がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

メモ:軍馬補充部発足以前と軍馬の去勢論争

馬とかかわりの深い那須地方の馬頭観音信仰や那須駒について、あちこちふらふらしながら調べていくうち、基本的な近代の歴史の流れや時代背景についてよく知らないことに今さらながら気づく。軍馬補充部発足以前の日本の状況、馬産農家の多くは、小農あるいは自分で馬を購入できない小作人たちだったこと。ろくに訓練もされていない徴発馬を軍馬として戦地に連れて行ったこと。いったい何割の馬が無事日本に戻ってこれたのだろう?知ってより現実味が帯びるにつれ、もう俺の興味のある「郷土史ちょっといい話」の範疇ではないなと思いつつも、より正しい理解のためにまとめておきたい。

 

日清戦争(1894〜1895年)や義和団の乱(1900年)当時における日本の馬の質の悪さと、軍馬としての実用性の低さは、高名な騎兵指揮官であった森岡大佐でさえ、あまりの扱いにくさに疲れ果て、「こんな役に立たない馬どもは、帰国時にすべて海に沈めてしまいたい」と愚痴をこぼさざるを得ないほど、当時の日本の軍馬の状況は深刻だった。

当時の日本の軍馬は去勢されていない牡(オス)馬が多かったので、非常に気性が荒く、前線で激しく暴れたり喧嘩を始めたりして、軍の統制を著しく乱した。西洋の軍馬に比べて体格が小さく、ぬかるみの多い大陸の戦場ではすぐに疲弊し、実用に耐えなかった。日本軍が現地で捕獲した清国の馬(支那馬)は、性質が温順で忍耐強く、非常に扱いやすかった。そのため、捕獲した支那馬の方が役に立つため、日本軍の徴発馬の3分の1から3分の2は払い下げ、支那馬に乗り換えたという主旨の記録も残されている。

義和団の乱が日・英・米・露•仏・伊・独・澳 の8か国が共同出兵した北清事変に発展した際、日本の軍馬の悲惨な状況を各国に露呈させることになった。日本の牡馬は外国の牝馬を見ると、軍紀を無視して興奮し、味方だけでなく同盟国の行列に突撃して大混乱を引き起こしてしまった。さらに、興奮して人間や他の馬を噛み殺そうとするため、戦地で射殺せざるを得ない馬まで出た。

当時の日本軍の軍馬は、ほとんどが去勢されていない「牡(オス)馬」だった。日本の伝統的な馬術や武士の文化では、「去勢した馬は覇気がなくなる」「荒々しい馬を乗りこなしてこそ一人前」という意識が根強く残っていたためだ。

一方、アメリカやヨーロッパの軍隊では、軍馬を扱いやすくするため、また戦場で興奮させないために、去勢(セン馬)するか、あるいは牝馬を上手にコントロールして運用していた。メスが混ざっていても整然と行動できるほど「順柔」に訓練・管理されていた。

この北清事変での「大恥」と大損害に直面した日本軍は、外国軍とのあまりのレベルの差に愕然する。これがきっかけとなり、明治政府は猛省し、大規模な「軍馬改良計画」や馬の去勢を義務付ける政策を急ピッチで進め、日本の馬の改良と近代化が急速に進むことになる。

 

明治時代の日本軍における「軍馬の去勢論争」は、単なる獣医学的な議論ではなく、「日本の伝統的な武徳・精神論」と「近代的な軍事合理性」が争う一大論争であった。

去勢反対派(伝統・精神論派)

明治初期から中期にかけて、陸軍内や国内の馬産地では「去勢絶対反対」の意見が圧倒的だった。

「馬の覇気がなくなる」という精神論

武士の時代から「荒々しい悍馬(かんば)を乗りこなしてこそ一人前」という文化があった。「去勢した馬(セン馬)は牙を抜かれた抜殻のようになり、戦場で突撃する勇猛さが失われる」と本気で信じられていた。

「種馬」が減ることへの危機感

当時の地方の有力者や馬主たちは、去勢によって優秀なオス馬の血統が絶えてしまい、日本の馬の生産(馬産)が衰退することを恐れた。

技術の未熟さとリスク

当時の日本には、安全に馬を去勢する獣医学的技術や衛生環境が普及していなかった。手術の失敗による死亡リスクを恐れた。

 

去勢推進派(近代化・合理主義派)

フランス留学から帰国した「日本騎兵の父」秋山好古や、欧米の軍事事情を知る一部の獣医官・将校たちは、早くから去勢の必要性を訴えていた。

欧米の駐在武官からの酷評

明治初期に日本へ来たヨーロッパの軍人たちは、日本の牡馬を見て「日本人は馬の形をした猛獣に乗っている」と呆れ果てていた。欧米では、軍馬を去勢して扱いやすくするのが世界の常識であったからだ。

戦術・兵站上の致命的欠陥

去勢していない牡馬は、敵の馬や牝馬の匂いを嗅ぐと激しく興奮し、いななき(鳴き声)をあげる。これは「隠密行動や夜襲が不可能になる」ことを意味し、軍事作戦上、致命的な弱点だった。また、輸送中に暴れて兵士を負傷させることも日常茶飯事だった。

 

論争の転換点となった「二つの戦争」

この平行線の論争を終わらせたのは、実戦での大失敗だった。

日清戦争(1894〜1895年)での露呈

日本軍の牡馬たちは戦地で暴れまわり、作戦に多大な支障をきたした。日本軍は「やはり去勢が必要だ」と痛感し始めるが、国内の馬産農家や保守派の抵抗が強く、法制化には至らなかった。

義和団の乱(1900年)での「決定的な大恥」

先述のエピソードの通り、欧米列強との共同戦線において、日本軍の馬だけが牝馬を見て大混乱を起こし、他国の軍隊から「家畜ではなく野獣だ」と失笑・軽蔑された。各国の軍人が見ている前で大失態を晒したことで、陸軍の上層部もついに「精神論」を捨てざるを得なくなった。

 

結末:法律の制定と「在来馬」の消滅

義和団の乱の翌年、1901(明治34)年に「馬匹去勢法(ばひつきょせいほう)」がようやく成立する。これにより、軍馬や民間が飼育するオス馬(種牡馬を除く)の去勢が段階的に義務付けられた。 さらに、日露戦争(1904〜1905年)でのロシア・コサック騎兵との激戦を経て、日本軍は去勢だけでなく「そもそも日本の在来馬は小さすぎて西洋馬に勝てない」という現実にも直面する。 結果として、政府は「第一次馬政計画(1906年〜)」を立ち上げ、以下の大改革を断行する。

1. 日本の小さなオス馬を片っ端から去勢する
2. 海外から大型の西洋馬(サラブレッドやアラブ種など)を輸入し、日本の牝馬とかけ合わせる。

この国策により、わずか30年ほどの間に日本国内の馬の9割以上が洋種との雑種(大型・去勢済)へと置き換わった。軍馬の質は劇的に向上したが、その代償として、中世から日本の合戦を支えてきた「南部馬」などの優秀な日本在来馬の純血種がほぼ絶滅するという、文化的な悲劇も生むことになった。

軍馬の去勢論争は、「日本の精神」にこだわり続けた結果、近代戦のリアルな現実に力づくで方向転換を迫られた、明治という時代の縮図のような出来事だったと言える。

 

参考文献:

「日本在来馬と西洋馬」小佐々学 
「軍馬改良と名馬の産地―明治期の戦争がもたらした矛盾―」堀内 孝

軍馬補充部那須派出部

那須地方の馬が全国に誇る「那須駒」として大きく発展した背景には、国の軍事需要、とりわけ近代的な軍馬育成施設がこの地に置かれたことが深く関係している。
明治政府にとって、戦争や物資の運搬を支える軍馬の育成は、国の命運を握る重要なプロジェクトだった。それが「軍馬補充部」の設立だ。

軍馬補充部は、戦争で使う騎兵、食糧や弾薬、大砲を運ぶ馬を育てる軍の機関だ。もちろん馬の餌の栽培や蹄鉄の作成などすべてのことが行われていた。

日清戦争(1894-1895)の際は約2万5千頭の馬が軍馬として駆り出されたが、人にかみつく、力が弱く大砲が曳けないなど問題が多く、戦闘員より馬を扱う人員の方が大量に必要になるような状態だった。馬の質の改良(馬体を大きく力を強くする、大砲の音に驚かないように躾ける)が急務だった。

陸軍により全国に7つ置かれた軍馬補充部の「白河支部」(本部:福島県西郷村)の重要な出先機関として、明治31年(1898年)9月、那須村田畑(現在の那須町田島)に「那須派出部」が新設され軍馬の育成が行われた。

 

逃室交差点を那須高原SA方面へ。これがかつて軍馬道と呼ばれた軍馬補充部白河支部那須派出部に向かう道だ。

5万分の1地形図「那須嶽」初刷1910年(明治43年)発行より 逃室付近

 

那須高原SAの東京方面入口を通り過ぎたところにある十字路から先が、かつて派出部があった場所だ。

今昔マップon the wabを利用した現在の航空写真と初刷り地形図に描かれた那須派出部事務所付近の道路と建物を重ねたもの。

ktgis.net

 

事務所と施設を取り囲む土塁が当時の地形図の通り残っている。

那須派出部略図 「那須の太平洋戦争」より

派出部には事務所をはじめ分宿舎、廐舎等20余棟があり、常時約100人の軍人、職員、臨時の時は約300名の人々がこの任にあたった。更に現在の千振には高津分厩が置かれて軍馬の飼育にあたった。

このへんが正門になるのだろうか。この先東北自動車道の高架構造の高速道路が那須派出部の施設群跡地を東西に横断している。

正門近くの敷地を取り囲むように城壁のような土塁が残っている。土塁のあるお宅の方にいろいろお話を伺ったあと、土塁の上に登らせてもらった。

那須派出部略図のこの位置には「遥拝所(ようはいじょ)」と書かれている。

戦前戦中において、学校や軍隊、あるいは日常生活のなかで、毎朝、あるいは特定の行事の際に皇居の方角に向かってお辞儀をする「宮城遥拝(きゅうじょうようはい)」が全国民に奨励された。当然軍の施設であるからこういった場所があるのだな。現在の持ち主さんはこちらに素敵な東屋を作っておられた。
北側の道を挟んで向こう側は「風見」とある。風向計や百葉箱など気象観測機器があった場所か。

 

高速の高架をくぐって右手の高台に墓地がある。那須派出部跡地を俯瞰できる場所だ。

左側の高速道路路側帯から。辺りは木々が茂っており、厩舎や関連施設が建っていた状態を想像するのは難しいが、高速道路下に堆肥舎、馬糧庫が並び、ここからの正面左右に厩舎が並ぶ感じだろうか。


田畑(田島)にあった奉納厩舎(愛国舎)「那須の太平洋戦争」より



高速道路路側帯をもう少し西に行った地点から。このへんに事務所と施設を取り囲む西側の土塁があったと思われる。

那須牧場の看守仮小屋 西郷村歴史民俗資料館所蔵

 

那須高原スマートインター線の「兼ちゃんのうどん屋だよ」を過ぎたあたりのところに那須派出部の北側の土塁と裏門があった感じか。「兼ちゃん」の北西にある丘は、那須派出部を囲う土塁の名残りなんだろうか?店主さんからはこの「丘」についての情報は得られなかった。

兼ちゃんのうどん屋だよ

那須派出部が置かれた田畑地区(現在の田島)はもともと谷地(やじ)と呼ばれる湿地帯だったため、構内全体に土管を埋める大規模な暗渠排水が施されたという 。


トラクターと馬力による牧草刈 西郷村歴史民俗資料館所蔵

また、馬の良質な飼料(大麦、とうもろこし、燕麦、大豆などの穀物や牧草)を自給自足するため栽培し、広大な農場でトラクターや石油発動機といった当時のアメリカ製最新農具が導入されていた 。

 

高津牧場高津看守舎構内運動場での逍遥 西郷村歴史民俗資料館所蔵

ここでは、関東や東北地方から集められた優秀な2歳の若駒たちが、5歳の秋に立派な軍馬として全国の軍隊へ送り出されるまで、大自然の中で大切にたくましく育てられていた。

 

厩舎内の餌与状況 西郷村歴史民俗資料館所蔵

 

牧場は陸軍の用地として約2000町歩にもわたり、ニ歳から五歳までの牡馬だけが300頭ほど飼育されていた。購入した二歳駒を、3年間の飼育で各師団部に軍馬として送りだした。 飼育法は、冬から春は主に廐舎で、6月から11月中旬までは現在の町営模範牧場付近を中心に那須山麓一帯に放牧していた。

 

支部本厩の逍遥運動 西郷村歴史民俗資料館所蔵

冬の間は厩舎で飼育されるが、5月になり野山の草が伸びると放牧が始まる。春から夏にかけて、山の草の成長に合わせて標高の高い高津や大島(現在の那須町大谷)、八幡平へと順次移動させていった 。さらには泉村(現在の矢板市長井と下伊佐野)の白河軍馬補充部泉出張所にも移動した。泉出張所への移動は、1人が2頭に付き200頭の長い列を作って国道を徒歩で移動したのだという。

泉出張所看守舎 西郷村歴史民俗資料館所蔵

5万分の1地形図「那須嶽」には、軍馬補充部が広大な放牧地内に築いたとんでもない長さの土塁(外囲土塁・境界土塁)が描かれている(ピンクのマーカー部分)。最良の軍馬を育てるため、馬たちが民有地へ逃げ出さないように敷地を区画する必要があったからだ。重機のない時代、すべては人々の手によって作られたものだった。

西郷村 台上地区に残る土塁遺構

白河軍馬補充部本部のあった「西郷村史」によると、土塁は基底9尺(約2.7m)、高さ6尺(1.8m)で、周囲の地形を利用しながら両脇を溝状に掘り下げ、その堀った土を盛り積み重ねるだけの簡易な工法だった。

www.vill.nishigo.fukushima.jp

 

初刷地形図の軍馬補充部の放牧地の土塁を「今昔マップ」でみてみると、現代の地図の同じ場所に重なる線(ツギハギマークの実線)がみられる。湯本の東側と諸石の東側。 これを現代の地図に残すってことは今も土塁は存在するのか?これらは御用邸の敷地との境界線になっているようだ。

放牧の軍馬と牧手 「那須の太平洋戦争」より

馬100頭を1馬群として、20頭に1人の割合で専門の「牧手(まきしゅ)」が付き、放牧場の仮小屋やテントで寝泊まりしながら不寝番を立てて管理していたという。毎日、それぞれの馬の体温を測定記録し、月に一回削蹄した。牧手は一頭一頭の性質や特徴を把握し、遠くからでも馬を見分けられたというからすごい。

 

白坂厩構内 誘導運動  西郷村歴史民俗資料館の展示より

軍馬は、戦地で働くために、旋回や方向変換、横木、堆土、水濠通過等を訓練する誘導運動や、人馬、 砲車、戦車、音響に慣れさせる目的の逍遥運動の訓練を行った。


○馬匹共同運動場の碑

高津公民館、高津湯泉神社にある馬匹共同運動場の碑


馬匹共同運動場
高津馬匹生産育成利用組指導者 鹿野運蔵
昭和八年三月七日竣工

黒田原馬市場跡に建つ鹿野運蔵畜産功績の碑によれば、古くから乗用馬、農耕馬を育てる一大拠点だった那須地方において、鹿野運蔵はその近代化を獣医学の知識で押し進めた重要人物。 優良な種馬の導入:産馬組合と協力し先進地から優れた種馬を迎え入れた インフラ整備:共同運動場の設置や牧草地の改良・整備を推奨 伝染病の予防と指導:専任の技術員として馬を飼う業者たちを指導 販売・衛生の改善:馬の販路の拡張、出産率の向上衛生環境の改善に尽力 などを行った。 昭和8年当時、この付近は陸軍軍馬補充部 白河支部高津牧場であり、放牧地のなかに馬匹共同運動場のエリアを設け、軍馬としての調教を行なっていたのではないか。


○軍馬農場跡碑

明治30年、旧日本軍軍馬補充部白河支部が西郷村小田倉に設置され、那須派出部が翌31年に設置された。事務所は現在の田島地区にあったが、各分厩に通じるトロッコ線路跡の道沿いにある大岩に軍馬補充部の農場の顛末について刻まれている。 大正14年11月30日、軍馬補充部白河支部那須派出部は軍縮のため一時廃部となったが、昭和6年の満州事変の勃発により、昭和8年、高津牧場(事務所は千振)として再興され、派出部用地が陸軍軍馬補充部高津牧場放牧地に移管編入され、昭和20年の敗戦まで軍馬が飼育された。


高津厩舎の向かうトロッコ跡の道沿いにある。

軍馬農場跡
[表面]

大正拾四年十一月卅日
軍馬農場跡
昭和十年一月
陸軍々馬補充部用地ニ移管
   放牧地編入
[裏面]
昭和廿一年
   三月

 

 

那須派出部は、大正14(1925)年に国際的な軍縮政策の煽りを受けて一度は廃止されてしまう。 しかし、昭和6年(1931年)に満州事変が勃発すると軍馬の需要が再び急増 。昭和8年(1933年)には、かつての高津分厩の跡地に「高津牧場」として再興され、昭和20年の終戦を迎えるまで再び多くの軍馬がこの地を駆けることとなる。

www.town.nasu.lg.jp



○高津牧場 看守棟

千振保育園・逃室小学校千振分校跡近くに残る「高津牧場事務所跡」と呼ばれている建物。西郷村歴史民俗資料館所蔵の写真のキャプションは「看守棟」だ。「那須の太平洋戦争」にある高津分厩、高津牧場見取り図でもほかに事務所的な建物はないようだ。

高津牧場 看守棟 西郷村歴史民俗資料館所蔵
外観は当時の写真そのままで、残っているのはすごい。

お隣にお住いの方にお話を伺ったが、戦後の千振開拓の際におじいさんの世代が払い下げて使用していた建物、ということで高津牧場についても特にご存知ではなかった。物置小屋として使用されていた。

高津分厩 トロッコ跡の道 広く開けた場所は、逃室小学校千振分校跡。


戦争が終わると軍馬補充部は解体されたが、その広大な跡地は戦後の重要な役割を果たす。外地からの引揚者や地元の農家の二・三男などを多く受け入れる大規模な開拓地(入植地)へと生まれ変わった。現在、那須の美しい酪農地帯や農地として知られる千振などの美しい景観は、この軍馬補充部が遺した広大な土地がベースになっている 。

「那須町誌後編」「那須の太平洋戦争」「西郷村立村百年史」「西郷村史」
協力 西郷村歴史民俗資料館(旧軍馬補充部白河支部事務所)

カナツボ石@北温泉

北温泉のある余笹川の渓谷に降りてゆく手前の駐車場の奥、平成の森遊歩道として整備されたこの道は、かつての白河道だ。白河から三斗小屋宿を襲撃に向かう北回りグループの館林藩の本営隊、一番隊、黒羽藩の三番隊が通ったルートか。


登山道以東の温泉道の左側にカナツボ石がある。上部に窪みがあるなんてことのない岩だ。口碑によると、むかし那須餘一宗隆の夫人がここを通ったとき、この窪みにたまっていた水で歯にかね(お歯黒)をつけたというのだ。


近隣の矢隠し石(ヤグラ石)と八幡平の馬場は与一が修行をしたという伝説の地だが、ここで夫人が登場、というのはなんとも蛇足感がある。まあおもしろいからいいけど。

「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬 昭11より

garitune.hatenablog.jp



「下野国那須郡那須湯本図」におけるカナツボ石


駐車場に隣接して駒止の滝の展望台がある。たしかにこれは馬のあゆみを停めて眺める価値がある。

 

garitune.hatenablog.jp

garitune.hatenablog.jp

garitune.hatenablog.jp

 








沢馬市跡@沢

矢板市の沢集落に来た。かつては日光北街道の宿場として栄えた集落であるが、今はひっそりと静まり返っている。昭和40年代くらいまでは、草屋根の屋並に馬喰宿があったというが、今はその面影もない。集落の中央に大きな鉤の手(クランク)があり、かつては城下町であったことがしのばれる。

中世(室町・戦国期)において、ここには那須氏の一族である沢村氏が築いた「沢村城」があった。特に上那須家・下那須家の分裂期には下那須氏の本拠地となり、のちに廃城となって「沢観音寺」の敷地となった。

沢集落が繁栄したもうひとつの理由がこの鉤の手の一角にある。かつては大いににぎわった沢の馬市跡である。

中央に大きな勝善神の石碑があり、石柱には「生駒神社 御祭神 豊受姫命」と刻まれている。右手には吉澤治郎平翁功徳碑、左手には馬市創立五十周記念碑が建っている。

解説板より

沢の馬市碑
この地域は、箒川沿岸の採草地に恵まれ、村の共有地の草刈場もあって、馬産地としての先駆者も居たところであった。
東北線が開通した翌年の明治20年、当地方で有名な伯楽、中村の村上喜平氏と福島県の泉撰右エ門氏は、関東に馬市を開設したいと考え、沢村の人々と話し合い、馬市を開いた。 馬市は、毎年3月・8月・12月とし、それぞれ7日間定期的に開き、馬宿も13軒を数え、南部駒・三春駒・那須駒など、全国から集まる馬主・博労や客で賑わい、矢板・大田原方面の商人の出店も出て盛況であった。
馬宿では、親類や知人の応援を得て客の接待・馬の世話などに当たり、近隣の農家では馬糧の供給と馬屋から出る堆肥を集めるなど、沢地区ばかりでなく近隣地区にまで、馬市の恩恵は及んだ。
この馬市も、戦争が激しくなるにつれて、物資が不足し、馬の集散も少なくなったので、昭和18年には閉鎖になってしまった。
ここに建つ勝善神・生駒神碑などは、馬市開設の記念碑であり、往時の賑わいを偲ぶ歴史の碑である。

「白楽」とは馬の売買や治療を行う人のことで、馬喰(ばくろう)と同義なんだろうが、故事成語的には、馬の良し悪しを見分ける名人、転じて、人の才能を見抜く力がある人、優れた指導者という意味がある。尊敬の意味を込めた、この界隈で馬関連の取仕切りを行なっていた人なんだろう。

大田原市史にも沢の馬市についての詳細が書かれている。同じく明治20年開設とあるが、「吉沢治郎平(沢)なる者が馬匹改良に熱心の結果、設けたものである」と書かれている。ここで現地にある吉澤治郎平翁功徳碑の碑文をみていく。

吉澤翁の碑
前栃木縣那須郡長従六位坂部教宣篆額

關東之地沃野千里民皆業農而多雑南部三春之馬以供使役
矣我吉澤翁有見於此開糶馬之市其邑郷党受益翁稱治郎平
幼名辨之助下野國那須郡澤邑之人天保八年生焉考名辨治
妣名利加家代々業農兼營馬牛賣買慶應中夙爲福原侯所知
命領内巡察明治初日光縣之時爲組頭三年來爲警察属吏勤
務十數年此間又擔當地租改正及土屋小學校新築之事皆有
功而前後爲公共事業投資受賞數度明治二十八年當村會議
負之選亦以可見其名望翁發起馬市實在明治二十年奔走竭
力遂開市場澤村馬市之名敷遠通以致今日之隆偏倚翁力也
明治三十四年十一月六日病歿享年六十有五於是牛馬販賣
同業者胥謀録之於貞珉永貽後世以聊報翁德云爾
明治四十四年三月春季皇霊祭日矢板大安撰文塩谷弘書


前栃木県那須郡長 従六位 の坂部毅宣による篆額

関東のこの地は千里に広がる肥沃な平野であり、民はみな農業を営んでいる。
そして、南部や三春の馬を多く雑多に飼い入れて、農作業などの労働に使役していた。 我が吉澤翁(吉沢治郎平)はこの点に着目し、糶(せり)馬の市場をこの地、沢村に開いた。それにより郷土の村人たちは大いに利益を得た。

翁の名は治郎平、幼名は辨之助といい、下野国那須郡沢邑(現在の矢板市沢地区)の人である。天保8年(1837年)に生まれ、亡父は辨治、亡母は利加という。家は代々農業を営むとともに、牛馬の売買も兼業していた。

慶応年間には早くから(地元の領主である)大田原藩の福原家にその才能を認められ、領内の巡察を命じられた。明治維新の初期、日光県の管轄だった時代には組頭を務め、明治3年からは警察の属吏として十数年にわたり勤務した。この間、地租改正の業務を担当したほか、土屋小学校の新築事功にも尽力、大きな功績を挙げた。前後して公共事業へ投資を行い何度も表彰を受けている。明治28年には村会議員に選出されたことからも、彼の地域での名望の高さがうかがえる。

翁が馬市場を発起したのは、実に明治20年のことである。あちこちへ奔走し全力を尽くした結果、ついに市場を開設することに成功した。「沢村の馬市」の名は遠方まで広く知れ渡り、今日の隆盛を迎えるに至ったのは、ひとえに翁の尽力によるものである。

明治34年(1901年)11月6日、病のため没した。享年65。 ここに、牛馬の販売に携わる同業者たちが相談し、彼の功績を石碑に記録して永く後世に伝え、翁の恩徳にわずかでも報いようとするものである。

明治44年(1911年)3月 春季皇霊祭の日 矢板大安 撰文 塩谷弘 書

こちらは尽力した地元の馬喰出身の議員さんの功績を称えるものであった。なぜ功績碑まで建っているのに案内板にはその名前がないのか。案内板は「矢板市史」の沢村馬市の章からの引用であり、中村本田坪の村上善平と同業者の福島県の泉撰右ェ門が発起人として登場する。

また中央の勝善神(孤人老人書)の裏側には馬市の尽力者が刻まれており、そちらには筆頭に吉沢治郎平の名があり、発起人として泉撰右ェ門と村上善平の名前があった。

鉄道、国道からも遠い沢村の地がなぜ選ばれ、結果関東一とも言われるほど繁栄した馬市場たりえたのか。

候補地として残ったのが石上地区と川崎地区、そして沢村だった。開設交渉人である発起人の近隣で、取引関係者や知人が多く、土屋との境の沢村共有地と箒川河原の秣場が近くにあり沢村に決まったという。

馬市の開催期間中の売買馬匹数は1,000頭以上にのぼり、売買人や見物人で約3,000人がこの小さな沢の集落にひしめき合ったという。東北地方(青森・岩手・山形・秋田・福島)からは馬を売るために人々が訪れ、甲信・東海・関東(長野・静岡・山梨・千葉)からは馬を買いに集まった。地元で育てた馬を販売していただけではなかったのか。まさに東日本全域を結ぶ牧畜物流の中継点だ。


沢の集落内にあった馬宿(屋号として那須屋、富士屋、吉川屋、万十屋、中屋、西角屋、東角屋、関屋、小福田屋などが残っている)だけでは収まりきらず、大田原、矢板、佐久山などの周辺宿場町まで宿泊する事態だった。

開催時期は、春(3月25日〜31日)、夏(8月15日〜21日)、秋(12月10日〜16日)のそれぞれ7日間。巧みに農繁期を避けて設定されていた。馬市での売り上げは、当時の農民にとって数少ない貴重な現金収入だった。帰路、農民たちは手に入れたお金で家族のための衣類や魚類を買い込んで帰るのが常であり、沢の馬市は「那須野の農民の歓喜の日」でもあった。

大田原や矢板の商人たちがこぞって出店を並べ、朝から笛、太鼓、三味線が鳴り響き、「曲馬(サーカス)」「軽業」「手品」「見世物小屋」が掛かり、臨時の料理店や茶屋、女茶屋などが立ち並ぶ、地域最大の歓楽街がこの鉤の手の馬市場に出現したという。

大正〜昭和初期になっても沢の馬市の勢いは凄まじく、隣接する「野崎駅」の拡張請願の理由書には、矢板駅からは馬市のために数百頭の発着がある。沢市場は野崎駅のすぐ近く(約3キロ)にあるため、野崎駅にホームを新設すれば貨物(馬や物資)が激増することは間違いないと、地域の鉄道インフラを動かすほどの経済的影響力を持っていた。

参考:「矢板市史」「大田原市史 前編」「栃木県史 第九巻」

 

garitune.hatenablog.jp

 

迯室馬市場跡@迯室

那須町迯室にある長久寺に来た。ここ迯室は黒羽藩の時代から良馬を産出する地だった。迯室で馬市が行われ売買が行われた謂れの刻まれた産馬大神の碑がある。

産馬大神碑
 高さ306cm 横193cm 厚さ133cm

[表面]
産馬大神
  青木子爵之真跡
[裏面]
我カ下野産馬組合ハ昔時黒羽芦野両藩主ノ施設サレシニ濫觴ス
明治六年塩那産馬共同会成リ生産幼駒売買糶市場ヲ黒羽向町二
設ケヌ然ルニ明治廿三年同会社瓦解スルニ至リ那須村ハ茲ニ独立シ
専ラ馬匹ノ蕃殖ヲ図リ且ツ毎年糶市
場ヲ大字高久二開催シヌ
越テ廿七年栃木県庁ノ那須郡ヲ三産馬組合ニ区分スルヤ北部高久組ハ
奨励ノ為ニトテ県ヨリ種
牡馬三頭ヲ下附サレシカ其ノ事遂ニ空シカラス
事業漸ク発展ノ緒ニ就キス
次テ卅一年糶市場ノ逃室二移サルルヤ吾人ノ
努力スヘキ好機ニ入リタルヲ
自覚シキ卅四年那須郡産馬組合成ルヤ高久組亦之ニ加盟セシカ糶市場ハ
依然逃室ナリキ
合ハ馬格ノ改善ハ優良ナル種馬ニ俟タナル可カラサルヲ認メ
卅六年下総御料牧場ヨリ洋種牡馬ハクニー種第九フォレー
ストビユー号ヲ
横浜ヨリ濠州産種牡馬チェリー号ヲ購入シテ組合各部ニ配置シタルヲ
始メトシテ翌年又青森県馬産地ヨ
リ種牡馬数十頭ヲ購入シタル等
爾来年々多少ノ種牡馬ヲ購入シテ事業ノ発展ヲ画リ又其ノ下野産馬組合ト
改称セシハ明
治卅九年ノ事ナリ
回顧スレバ糶市場ノ此ニ移サレシ以来年ヲ重ヌル十三其ノ時日短ナリトセズ
組合ノ事業亦正二見ルニ
足ルヘキモノトナリ年々ノ生産幼駒ハ実ニ六百余頭ノ
多キヲ数へ其ノ販路ヨリスレハ関東東北関西ヨリ達ク四国ニ互ル
ノ盛況トナリ
逃室糶市ノ名漸ク世人ノ注意ヲ惹カントス此ノ順潮ヲ見ルニ至レルハ組合ノ
画策其ノ宜シキヲ得タルニ基
因セルハ元ヨリ論ナシ然リト雖モ毎年ノ糶市場ニ
対シテハ吾人ノ努力必スシモ多少ノ補フ所ナシト言フヘカラス其ノ補
ヤ誠ニ
徴ナリト雖モ今ヤ此ノ盛況ニ接ス吾人豈多少ノ感ナカランヤ然レトモ生産馬事業ノ
前途尚遼遠ナルニ想到スレバ斯
業隆盛ノ希望ヲ将来ニ持スル事甚ダ切ナルヲ
覚エスンバアラス夫レ思フテ述へ情動キテ詠スルハ豈惟ニ文人詩客ノミト

云ハンヤ茲ニ産馬大神ノ碑ヲ建設スル所以ハ他ナシ一ハ以テ此ノ盛況ニ遇ヒ内ニ動ケル至悦ノ情ヲ述へ一ハ以テ斯業ノタメ将来二限リナキノ希望ヲ繋カンカ為ノミト云爾

 大君の御世のさかえを那須野原 幾千代かけて駒はいさまん
明治四十三年十一月十五日建設
     白石桂玉之書

[上段台石,表面]

寄付金一覧 略


那須の馬産の始まりは、江戸時代の黒羽藩と芦野藩の熱心な馬産政策に起源がある。

明治6年に塩谷郡と那須郡が協力した「塩那産馬共同会」ができ、幼駒(子馬)を売買する競市場を黒羽向町に設けた。明治23年には会社が解散したため、那須村は独立。ひたすら馬の繁殖に努め毎年市場を高久で開催するようになる。

明治27年、栃木県庁は那須郡を3つの産馬組合に分け、北部の高久組には奨励のため、県から種牡馬3頭が与えられた。これが大成功し発展の糸口を掴んだ。

明治31年、馬市場が高久から「逃室」へ移され、当時の逃室の人々は好機の機会がやってきた!と激しく奮起した。明治34年、那須郡産馬組合ができ高久組も加盟。市場は引続き逃室で行われた。

組合は、馬の質(馬格)の改善は優秀な種馬を用意しなければいけないことを認め、

明治36年、天皇家が所有する最高峰の牧場「下総御料牧場」から、イギリス原産の高級馬「ハクニー種(第九フォレストビユー号)」を購入。さらに横浜からオーストラリア(豪州)産の種牡馬「チェリー号」を購入。翌年、馬産の本場である青森県からも数十頭の種牡馬を購入した。

その後、毎年いくらかの種牡馬を購入して事業の発展を図り、またその名称を「下野産馬組合」と改めたのは、明治39年のことである。

振り返れば、競市場がここに移転してきてから13年という歳月が重ねられ、その期間は決して短いものではない。組合の事業も、まさに注目するに値する実績が得られ、毎年の生産仔馬数は実に600頭余という多さに達している。その販売先に目を向ければ、関東、東北、関西から遠くは四国にまで及ぶほどの盛況ぶりとなっている。

逃室の競市場の名はようやく世間の注目を集めるようになってきた。このように順調な流れを迎えるに至ったのは、組合の計画や対策が正しかったことは言うまでもない。だが毎年の競市を行う我々の努力もまた、いくらかの貢献をしていなかったとは言えない。その貢献は本当にわずかなものだが、今こうして大盛況の様子を目の当たりにし、我々の中に感慨深いものが湧き起こらずにいられない。馬産事業の行く手はまだ遥か遠く長いものであると思い至ると、この事業がさらに隆盛していくという希望を将来に対して抱く気持ちが、非常に切実であると感じずにはいられない。そもそも、心に深く思いを馳せてそれを言葉に表し、感情が動いて詩歌を詠むというのは、どうして文人や詩人たちだけの特権だと言えるだろうか。
ここに産馬大神の碑を建立するのは他でもない。ひとつはこの大盛況の時代に巡り合えたことで我々の心に沸き起こったこの上ない喜びの気持ちを残すため、もうひとつは馬産事業のために将来に向かって限りない希望を託す、ただそれだけだ。

  大君の御世のさかえを那須野原 幾千代かけて駒はいさまん
(天皇陛下が治めるこの国の栄光と共に、那須野ヶ原で育った名馬達が、幾千代の未来までも勇ましく駆け巡るだろう)

明治31年、軍馬補充部白河支部那須派出部が現在の田島に事務所を構える。軍馬の供給を担う育成牧場がこの地に出来たことは、同年馬市場が高久から迯室へ移されたことと無関係ではないだろう。

この血統改革が見事に実を結び、毎年生まれる子馬は600頭を超え、その販売先は関東・東北・関西を越えて、はるか四国にまで至る大盛況となった。「逃室市場の名、ようやく世人の注意を惹かんとす」という一文には、迯室が日本全国からバイヤーが集まる一大馬市場に成長した大きな自負に溢れている。

那須郡産馬組合の発足で馬の競り市を迯室、大原間、黒羽向町、沢の4か所に集約したが、明治36年には馬頭と黒田原を追加した。鉄道開通により物資や馬の輸送効率が劇的に変わった。利便性の高い黒田原と軍馬補充部那須派出部に近い迯室。那須駒の新時代が始まった。ここからの展開は黒田原馬市場跡に建つ「鹿野運藏畜産功績之碑」の内容も見てほしい。

補完する情報として「那須村郷土教育資料誌」(S5)の「逃室馬市の由来」には

明治三十二年下野産馬組合に加入後、黒田原(春)及び逃室(夏)両地に各々三日間宛開催せられしも、當地方の馬格向上を軍馬購入地として、指定により、市場も一ヶ所逃室に開くに至る。期間は毎年八月十日より向ふ一週間とす。年々軍馬として購入せらるる数は八頭を限度とせしが近時軍縮の影響により、六頭を通例とし、價格は三百円より三百五十円の間にて購入せらるる。

黒田原と迯室で3日間春夏交互開催、軍馬補充部関係は迯室で8月に1週間別開催とある。

現地の方によると、この産馬大神碑と後述の産馬大神碑はもともと長久寺境内にあったわけではなく、那須高原SA南側の2m程の高台の上にあった、というお話を伺った。

実際にその場所に行ってみた。知ってた?那須塩原SAって高速道路に上がらなくても訪れることが出来るんだね。R4の迯室交差点から那須高原スマートインター線(かつての軍馬道である県道349号)に入って、ETC専用入口の手前にある那須塩原SA(上り線)外部お客様駐車場から入れる。

長いドライブでエコノミー症候群寸前の体を解きほぐす、木道の敷かれた緑地帯が広がっている。

地元の方の話だと、このあたりにもともとあの産馬大神碑があったというんだなあ。


実際の迯室馬市場はどのあたりにあったのか。「那須野が原の馬の飼育事業」による聞き取りによると「問屋のところで開かれた」とある。だとするとここからすぐ近くの陸羽街道沿いになる。しかし、この碑がもともと建立されていた場所付近がなんとなく怪しい。

産馬大神碑のとなりに並ぶ種馬碑についても見てみよう。

高さ278cm 横201cm 厚さ131cm

[表面]
種馬碑(原文は横書)

種牡馬第九フォレストビュー号明治
三十五年三月産於下総御料牧場翌三
十六年十月為下野産馬組合所購入同
三十八年合格種馬検査爾来供用種馬
及十七ヶ年大正十年五月二十八日病
死其間栃木県産馬改良上挙異例之成
績依茲建設碑以為記念云爾
大正十年八月十三日 如水書
[裏面]
賛成者(原文は横書) 以下賛同寄付金省略

産馬大神碑でも言及されていた那須駒の馬格の改善において重要な役割を果たした、下総御料牧場より購入したハクニー種の第九フォレストビュー号の記念碑である。

種牡馬「第九フォレストビュー号」は、明治35年3月に天皇家直轄の下総御料牧場で生まれた。翌明治36年10月、下野産馬組合によって購入され、明治38年に正式な種馬検査に合格。以来、17年という長きにわたって種馬として活躍し、大正10年5月28日に病気のため亡くなった。その間、栃木県の馬の改良において誰も成し遂げられなかったほどの大変な成果を挙げた。そこでここに碑を建設し、その偉大な功績を永く記念するものである。大正10年8月13日 如水 書

馬の種付け(交配)活動を17年間も現役で続けたというのは、馬の寿命や体力を考えても並大抵のことではない。大正10年(1921年)に没するまで、まさに「生涯現役」で那須の馬のために尽くし、地域の人々に家族以上に大切に思われていたことが分かる。

第九フォレストビュー号が残した子供たち(産駒)が驚くほど優秀だったこと、それまでの那須駒(日本の在来馬のなかでもがっしりとした南部馬などを改良していたが、それでも小さくてずんぐりした馬)に、イギリスの名門馬である彼の血が入ったことで、那須駒は見違えるほど大きく、強く、美しい馬へと進化した。産馬大神碑にあった「関東・東北・関西・四国まで販路が広がった」という大盛況の立役者は、まさにこの一頭の馬だったのだ。

種牡馬の第九フォレストビュー号といえば、半俵にある馬廻塚馬頭観音にもフォレストビュー号の碑がある。

 

garitune.hatenablog.jp

 


長久寺の脇の那須高原SA・スマートICに向かう道はかつて「軍馬道」と呼ばれていた。旧軍馬補充部白河支部那須派出部へ向かう道だ。迯室馬市場は軍馬の供給場所でもあったわけだ。

「那須野が原の馬の飼育事業」石ぐら会 櫻井昭男(2018)
「那須町の記念碑」那須町教育委員会(2005)

矢隠し石@八幡崎

那須与一は三国一よ、男美男で旗頭~。

那須の八幡崎、八幡平は、そんな与一が少年期に弓の腕を磨いたという言い伝えのある場所。那須岳から南東方向に延びる尾根の末端に広がる標高1040mの高原だ。那須連峰を背景に、広く那須野が原から白河方面まで一望することができる。

那須与一が少年期に弓の技術を修練した場所は、南金丸の法師峠では?あるいは三輪の神田城跡では?と思うが、屋島の戦いで願掛けした神々の「八幡大菩薩」は金丸八幡宮(那須神社)、「湯泉大明神」は那須温泉神社であり、そこから派生したサイドストーリーが少年期の弓の修練の逸話である。

八幡崎、八幡平という地名の由来は何なのか、この地に八幡宮が祀られているわけでもなく、坂上田村麻呂の東征の伝説とも関係ないようだ。調べていくとこんな記述があった。

那須餘一の矢場
那須村の西を流れる那珂川を下ること三里にして、高館という那須家の館があって立派に残っている。ここかあら騎馬で那須へ往来したのだろう。途中餘一腰掛松もある。矢場といふは那須湯本を上ること十數町、今は立派に八幡神社ある。ほとりに矢かくし石や、其の下方に平な地があって、東方に地ぶくれ様のものが二、三見受けられる之が餘一幼少の折りに那須温泉神社に祈願を込めての稽古の矢場である。今は大方芝生に躑躅が茂っている。冬季はスキー場となり、血にはやる若者が盛んに辷(すべ)るも何かの縁因であらう。
「那須村郷土教育資料誌」(S5/H8)


那須与一が願掛けし成功を収めた「八幡神」としての那須温泉神社という解釈かと思っていたが、かつては立派な八幡神社があった?ほかの文献には紹介されておらず要確認である。

この南東の斜面が、古くから馬の放牧地だったこともあり与一伝説と結びつき、与一が遠矢の稽古をした「八幡の馬場」という呼称もつけられている。



那須高原線からグリーンロッジ裏を抜け那須自然研究路に向かう。この辺りは昭和初期に矢倉石スキー場として整備された那須のスキー発祥の地である。

 


「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬 昭11より

左手一二町をへだてた大岩は、扁應山から辨天温泉に行くときにも見えるヤグラ石で、躑躅の中に大きく目立ってゐる。この石を那須餘一のヤグラ石といふが、或は那須餘一の矢隠(ヤガクシ)石が正しいのかと思ふ。なほ「ヤ」も「クラ」も石の意であつて、要するにただ石といふことだとも考へられる。このあたりを餘一の矢場といひ、那須餘一が遠矢の練習をしたところと傳へる。これを思ふと、今もなほ勇姿颯爽たる若武者、餘一宗隆が、那須嶽颪に駒の鬣なぶらせつつ、そこらの木蔭から現れさうなところである。
(那須 温泉・登山・ハイキング)



矢隠(やがくし)石、またはヤグラ石ともいう。少年時代の与一が湯泉大明神に祈りを込めて弓矢の稽古をした矢場で、この大岩に矢を隠したと伝えられている。

表面に無数の小穴が開いている。マグマが地表付近で急激に冷えて固まる際に、中に含まれていたガスが抜けてできる溶岩特有の構造だ。

 


このあたりは低木とチシマザサが茂って視界が遮られてきているが、かつては大丸園地付近まで放牧地で、牧場の提(土塁)がずっと続いていたという。今も残っているのかな?

牧畜の発展を目標として設立された県営那須牧場(のちの豊浦農場~毛利農場)が明治12年那須岳中腹(八幡、大丸周辺)に支場を開設。支場は5月から11月まで放牧場として利用された。牛の飼育はうまく行かず明治30年代にはやめてしまった。

黒磯の資産家、倉光三郎は那須牧場、豊浦農場、毛利農場で経営管理を行い、黒磯の発展に貢献した人物だ。後年は産馬の振興に尽くし、日本産馬協会の理事にも就任する。戦前、那須地方が那須駒の産地として全国に知れ渡ったのは倉光三郎のおかげだと言われている。

「那須温泉史」那須町教育委員会(2005)
「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬(1936)
「郷土の人々 矢板・黒磯・大田原篇」下野新聞社編(1973)
「那須野が原の馬の飼育事業」石ぐら会 櫻井昭男(2018)

高岩神社の夏越し@黒羽向町


「川は流れる」聖地巡礼その2。今回は第三話 蛍火の夜のロケーションとして想定される黒羽向町の北の端の高岩神社を見にきた。高岩神社の夏越まつりのシーンだ。

誠之介と万屋の昭吉、玉屋の加代ちゃんは竜吉とお満を連れ立って黒羽向町の町並みを奥沢村方面に歩いてくる。明王寺を過ぎると高岩神社のこんもりとした杉林が見えてきた。ずっとまっすぐだった道が高岩神社の前で方向を変えるのだが、これは城下町の特徴の桝形になっていた部分かな。

 


松井天山の黒羽町川西町真景(T13)。右手に明王寺をみてかつての鉤の手のクランクした道と真っ直ぐに作り直した道が合流しているようにみえる。

この地図では高岩神社じゃなく、「愛宕神社」と表記されている。高岩神社の名称は、明治3年に愛宕神社を含むいくつかの神社が合祀され「高岩神社」と正式に改称されたそうだ。それにしても大正13年の地図で高岩神社表記になっていないのはどういうことだ? 境内にある石柱や鳥居などはほとんど昭和初期のものだ。昭和10年の改修記念碑があるので大幅なリニューアルがあって古い石碑は取り払われたのか? 火事?火伏せの愛宕神社が火事になってはシャレにならないな。唯一本堂脇に安政4丁巳年の灯籠がひとつ残っている。

その隣には「不動堂」、高岩波切不動尊が描かれている。那珂川の沿岸の高岩の周りはは現在も「高岩公園」ないし「高岩園」と呼ばれている。高岩の上には松が茂り、灯籠や四重の塔が描かれている。

創垂可継に収められている文化文政期(1084~1830)の「封域郷村誌図面」という地図には、真っ直ぐな向下町・向上町の町並みの北端に木戸が描かれている。ちょうどこの場所だ。「封域郷村誌図面」には赤い屋根の「不動」は描かれているが、北側に茶色で着色された建物は描かれているだけで神社は描かれていない。どういうことだ?

封域郷村誌地図




入口ちかくの池の畔に「従是南黒羽領」「従是東黒羽領」「従是北黒羽領」「従川中西黒羽領」の境界石が無造作に建っている。越堀宿浄泉寺にあるものと同じなのでどこか近くにあったものを移設したものかな、と思ったが那須郡誌には

川西町黒羽向町高岩神社の境内にあるのは上河岸の倉庫に残っていたのを発見してここに立てたもので別義はない

とある。


黒磯市誌にも

なお同様の標石は黒羽町高岩神社境内にも移し建てられてあるが、これら標石は増業大阪城加番の時(文化10~11(1813~14))大坂で造り海路黒羽に運ばれたものという。

とあった。これらは倉庫にしまってあった予備の石柱だったのだろうか?

 


手水場を過ぎると左に折れ、高岩神社の正式な参道となる。物語では夏越まつりで賑わう境内の様子が描写される。あちらこちらに篝火が焚かれ、参道には夜店が並んでいる。たくさんの提灯と大勢の浴衣姿の老若男女と子供たち。茅の輪くぐりの順番を待つ列に誠之介たちも加わった。


社殿の前には直径一間半ほどの茅の輪が設けられている。参詣者は茅の輪の前で拍手を打って、茅の輪を3回くぐってから社殿を詣でる。


参考資料:大室高龗神社さんの茅の輪


そんな楽しいひとときをだいなしにする向町の悪童たちの登場だ。田町のよそ者の若侍が向町のマドンナ、玉屋の加代ちゃんを連れて夏祭りに来てるのだ。これはレペゼン田町の名に懸けて因縁をつけざるをえない。


この喧騒のなかで騒ぎになってはまずいので、違う場所で話をつけようと誠之介は加代ちゃんに刀を預け悪童たちについていく。雑踏から離れ、那珂川の川岸に移動する。多勢に無勢、しかもあちらには力士もいるってよ!どうする誠之介!!

 


その後の展開についてはともかく、ここが高岩公園。高岩の上は傾斜していて岩場で滑るのでケンカする場所には向いてないと思う。暴力反対。話し合いで解決しよう。


それにしてもとんでもなくダイナミックな景勝地だ。度胸試しに渕に飛び込んだりしたのかなあ。


高岩から上流の高岩大橋。いやあこりゃ、とてつもなくたかいわぁ(テッパン高岩ギャグ)。


高岩沿いは高岩渕と呼ばれる深みとなっている。


高岩から下流方面。


高岩神社から250mほど北側に、辰の口の山神と呼ばれる場所がある。

このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。

辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。

またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある那珂川の高岩の深い渕に住む竜神様の頭であると信じられていた。村の人々は竜神の頭がここ辰口で、その尾っぽは緒川あたりまで及んでいると想像した。

日照り続きで農作物に影響が出ると、この地で雨乞いの祈りを捧げると雨が降ったという。山の神が祀られている場所の木を切ると祟りがあるといわれ、ながいことこの場所は藪になったまま残されていた。



物語に戻るが、ケンカのあと手打ちを行なった場所が、高岩神社の右側にある高岩波切不動尊だ。

高岩波切不動尊は、那珂川で帆かけ船や筏で舟運が行われていた時代、近郊農民の五穀豊穣と水運の無事息災を祈願したという。その昔、那須与一が屋島の合戦で扇の的を射るとき、鵜黒の駒を海に乗り入れ波立たぬようにこの不動尊に祈願した。この波切不動の霊験によって波が鎮まり、見事扇の的を射落とすことができたと伝えられている。

高岩山密蔵院明王寺に付属し、初め桧木沢二ッ滝の地にあったが、寛永年中に藩主大関土佐守高増が黒羽城より眺められるこの地に移転させたという。寺伝によればこの波切不動尊像は仏師運慶の作と伝えられる。


堂宇に多くの奉納刀が飾られている。不動明王の倶利伽羅剣を模した刀剣を奉納することで煩悩や災厄を断ち切り、不動明王の加護を願うものだ。


刀は朽ちてしまったが安政4年の奉納額が残っている。

参考文献:黒羽町誌、那須郡誌、那須記ほか

 

川は流れる

川は流れる

Amazon