウゼンサマと呼ばれ厚く信仰された。「玉田講」「蒼前講」と呼ばれる講が作られ、生駒神社、生駒大神の碑が建てられた。旧暦正月の28日の祭礼には、飾り立てた馬を連れた多くの参詣者、講中の人達で賑わった。お札や神笹を受けて講員に配ったり、厩の柱にお札を貼って馬の安全を祈った。神笹は細かく刻み馬に食べさせた。


玉田の生駒神社は別名勝善神社、各地で微妙に異なるが、玉田のショーゼンサマ、ソーデンサマ、ソウゼンサマ、ソウデンサマなどと呼ばれている。

平安末期に九尾の狐を退治した勝善親王を祀った勝善神社が前身で、明治期に生駒神社に改名された。勝善親王は、住民や馬・牛を愛し、農耕や家畜の保護、五穀豊穣を祈願した。このため、農村社会で親しまれ、馬の安全や生産の守護神として崇敬されていた。 親王の命日(旧暦1月28日)には、農馬や馬車馬が鈴や五色の吹き流しで飾られ、住民が神社に参拝し、馬の安全や五穀豊穣を祈る慣習が生まれた。馬を引く列が玉田から石関、片岡の方まで途切れることなく続くほどの賑わいだった。農業が機械化され、荷馬車もトラックに替りこの大祭は廃れてしまった。

玉田の生駒神社は玉藻の前調伏を祈願した豊宇気姫命(とようけひめのみこと 産業の神、保食神)を御祭神とし、勝善親王、邇邇芸能命 猿田彦命媼神(子育)命を配祀神とした神社である。由緒によると建久3(1192)年正月28日創立、慶安3(1650)年正月28日鎮座。2024年に生駒神社の例大祭で馬の参拝の再現がされたという記事が下野新聞に掲載された。

www.shimotsuke.co.jp




長い参道を通り、鳥居をくぐった境内にある嘉永4年の神燈に刻まれている奉納者からその当時の信仰圏の範囲をみてみよう。

○御神燈(手前)

[柱右]

嘉永四辛亥年正月ニ十八日

[柱左]

風見山田村

願主 髙野澤惣兵衛

[台石表面]

[台石右前]

一 佱百疋 東泉村

一 同百疋 田野原村中

一 同百疋 下伊佐野村中

一 同百疋 土屋村中

一 同百疋 山田村中

[台石右後]

一 佱百五拾疋 川崎反町村中

一 同百疋   境林村中

一 同百疋   木幡村中

一 同百疋   矢板村中

一 同百疋   上河戸村中

[台石裏面]

一 佱百疋 幸岡村中

一 同百疋 下長井村中

一 同百疋 下長井村中

一 同百疋 鹽田村中

一 同百疋 上鹽原村中

[台石左前]

一 佱二百疋 東泉村

      橋本友右衛門

一 佱二百疋 鷲宿村

      村上新右衛門

一 佱百疋 氏家上新田

      源左衛門

一 佱百疋 大宮友右エ門内

      石屋助右エ門

[左後]

一 佱百疋  大久保村中

一 同百疋  上平村中 

一 同百疋  風見村中

一 同百疋  熊野本村中

一 同百疋  関野沢村中

○御神燈(奥のもの)

[柱右]

嘉永四辛亥年正月ニ十八日

[柱左]

風見山田村

願主 髙野澤惣兵衛

 

[台石表面]

[台石左前] 

一 二百疋 □□□ 漆原七□右エ門

一 同百疋 同村 油屋友右エ門

一 同百疋 同村 吉成十右エ門

一 佱百疋 安沢村 阿美八右エ門

一 同百疋 同村  黒崎利兵衛

 

[台石左後]

一 佱四百疋   西舩生村中

一 同四百疋   東舩生村中

一 同二百五拾疋 押上村中

一 同二百疋   鷲宿村中

一 同百五拾疋  平野村中

[台石裏面]

一 佱百疋 前岡村中

一 同百疋 後岡村中

一 同百疋 下安沢村中

一 同百疋 小入村中

一 同百疋 早乙女村中

[台石右後]

一 佱百疋 石関村中

一 同百疋 大槻村内 梶内中

一 同百疋 氏家宿中

一 同百疋 前高谷村中

[台石右前]

一 佱百疋 金枝村中

一 佱百疋 肘内村中

一 佱百疋 西乙畑村中

一 佱百疋 髙原村 君嶋七□左エ門

一 佱百疋 風見山田村 蓮實俊平

 

○常夜燈

[右]

野州塩谷郡上平村

   関口半兵衛

[左]

安達□兵衛門

加藤□□左衛門

 

○手水


玉田生駒神社 嘉永4年の石塔の奉納者による信仰分布


戦後、浮浪者の失火で焼失してしまうが、現在の本殿はこの神社を信仰する多くの人達によって再建された。


飾り馬を連れてお参りし、お堂の周りをまわり、熊笹の葉とお札を受けてきた。馬の虫かぶり(腹痛)の際にこの笹を食べさせると治ったという。


伝説のひとつに、勝善親王が九尾の狐の退治に失敗し那須野に逃げられてしまったため自害し、その愛馬もそのそばに葬ったのが社前にあった三本杉であったという。玉田のソウゼンサマの三本杉は巨木で有名だったが、最後の一本も終戦後切られてしまった。

敬神 矢板 奉納 大正 などの文字がうっすらとみえる

本堂にある奉納額。大半は退色して読めないが、近代のものは鮮明なものも残っている。本堂内にも奉納額が残っているのだろうか。


生駒大神 軍馬武運長久 昭和十四年十月吉日 片岡馬車職合組合


生駒大神 矢板馬車組合一同 昭和四己巳年 旧正月二十八日吉祥


生駒神社 昭和二年二月二十日 宇都宮駅地 菊池運送 馬車一同


奉納玉田勝善 由緒か


宇都宮合同運搬株式会社 馬車組合創立 昭和三年正月二十八日




厩に貼られた絵馬(お札)


社務所

楽殿

井戸


手水石(享保5年)

玉田のソウゼンサマについて掲載があった市町村史
矢板市史 塩谷町史 喜連川町誌 氏家町史 中塩原の民俗

参考文献:やいたの昔の話 矢板の伝説ほか














東堂山馬頭観音堂@小深堀

 

小深掘、ここは綱子・白河方面から那須温泉へ向かう「湯道」の通過点。昔から馬の育成では名前が出てくる集落で、現在でも酪農がさかんなエリアだ。

小深堀の分譲別荘地の近くに、かつては半俵の馬廻塚と並ぶ馬の健康に霊験あらたかな信仰神とされた場所があった。東堂山馬頭観音である。


石塔のある入口から結構長い小道を行く。参道という感じではないが中央が削られ往来が感じられる。傍らに観音沢が流れ幽玄な雰囲気だ。


途中傍らに馬頭観音の石碑がひっそりと建っている。弘化、明治、大正年間の建立。


数百mほど進むと明るく開けた場所に出て石橋をわたる。


境内側から参道

石橋を渡ると境内に入る。半俵の馬廻塚と比べると境内はかなり広い。右手に永代橋記念碑、左手に手水石がある。

今は静かなこの場所が、かつて馬を引く人々の喧騒と馬のいななきで地響きがするほど賑わっていた場所だなんて信じられない。

 

ちょっと坂を上がって山門が立っている。馬廻塚のものより大きいがこちらは明らかに納屋っぽい作りだ。


山門から本堂を見上げたところ。東堂山馬頭観音の境内は広いのだが、本堂は小山の上に立っており、石橋、山門、灯籠、本堂と雛壇状に配置しており、その中央の粗雑な石段を上がっていく。


本堂側から山門を見下ろしたところ。

 

山門を過ぎて次の段に上がると左右に立派な天保11年(1840)の石灯籠がある。左右とも火袋の部分が潰れて笠石が載っていた。江戸後期にはそれなりの堂宇が存在したのではないか。

石燈籠のある段から本堂を見上げたところ。これが小深堀の東堂山馬頭観音堂だ。手前にみえる1対の柱は例大祭の幟を立てる支柱だ。

那須町誌に掲載の小深堀東堂山馬頭観音堂の由緒を読んでみよう。

抑も小深堀坪東堂山馬頭観音の儀は 文化十二丑年中奥州三春在田村郡尾野上村東堂山より當所古来より有り来る馬頭觀音堂へ御眞體を移し置き候處

そもそも、小深堀の東堂山馬頭観音というのは、文化12年(1815)丑の年(※実際は乙亥)に、奥州三春藩領の田村郡尾野上村(現在の福島県小野町にある『東堂山満願寺』)から、もともと小深堀に古くからあった馬頭観音堂へと、御真体を移してお祀りしたのが始まりです。

鵜黒の駒信仰の馬廻塚馬頭観音に対抗して、福島の霊験あらたかな東堂山馬頭観音を勧請してくるなんて、ますます那須駒が健康で丈夫ないい馬になってしまうじゃないか!

 

今段御本堂大大破に及び候に付坪中拾名を以て評議之上新に立替之事を計り候 明治六癸巳年旧三月中本縣へ出願致し候處 御許可相成候に付 諸御信心之御方は多少ヲ不論御寄附之程ヲ賜り候故に 明治廿六癸巳年則ち十二月廿七日立まいに相成候共 出来上り之儀則明治廿七年舊六月十二日 出来相成候

その後、御本堂が激しく壊れてしまったため、集落の10名で話し合い、新しく建替える計画を立てました。明治6年(1873年)(※干支は癸酉由緒には癸巳と記載)旧3月に栃木県へ出願したところ、無事許可が下りました。そこで信心深い多くの人々から、額の多少を問わず広く寄付を募いました。その結果、明治26年(1893)癸巳 12月27日にようやく棟上げ(立まい)にこぎつけ、翌明治27年(1894)旧6月12日に立派に完成いたしました。

 

明治廿八年甲午旧一月十六十七両日間入佛して芝居興行仕候 處此時○○○ 物集る事老若男女凡五千餘数知れず右之通委細記載仕り候也
明治廿八甲午年旧六月 東堂山別当 高福寺 世話人

そして明治28年(1895)甲午(※実際は乙羊 甲午は前年)旧1月16日・17日の両日間、新しい本堂に仏様をお迎えする「入仏式(開帳)」を執り行い、お祝いの芝居興行を開催いたしました。この時、境内には老若男女がどっと押し寄せ、その数はおよそ5,000人以上、数え切れないほどの大賑わいとなりました。以上の通り、事細かにここに記録いたします。
明治28年甲午 6月 東堂山別当 高福寺(那須町高久の高野山真言宗の寺)

 

旧暦2月17日の祭礼には、盛装した馬数100頭が境内出に溢れ、参詣の人で埋るほど盛況であったそうだ。昭和50年代前半発行の那須町誌によれば、縁起にある明治28年建替えられた堂宇(山門本堂)が、「近年焼失したのは残念である」と書いてある。現在の山門と本堂はそれ以降に建替えられたもののようだ。いつ頃火災にあったのか。当時の本尊は無事だったのか。いろいろ疑問は残るが現状で分かるのはここまでだ。
本堂の右手にも山道が伸びている。こちらも参道だったのだろうか。また来る機会があれば辿ってみたい。

参考:「那須町誌後編」

 

garitune.hatenablog.jp