
那須町迯室にある長久寺に来た。ここ迯室は黒羽藩の時代から良馬を産出する地だった。迯室で馬市が行われ売買が行われた謂れの刻まれた産馬大神の碑がある。

産馬大神碑
高さ306cm 横193cm 厚さ133cm
[表面]
産馬大神
青木子爵之真跡
[裏面]
我カ下野産馬組合ハ昔時黒羽芦野両藩主ノ施設サレシニ濫觴ス
明治六年塩那産馬共同会成リ生産幼駒売買糶市場ヲ黒羽向町二
設ケヌ然ルニ明治廿三年同会社瓦解スルニ至リ那須村ハ茲ニ独立シ
専ラ馬匹ノ蕃殖ヲ図リ且ツ毎年糶市場ヲ大字高久二開催シヌ
越テ廿七年栃木県庁ノ那須郡ヲ三産馬組合ニ区分スルヤ北部高久組ハ
奨励ノ為ニトテ県ヨリ種牡馬三頭ヲ下附サレシカ其ノ事遂ニ空シカラス
事業漸ク発展ノ緒ニ就キス
次テ卅一年糶市場ノ逃室二移サルルヤ吾人ノ努力スヘキ好機ニ入リタルヲ
自覚シキ卅四年那須郡産馬組合成ルヤ高久組亦之ニ加盟セシカ糶市場ハ
依然逃室ナリキ
組合ハ馬格ノ改善ハ優良ナル種馬ニ俟タナル可カラサルヲ認メ
卅六年下総御料牧場ヨリ洋種牡馬ハクニー種第九フォレーストビユー号ヲ
横浜ヨリ濠州産種牡馬チェリー号ヲ購入シテ組合各部ニ配置シタルヲ
始メトシテ翌年又青森県馬産地ヨリ種牡馬数十頭ヲ購入シタル等
爾来年々多少ノ種牡馬ヲ購入シテ事業ノ発展ヲ画リ又其ノ下野産馬組合ト
改称セシハ明治卅九年ノ事ナリ
回顧スレバ糶市場ノ此ニ移サレシ以来年ヲ重ヌル十三其ノ時日短ナリトセズ
組合ノ事業亦正二見ルニ足ルヘキモノトナリ年々ノ生産幼駒ハ実ニ六百余頭ノ
多キヲ数へ其ノ販路ヨリスレハ関東東北関西ヨリ達ク四国ニ互ルノ盛況トナリ
逃室糶市ノ名漸ク世人ノ注意ヲ惹カントス此ノ順潮ヲ見ルニ至レルハ組合ノ
画策其ノ宜シキヲ得タルニ基因セルハ元ヨリ論ナシ然リト雖モ毎年ノ糶市場ニ
対シテハ吾人ノ努力必スシモ多少ノ補フ所ナシト言フヘカラス其ノ補ヤ誠ニ
徴ナリト雖モ今ヤ此ノ盛況ニ接ス吾人豈多少ノ感ナカランヤ然レトモ生産馬事業ノ
前途尚遼遠ナルニ想到スレバ斯業隆盛ノ希望ヲ将来ニ持スル事甚ダ切ナルヲ
覚エスンバアラス夫レ思フテ述へ情動キテ詠スルハ豈惟ニ文人詩客ノミト
云ハンヤ茲ニ産馬大神ノ碑ヲ建設スル所以ハ他ナシ一ハ以テ此ノ盛況ニ遇ヒ内ニ動ケル至悦ノ情ヲ述へ一ハ以テ斯業ノタメ将来二限リナキノ希望ヲ繋カンカ為ノミト云爾
大君の御世のさかえを那須野原 幾千代かけて駒はいさまん
明治四十三年十一月十五日建設
白石桂玉之書
[上段台石,表面]
寄付金一覧 略
那須の馬産の始まりは、江戸時代の黒羽藩と芦野藩の熱心な馬産政策に起源がある。
明治6年に塩谷郡と那須郡が協力した「塩那産馬共同会」ができ、幼駒(子馬)を売買する競市場を黒羽向町に設けた。明治23年には会社が解散したため、那須村は独立。ひたすら馬の繁殖に努め毎年市場を高久で開催するようになる。
明治27年、栃木県庁は那須郡を3つの産馬組合に分け、北部の高久組には奨励のため、県から種牡馬3頭が与えられた。これが大成功し発展の糸口を掴んだ。
明治31年、馬市場が高久から「逃室」へ移され、当時の逃室の人々は好機の機会がやってきた!と激しく奮起した。明治34年、那須郡産馬組合ができ高久組も加盟。市場は引続き逃室で行われた。
組合は、馬の質(馬格)の改善は優秀な種馬を用意しなければいけないことを認め、
明治36年、天皇家が所有する最高峰の牧場「下総御料牧場」から、イギリス原産の高級馬「ハクニー種(第九フォレストビユー号)」を購入。さらに横浜からオーストラリア(豪州)産の種牡馬「チェリー号」を購入。翌年、馬産の本場である青森県からも数十頭の種牡馬を購入した。
その後、毎年いくらかの種牡馬を購入して事業の発展を図り、またその名称を「下野産馬組合」と改めたのは、明治39年のことである。
振り返れば、競市場がここに移転してきてから13年という歳月が重ねられ、その期間は決して短いものではない。組合の事業も、まさに注目するに値する実績が得られ、毎年の生産仔馬数は実に600頭余という多さに達している。その販売先に目を向ければ、関東、東北、関西から遠くは四国にまで及ぶほどの盛況ぶりとなっている。
逃室の競市場の名はようやく世間の注目を集めるようになってきた。このように順調な流れを迎えるに至ったのは、組合の計画や対策が正しかったことは言うまでもない。だが毎年の競市を行う我々の努力もまた、いくらかの貢献をしていなかったとは言えない。その貢献は本当にわずかなものだが、今こうして大盛況の様子を目の当たりにし、我々の中に感慨深いものが湧き起こらずにいられない。馬産事業の行く手はまだ遥か遠く長いものであると思い至ると、この事業がさらに隆盛していくという希望を将来に対して抱く気持ちが、非常に切実であると感じずにはいられない。そもそも、心に深く思いを馳せてそれを言葉に表し、感情が動いて詩歌を詠むというのは、どうして文人や詩人たちだけの特権だと言えるだろうか。
ここに産馬大神の碑を建立するのは他でもない。ひとつはこの大盛況の時代に巡り合えたことで我々の心に沸き起こったこの上ない喜びの気持ちを残すため、もうひとつは馬産事業のために将来に向かって限りない希望を託す、ただそれだけだ。
大君の御世のさかえを那須野原 幾千代かけて駒はいさまん
(天皇陛下が治めるこの国の栄光と共に、那須野ヶ原で育った名馬達が、幾千代の未来までも勇ましく駆け巡るだろう)

明治31年、軍馬補充部白河支部那須派出部が現在の田島に事務所を構える。軍馬の供給を担う育成牧場がこの地に出来たことは、同年馬市場が高久から迯室へ移されたことと無関係ではないだろう。
この血統改革が見事に実を結び、毎年生まれる子馬は600頭を超え、その販売先は関東・東北・関西を越えて、はるか四国にまで至る大盛況となった。「逃室市場の名、ようやく世人の注意を惹かんとす」という一文には、迯室が日本全国からバイヤーが集まる一大馬市場に成長した大きな自負に溢れている。
那須郡産馬組合の発足で馬の競り市を迯室、大原間、黒羽向町、沢の4か所に集約したが、明治36年には馬頭と黒田原を追加した。鉄道開通により物資や馬の輸送効率が劇的に変わった。利便性の高い黒田原と軍馬補充部那須派出部に近い迯室。那須駒の新時代が始まった。ここからの展開は黒田原馬市場跡に建つ「鹿野運藏畜産功績之碑」の内容も見てほしい。
補完する情報として「那須村郷土教育資料誌」(S5)の「逃室馬市の由来」には
明治三十二年下野産馬組合に加入後、黒田原(春)及び逃室(夏)両地に各々三日間宛開催せられしも、當地方の馬格向上を軍馬購入地として、指定により、市場も一ヶ所逃室に開くに至る。期間は毎年八月十日より向ふ一週間とす。年々軍馬として購入せらるる数は八頭を限度とせしが近時軍縮の影響により、六頭を通例とし、價格は三百円より三百五十円の間にて購入せらるる。
黒田原と迯室で3日間春夏交互開催、軍馬補充部関係は迯室で8月に1週間別開催とある。
現地の方によると、この碑はもともと長久寺境内にあったわけではなく、那須高原SA南側の2m程の高台の上にあった、というお話を伺った。


実際にその場所に行ってみた。知ってた?那須塩原SAって高速道路に上がらなくても訪れることが出来るんだね。R4の迯室交差点から那須高原スマートインター線(かつての軍馬道である県道349号)に入って、ETC専用入口の手前にある那須塩原SA(上り線)外部お客様駐車場から入れる。

長いドライブでエコノミー症候群寸前の体を解きほぐす、木道の敷かれた緑地帯が広がっている。

地元の方の話だと、このあたりにもともとあの産馬大神碑があったというんだなあ。
実際の迯室馬市場はどのあたりにあったのか。「那須野が原の馬の飼育事業」による聞き取りによると「問屋のところで開かれた」とある。だとするとここからすぐ近くの陸羽街道沿いになる。しかし、この碑がもともと建立されていた場所付近がなんとなく怪しい。
産馬大神碑のとなりに並ぶ種馬碑についても見てみよう。

高さ278cm 横201cm 厚さ131cm
[表面]
種馬碑(原文は横書)
種牡馬第九フォレストビュー号明治
三十五年三月産於下総御料牧場翌三
十六年十月為下野産馬組合所購入同
三十八年合格種馬検査爾来供用種馬
及十七ヶ年大正十年五月二十八日病
死其間栃木県産馬改良上挙異例之成
績依茲建設碑以為記念云爾
大正十年八月十三日 如水書
[裏面]
賛成者(原文は横書) 以下賛同寄付金省略
産馬大神碑でも言及されていた那須駒の馬格の改善において重要な役割を果たした、下総御料牧場より購入したハクニー種の第九フォレストビュー号の記念碑である。
種牡馬「第九フォレストビュー号」は、明治35年3月に天皇家直轄の下総御料牧場で生まれた。翌明治36年10月、下野産馬組合によって購入され、明治38年に正式な種馬検査に合格。以来、17年という長きにわたって種馬として活躍し、大正10年5月28日に病気のため亡くなった。その間、栃木県の馬の改良において誰も成し遂げられなかったほどの大変な成果を挙げた。そこでここに碑を建設し、その偉大な功績を永く記念するものである。大正10年8月13日 如水 書
馬の種付け(交配)活動を17年間も現役で続けたというのは、馬の寿命や体力を考えても並大抵のことではない。大正10年(1921年)に没するまで、まさに「生涯現役」で那須の馬のために尽くし、地域の人々に家族以上に大切に思われていたことが分かる。
第九フォレストビュー号が残した子供たち(産駒)が驚くほど優秀だったこと、それまでの那須駒(日本の在来馬のなかでもがっしりとした南部馬などを改良していたが、それでも小さくてずんぐりした馬)に、イギリスの名門馬である彼の血が入ったことで、那須駒は見違えるほど大きく、強く、美しい馬へと進化した。産馬大神碑にあった「関東・東北・関西・四国まで販路が広がった」という大盛況の立役者は、まさにこの一頭の馬だったのだ。
種牡馬の第九フォレストビュー号といえば、半俵にある馬廻塚馬頭観音にもフォレストビュー号の碑がある。

長久寺の脇の那須高原SA・スマートICに向かう道はかつて「軍馬道」と呼ばれていた。旧軍馬補充部白河支部那須派出部へ向かう道だ。迯室馬市場は軍馬の供給場所でもあったわけだ。
「那須野が原の馬の飼育事業」石ぐら会 櫻井昭男(2018)
「那須町の記念碑」那須町教育委員会(2005)









誠之介と万屋の昭吉、玉屋の加代ちゃんは竜吉とお満を連れ立って黒羽向町の町並みを奥沢村方面に歩いてくる。明王寺を過ぎると高岩神社のこんもりとした杉林が見えてきた。ずっとまっすぐだった道が高岩神社の前で方向を変えるのだが、これは城下町の特徴の桝形になっていた部分かな。
という創垂可継に収められている文化文政期(1084~1830)の「封域郷村誌図面」という地図には、真っ直ぐな向下町・向上町の町並みの北端に木戸が描かれている。ちょうどこの場所だ。「封域郷村誌図面」には赤い屋根の「不動」は描かれているが、北側に茶色で着色された建物は描かれているだけで神社は描かれていない。どういうことだ?













このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。
辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。
またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある那珂川の高岩の深い渕に住む竜神様の頭であると信じられていた。村の人々は竜神の頭がここ辰口で、その尾っぽは緒川あたりまで及んでいると想像した。
高岩波切不動尊は、那珂川で帆かけ船や筏で舟運が行われていた時代、近郊農民の五穀豊穣と水運の無事息災を祈願したという。その昔、那須与一が屋島の合戦で扇の的を射るとき、鵜黒の駒を海に乗り入れ波立たぬようにこの不動尊に祈願した。この波切不動の霊験によって波が鎮まり、見事扇の的を射落とすことができたと伝えられている。
高岩山密蔵院明王寺に付属し、初め桧木沢二ッ滝の地にあったが、寛永年中に藩主大関土佐守高増が黒羽城より眺められるこの地に移転させたという。寺伝によればこの波切不動尊像は仏師運慶の作と伝えられる。



森 詠さんといえば栃木県北を舞台にした自伝的小説「オサムの朝(あした)」それに続く「那珂川青春記」「日に新たなり-続・那珂川青春記-」と「少年記 -オサム14歳-」である。東京から疎開してきた少年の目を通した昭和20年代の生活描写が郷愁を誘い、原作本は地元でも大いに売れて映画化もされた。










カニ岩
ネコ岩だ!このヒップラインのネコっぷり!

新道の脇に並行して段丘下の筒地集落に降りる旧道が残っており、道沿いに石仏群が並んでいる。


個人的な目玉はその存在を知らなかったこの高湯山碑。デカい!
その隣は

寛政11年の山神、寛政4年の

十九夜塔と地蔵








まだ黒磯側の段丘上には接続していないようだった。開通が楽しみだ。
筒地の石仏群の向かいの藪に正体不明のミドリの十字を持つ観音像があった。




































神
井戸








ちょっと坂を上がって山門が立っている。馬廻塚のものより大きいがこちらは明らかに納屋っぽい作りだ。





石燈籠のある段から本堂を見上げたところ。これが小深堀の東堂山馬頭観音堂だ。手前にみえる1対の柱は例大祭の幟を立てる支柱だ。




