がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

矢隠し石@八幡崎

那須与一は三国一よ、男美男で旗頭~。

那須の八幡崎、八幡平には、そんな与一が少年期に弓の腕を磨いたという言い伝えのある場所。那須岳から南東方向に延びる尾根の末端に広がる標高1040mの高原だ。那須連峰を背景に、広く那須野が原から白河方面まで一望することができる。

那須与一が少年期に弓の技術を修練した場所は、南金丸の法師峠では?あるいは三輪の神田城跡では?と思うが、屋島の戦いで願掛けした神々の「八幡大菩薩」は金丸八幡宮(那須神社)、「湯泉大明神」は那須温泉神社であり、そこから派生したサイドストーリーが少年期の弓の修練の逸話である。

八幡崎、八幡平という地名の由来は、この地に八幡宮が祀られている事実があるわけでもなく、坂上田村麻呂の東征の伝説とも関係ないようだ。そうするとやはり那須与一が願掛けし成功を収めた八幡神としての那須温泉神社ということになるのではないか。この南東の斜面が、古くから馬の放牧地だったこともあり与一伝説と結びつき、与一が遠矢の稽古をした「八幡の馬場」という呼称もつけられている。



那須高原線からグリーンロッジ裏を抜け那須自然研究路に向かう。この辺りは昭和初期に矢倉石スキー場として整備された那須のスキー発祥の地である。

 


「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬 昭11(1936)より

左手一二町をへだてた大岩は、扁應山から辨天温泉に行くときにも見えるヤグラ石で、躑躅の中に大きく目立ってゐる。この石を那須餘一のヤグラ石といふが、或は那須餘一の矢隠(ヤガクシ)石が正しいのかと思ふ。なほ「ヤ」も「クラ」も石の意であつて、要するにただ石といふことだとも考へられる。このあたりを餘一の矢場といひ、那須餘一が遠矢の練習をしたところと傳へる。これを思ふと、今もなほ勇姿颯爽たる若武者、餘一宗隆が、那須嶽颪に駒の鬣なぶらせつつ、そこらの木蔭から現れさうなところである。(那須 温泉・登山・ハイキング)


矢隠(やがくし)石、またはヤグラ石ともいう。少年時代の与一が湯泉大明神に祈りを込めて弓矢の稽古をした矢場で、この大岩に矢を隠したと伝えられている。

表面に無数の小穴が開いている。マグマが地表付近で急激に冷えて固まる際に、中に含まれていたガスが抜けてできる溶岩特有の構造だ。

 


このあたりは低木とチシマザサが茂って視界が遮られてきているが、かつては大丸園地付近まで放牧地で、牧場の提(土塁)がずっと続いていたという。今も残っているのかな?

牧畜の発展を目標として設立された県営那須牧場(のちの豊浦農場~毛利農場)が明治12年那須岳中腹(八幡、大丸周辺)に支場を開設。支場は5月から11月まで放牧場として利用された。牛の飼育はうまく行かず明治30年代にはやめてしまった。

黒磯の資産家、倉光三郎は那須牧場、豊浦農場、毛利農場で経営管理を行い、黒磯の発展に貢献した人物だ。後年は産馬の振興に尽くし、日本産馬協会の理事にも就任する。戦前、那須地方が那須駒の産地として全国に知れ渡ったのは倉光三郎のおかげだと言われている。(郷土の人々矢板・黒磯・大田原篇)

高岩神社の夏越し@黒羽向町


「川は流れる」聖地巡礼その2。今回は第三話 蛍火の夜のロケーションとして想定される黒羽向町の北の端の高岩神社を見にきた。高岩神社の夏越まつりのシーンだ。

誠之介と万屋の昭吉、玉屋の加代ちゃんは竜吉とお満を連れ立って黒羽向町の町並みを奥沢村方面に歩いてくる。明王寺を過ぎると高岩神社のこんもりとした杉林が見えてきた。ずっとまっすぐだった道が高岩神社の前で方向を変えるのだが、これは城下町の特徴の桝形になっていた部分かな。

 


松井天山の黒羽町川西町真景(T13)。右手に明王寺をみてかつての鉤の手のクランクした道と真っ直ぐに作り直した道が合流しているようにみえる。

この地図では高岩神社じゃなく、「愛宕神社」と表記されている。高岩神社の名称は、明治3年に愛宕神社を含むいくつかの神社が合祀され「高岩神社」と正式に改称されたそうだ。それにしても大正13年の地図で高岩神社表記になっていないのはどういうことだ? 境内にある石柱や鳥居などはほとんど昭和初期のものだ。昭和10年の改修記念碑があるので大幅なリニューアルがあって古い石碑は取り払われたのか? 火事?火伏せの愛宕神社が火事になってはシャレにならないな。唯一本堂脇に安政4丁巳年の灯籠がひとつ残っている。

その隣には「不動堂」、高岩波切不動尊が描かれている。那珂川の沿岸の高岩の周りはは現在も「高岩公園」ないし「高岩園」と呼ばれている。高岩の上には松が茂り、灯籠や四重の塔が描かれている。

という創垂可継に収められている文化文政期(1084~1830)の「封域郷村誌図面」という地図には、真っ直ぐな向下町・向上町の町並みの北端に木戸が描かれている。ちょうどこの場所だ。「封域郷村誌図面」には赤い屋根の「不動」は描かれているが、北側に茶色で着色された建物は描かれているだけで神社は描かれていない。どういうことだ?

封域郷村誌地図




入口ちかくの池の畔に「従是南黒羽領」「従是東黒羽領」「従是北黒羽領「従川中西黒羽領」の境界石が無造作に建っている。越堀宿浄泉寺にあるものと同じなのでどこか近くにあったものを移設したものかな、と思ったが那須郡誌には

川西町黒羽向町高岩神社の境内にあるのは上河岸の倉庫に残っていたのを発見してここに立てたもので別義はない

とある。


黒磯市誌にも

なお同様の標石は黒羽町高岩神社境内にも移し建てられてあるが、これら標石は増業大阪城加番の時(文化10~11(1813~14))大坂で造り海路黒羽に運ばれたものという。

とあった。これらは倉庫にしまってあった予備の石柱だったのだろうか?

 


手水場を過ぎると左に折れ、高岩神社の正式な参道となる。物語では夏越まつりで賑わう境内の様子が描写される。あちらこちらに篝火が焚かれ、参道には夜店が並んでいる。たくさんの提灯と大勢の浴衣姿の老若男女と子供たち。茅の輪くぐりの順番を待つ列に誠之介たちも加わった。


社殿の前には直径一間半ほどの茅の輪が設けられている。参詣者は茅の輪の前で拍手を打って、茅の輪を3回くぐってから社殿を詣でる。


参考資料:大室高龗神社さんの茅の輪


そんな楽しいひとときをだいなしにする向町の悪童たちの登場だ。田町のよそ者の若侍が向町のマドンナ、玉屋の加代ちゃんを連れて夏祭りに来てるのだ。これはレペゼン田町の名に懸けて因縁をつけざるをえない。


この喧騒のなかで騒ぎになってはまずいので、違う場所で話をつけようと誠之介は加代ちゃんに刀を預け悪童たちについていく。雑踏から離れ、那珂川の川岸に移動する。多勢に無勢、しかもあちらには力士もいるってよ!どうする誠之介!!

 


その後の展開についてはともかく、ここが高岩公園。高岩の上は傾斜していて岩場で滑るのでケンカする場所には向いてないと思う。暴力反対。話し合いで解決しよう。


それにしてもとんでもなくダイナミックな景勝地だ。度胸試しに渕に飛び込んだりしたのかなあ。


高岩から上流の高岩大橋。いやあこりゃ、とてつもなくたかいわぁ(テッパン高岩ギャグ)。


高岩沿いは高岩渕と呼ばれる深みとなっている。


高岩から下流方面。


高岩神社から250mほど北側に、辰の口の山神と呼ばれる場所がある。

このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。

辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。

またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある那珂川の高岩の深い渕に住む竜神様の頭であると信じられていた。村の人々は竜神の頭がここ辰口で、その尾っぽは緒川あたりまで及んでいると想像した。

日照り続きで農作物に影響が出ると、この地で雨乞いの祈りを捧げると雨が降ったという。山の神が祀られている場所の木を切ると祟りがあるといわれ、ながいことこの場所は藪になったまま残されていた。



物語に戻るが、ケンカのあと手打ちを行なった場所が、高岩神社の右側にある高岩波切不動尊だ。

高岩波切不動尊は、那珂川で帆かけ船や筏で舟運が行われていた時代、近郊農民の五穀豊穣と水運の無事息災を祈願したという。その昔、那須与一屋島の合戦で扇の的を射るとき、鵜黒の駒を海に乗り入れ波立たぬようにこの不動尊に祈願した。この波切不動の霊験によって波が鎮まり、見事扇の的を射落とすことができたと伝えられている。

高岩山密蔵院明王寺に付属し、初め桧木沢二ッ滝の地にあったが、寛永年中に藩主大関土佐守高増が黒羽城より眺められるこの地に移転させたという。寺伝によればこの波切不動尊像は仏師運慶の作と伝えられる。


堂宇に多くの奉納刀が飾られている。不動明王倶利伽羅剣を模した刀剣を奉納することで煩悩や災厄を断ち切り、不動明王の加護を願うものだ。


刀は朽ちてしまったが安政4年の奉納額が残っている。

参考文献:黒羽町誌、那須郡誌、那須記ほか

 

 

水神渕@八塩

森 詠さんの新作が出たとのことで今回は「川は流れる」の聖地巡礼である。

 

森 詠さんといえば栃木県北を舞台にした自伝的小説「オサムの朝(あした)」それに続く「那珂川青春記」「日に新たなり-続・那珂川青春記-」と「少年記 -オサム14歳-」である。東京から疎開してきた少年の目を通した昭和20年代の生活描写が郷愁を誘い、原作本は地元でも大いに売れて映画化もされた。

「川は流れる」は時期としては「オサムの朝」のすぐあとに書かれたものに大幅加筆したものらしい。黒羽藩の青年下士、板倉誠之介の青春譚である。特にストーリーの説明もなく巡礼をスタートするよ。

水 神 渕

冒頭の藩校をサボっての那珂川での水浴びのシーン。「水神渕」はのちの事件でも重要な舞台となるので押さえたいスポットだ。「前田通い」の章の廓のマドンナは誠之介の初めてのひとで、水神渕で出会った「蛇姫様」に面影が被る憧れの存在だ。板倉家の下男である源爺は川漁師で、かつて水神の渕で蛇姫様に出会ったことがあるという。黒羽の少年たちは那珂川で遊び、那珂川に育てられ、一人前の男になるのだ。

水神渕はどこなのか。小説を読み込めば黒羽河岸より下流で田町側(那珂川右岸)だということがわかる。地形図やGooglemapでも、さすがに渕の名前までは載ってない。こんな時は・・。

川に関連したローカルな地名を知りたければ、釣り人に配られる「釣り場案内マップ」といういいものがある。かつては「大和保険の那珂川釣り情報」というサイトがあってだな。今は「那珂川北部漁業協同組合」さんのページだ。ここに「釣り場案内マップ」という遊漁券やアユオトリを扱っているお店で配布されているマップのデータがあるので後世のために保存しよう。 

www.nakagawa-hokubu.or.jp

 

無断転用で大変恐縮ですが、「釣り場案内マップ」からの情報がこちら。八塩に「水神」という地名がある。松葉川が合流した先、流れが湾曲し「渕」と呼ばれる地形になっている。この先の湾曲部は「山渕」「五葉渕」とネーミングされているが、「水神渕」とは書かれていない。これはどうしたことか。


水神から黒岩を眺める。黒羽河岸より古い時期に黒岩河岸と呼ばれる河岸があったらしい。

水神からボウズ、カニ岩方面

水神がある山口地区は、八塩沢が那珂川に流れ混む関係で、堰堤が切れる部分になっている。2019年の台風19号の水害の際に那珂川の流れが堰堤を越えてしまったところだそうだ。かつてはこの先は堰堤が低くなっており、木々が生い茂っていたそうだ。水害対策として低くなっていた部分を2mかさ上げしコンクリートで強化している。八塩沢を挟んだ南側の2軒が移築された。そんな護岸設備の境界に石碑が並べられている。


かつてはこれらの石碑はその木立の中にあったそうだ。


左が件の水神か。中央は何やら句碑のようなもの。右は台石だけが残されている。前述の水害で消失したのだろうか。

寿(す)満(ま)ば屋(や)な 芭蕉
八しおの里耳(に)
奈(な)川(つ)三つ記(き)

 

えっ芭蕉の句碑なの?!大発見、かと思いきや。

 

あとで「黒羽町誌」の八塩の項をみたら、この句碑の解説があった。


(五) 八塩

八塩(やしお)は山紫水明の地で、住みよい環境をみせている。

『水神渕』の岩頭に立つ句碑に「住まばやな八塩の里に夏三月 芭蕉」と刻(きざ)んである程である。

この句は『芭蕉』が作ったものでない。芭蕉の踏跡を尋ねてこの地を訪れて詠んだ『桃隣』の句「篭(こま)らばや八塩の里に夏三月」を建碑者等がこれを読み替えて、この里の夏を謳歌したものであろう。

『桃隣』の句心は芭蕉の「しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め」にあるとみられ、興が深い。

芭蕉の三回忌に聖地巡礼をしてた天野桃隣が、この地で芭蕉の句をオマージュして作った句を建碑者が更にオマージュした句、らしい、なんだそりゃ。

しかもここの解説にはしっかり「水神渕」とあるではないか。やはりここは水神渕と呼ばれてたんだな。もちろんただの創作の元ネタなので、実際に水神渕が水深の深い渕だったかは定かでない。八塩沢と那珂川の合流点で、昔から水神を祀って鎮める何らかの必要があった場所なのではないか。

川の蛇行している部分の外側は川底が深くえぐられ「渕」となり、内側は土砂が堆積して「瀬」となる。しかしこの水神渕に関しては、蛇行する外側から八塩沢によって運ばれる堆積物が流れ込み、渕はそんなに深くならないように思える。

2019年の水害のあとの対策工事で那珂川は川底が削られ、川の流れも全く変わってしまっているとのこと。友釣りの川だし安全対策で川底も平らにしているのだろう。

もうひとつこの句碑の解説文献をみつけた。こちらにも施工前の水神の様子が少しだけ載っている。 「黒羽ふるさと雑話」(S54)の第4章かたりつぎより

12 水神渕の句碑
八塩地区に水神渕というところがある。那珂川の流れを眼下に水勢激しく対岸の景もまた絶景である。水神を祀る祠が一基建ててある。風雪に耐えた大きな松が生えていて歳月を物語っている。その境内といっても十アール位の狭いところであるが、一基の句碑が建っている。
 すまばやな八しおの里になつ三つき
そして芭蕉翁と達筆な文字で克明に刻まれている。
碑は芭蕉の作と刻んであるが、実は桃隣の作にあやかったものである。陸奥千鳥(むつちどり)にある句は「籠らばや」であるが、句碑には「すまばやな」になっている。いつの頃この句碑を建てたか定かではないが、その側の祠の年号を見ると、宝暦十一年辛巳七月十七日と刻まれている。その頃とすれば徳川家治将軍の時代である。西暦一七六一年であるから、今から二百十六年前のことである。この句碑の建ったのはその年号の前か後かよくわかっていない。何れ好事家がこの句碑を建てたのであろうと思われる。


沢の合流部分。画像の那珂川沿いの法面の色が変わっている暗い色の高さがかつての堰堤の高さらしい。1980年代の住宅地図をみると、八塩沢の南側に「芭蕉句碑」と書かれた記念碑記号がたしかに書かれている。


カニ岩側からボウズ、水神方面

カニ

ネコ岩だ!このヒップラインのネコっぷり!

「釣り場案内マップ」みたいにハイカーや登山客が名付けた奇岩やかつての拝所を網羅した「那須岳案内マップ」があってしかるべきだよなあ。

 




筒地の石仏群とつつじ大橋建設中@筒地

那須塩原市上黒磯から那須街道のある那須町筒地を結ぶ黒磯那須バイパスが建設中だ。晩翠橋付近の渋滞を緩和するこのバイパスは、那珂川を渡る「つつじ大橋」を含む2キロほどの工事だ。

新道の脇に並行して段丘下の筒地集落に降りる旧道が残っており、道沿いに石仏群が並んでいる。



個人的な目玉はその存在を知らなかったこの高湯山碑。デカい!

   文化六己巳年
アーンク 高湯山供養塔
   四月大吉祥日

       文化6年(1809) 117cm×78㎝×32㎝

その隣は大正8年徴農軍馬記念碑。第一次大戦後シベリア出兵で第三師団に徴発された愛馬たち きん、好門、瀬越、岩山、松平、人見、木材、萱野、長保、小石、小櫻、平沢号。 

寛政11年の山神、寛政4年の庚申塔文久4年の大黒天など。筒地村と岡室村が合同で建立しているものが多い。高湯山碑は「那須町史」の石碑リストによると所在地が新高久とあるから那須街道の道路拡幅でここに移動されたものかもしれない。

念仏供養塔
[右面]  筒地 岡室
    施主 女人
[左面] 明和八辛卯年  右くろいそ
        十月   左 たかく

馬頭観音群 性神らしきものもある。

十九夜塔と地蔵


石仏群のある旧道から段丘を下りて筒地集落に向かう。


カーブの山際に立派な屋根を掛けられた石碑があった。見た目は碑文のないただの石なのだが、何本かひっかき傷のような線が入ったこの石はなんなのだろう?


こちらが那珂川渡渉点に向かう道と思われる。現在は養豚場に施設があるみたいだ。降りてみたかったが、橋梁工事が行われていて入れなかった。

大輪地原 (那須東原)を東西に横切 って那珂川を渡り、筒地 から高久へと通じて原街道 に交わり白河に至る道を白河道といった。「黒磯市誌」によれば、元文年間に は鳥野目村と筒地村の間を流れる那珂川に橋をかけ通行者から橋銭を徴収していたという。昭和30年前後までは鳥野目・岡室・筒地地区の共同で那珂川に橋をかけて大いに利用していたらしい。

筒地集落

つつじ大橋(この名称、筒地とかけている)が観てみたいので向こう岸にまわってみる。

那珂川河畔公園から鳥野目河川公園に向かう川沿いの道が一般車両も通れるので新しい橋の下に近づくことが出来る。


グーグルマップのストリートビューだと行き来していた名残がなんとなくわかるのだが。

 

まだ黒磯側の段丘上には接続していないようだった。開通が楽しみだ。


筒地の石仏群の向かいの藪に正体不明のミドリの十字を持つ観音像があった。SNSで情報のやり取りをしたところ、那須街道沿いの腰掛松バス停のところに設置されていた交通安全観音が拡幅にともないここに置かれたものだと分かった。確かにうしろに観音像が乗っていたお立ち台もある。腰掛松バス停付近はブラインドカーブになっていて、停留所に停車しているバスを避けようとセンターラインを越えて事故になるケースがけっこうあったようだ。50年ほど前、重大事故のあった各地の危険箇所にこの交通安全観音が設置されたらしい。

参考文献「那須野ケ原の道」(H3)












玉田のソウゼンサマ@玉田


栃木県北に馬頭観音の碑が多数残存することは、この地域のかつての農村社会が馬に強く依存していたことを示している。馬は生産活動の中心であり、家族のように大切にされた「労働者」だった。この碑は、馬の健康や活躍を祈り死を弔うためのもので、その存在は馬への深い敬意と親愛を物語っている。近代化で機械が普及するまで、馬は日本の経済と生活を支える基盤だった。宿駅伝馬として、農耕馬として、明治以降は荷馬事業が盛んとなった。
馬頭観音はもともと馬の神様ではない。阿弥陀仏の化身で、頭上に宝馬をいただくその姿からいつしか馬の守護神として信仰されてきた。馬頭観音のほかに馬力神、勝善神、生駒大神などが信仰された。

 


入り口にある柱には「日本三勝善のひとつ 玉田勝善神社」とある。

矢板市玉田にある生駒神社はソウゼンサマと呼ばれ厚く信仰された。「玉田講」「蒼前講」と呼ばれる講が作られ、生駒神社、生駒大神の碑が建てられた。旧暦正月の28日の祭礼には、飾り立てた馬を連れた多くの参詣者、講中の人達で賑わった。お札や神笹を受けて講員に配ったり、厩の柱にお札を貼って馬の安全を祈った。神笹は細かく刻み馬に食べさせた。


玉田の生駒神社は別名勝善神社、各地で微妙に異なるが、玉田のショーゼンサマ、ソーデンサマ、ソウゼンサマ、ソウデンサマなどと呼ばれている。

平安末期に九尾の狐を退治した勝善親王を祀った勝善神社が前身で、明治期に生駒神社に改名された。勝善親王は、住民や馬・牛を愛し、農耕や家畜の保護、五穀豊穣を祈願した。このため、農村社会で親しまれ、馬の安全や生産の守護神として崇敬されていた。 親王の命日(旧暦1月28日)には、農馬や馬車馬が鈴や五色の吹き流しで飾られ、住民が神社に参拝し、馬の安全や五穀豊穣を祈る慣習が生まれた。馬を引く列が玉田から石関、片岡の方まで途切れることなく続くほどの賑わいだった。農業が機械化され、荷馬車もトラックに替りこの大祭は廃れてしまった。

玉田の生駒神社は玉藻の前調伏を祈願した豊宇気姫命(とようけひめのみこと 産業の神、保食神)を御祭神とし、勝善親王、邇邇芸能命 猿田彦命媼神(子育)命を配祀神とした神社である。由緒によると建久3(1192)年正月28日創立、慶安3(1650)年正月28日鎮座。2024年に生駒神社の例大祭で馬の参拝の再現がされたという記事が下野新聞に掲載された。

www.shimotsuke.co.jp




長い参道を通り、鳥居をくぐった境内にある嘉永4年の神燈に刻まれている奉納者からその当時の信仰圏の範囲をみてみよう。

○御神燈(手前)

[柱右]

嘉永四辛亥年正月ニ十八日

[柱左]

風見山田村

願主 髙野澤惣兵衛

[台石表面]

[台石右前]

一 佱百疋 東泉村

一 同百疋 田野原村中

一 同百疋 下伊佐野村中

一 同百疋 土屋村中

一 同百疋 山田村中

[台石右後]

一 佱百五拾疋 川崎反町村中

一 同百疋   境林村中

一 同百疋   木幡村中

一 同百疋   矢板村中

一 同百疋   上河戸村中

[台石裏面]

一 佱百疋 幸岡村中

一 同百疋 下長井村中

一 同百疋 下長井村中

一 同百疋 鹽田村中

一 同百疋 上鹽原村中

[台石左前]

一 佱二百疋 東泉村

      橋本友右衛門

一 佱二百疋 鷲宿村

      村上新右衛門

一 佱百疋 氏家上新田

      源左衛門

一 佱百疋 大宮友右エ門内

      石屋助右エ門

[左後]

一 佱百疋  大久保村中

一 同百疋  上平村中 

一 同百疋  風見村中

一 同百疋  熊野本村中

一 同百疋  関野沢村中

○御神燈(奥のもの)

[柱右]

嘉永四辛亥年正月ニ十八日

[柱左]

風見山田村

願主 髙野澤惣兵衛

 

[台石表面]

[台石左前] 

一 二百疋 □□□ 漆原七□右エ門

一 同百疋 同村 油屋友右エ門

一 同百疋 同村 吉成十右エ門

一 佱百疋 安沢村 阿美八右エ門

一 同百疋 同村  黒崎利兵衛

 

[台石左後]

一 佱四百疋   西舩生村中

一 同四百疋   東舩生村中

一 同二百五拾疋 押上村中

一 同二百疋   鷲宿村中

一 同百五拾疋  平野村中

[台石裏面]

一 佱百疋 前岡村中

一 同百疋 後岡村中

一 同百疋 下安沢村中

一 同百疋 小入村中

一 同百疋 早乙女村中

[台石右後]

一 佱百疋 石関村中

一 同百疋 大槻村内 梶内中

一 同百疋 氏家宿中

一 同百疋 前高谷村中

[台石右前]

一 佱百疋 金枝村中

一 佱百疋 肘内村中

一 佱百疋 西乙畑村中

一 佱百疋 髙原村 君嶋七□左エ門

一 佱百疋 風見山田村 蓮實俊平

 

○常夜燈

[右]

野州塩谷郡上平村

   関口半兵衛

[左]

安達□兵衛門

加藤□□左衛門

 

○手水


玉田生駒神社 嘉永4年の石塔の奉納者による信仰分布


戦後、浮浪者の失火で焼失してしまうが、現在の本殿はこの神社を信仰する多くの人達によって再建された。


飾り馬を連れてお参りし、お堂の周りをまわり、熊笹の葉とお札を受けてきた。馬の虫かぶり(腹痛)の際にこの笹を食べさせると治ったという。


伝説のひとつに、勝善親王が九尾の狐の退治に失敗し那須野に逃げられてしまったため自害し、その愛馬もそのそばに葬ったのが社前にあった三本杉であったという。玉田のソウゼンサマの三本杉は巨木で有名だったが、最後の一本も終戦後切られてしまった。

敬神 矢板 奉納 大正 などの文字がうっすらとみえる

本堂にある奉納額。大半は退色して読めないが、近代のものは鮮明なものも残っている。本堂内にも奉納額が残っているのだろうか。


生駒大神 軍馬武運長久 昭和十四年十月吉日 片岡馬車職合組合


生駒大神 矢板馬車組合一同 昭和四己巳年 旧正月二十八日吉祥


生駒神社 昭和二年二月二十日 宇都宮駅地 菊池運送 馬車一同


奉納玉田勝善 由緒か


宇都宮合同運搬株式会社 馬車組合創立 昭和三年正月二十八日




厩に貼られた絵馬(お札)


社務所

楽殿

井戸


手水石(享保5年)

玉田のソウゼンサマについて掲載があった市町村史
矢板市史 塩谷町史 喜連川町誌 氏家町史 中塩原の民俗

参考文献:やいたの昔の話 矢板の伝説ほか














十方院霊山寺と室野井の馬頭観音信仰@室野井

室野井の十方院霊山寺に来た。馬頭観音信仰について調べていて、蓮実長先生の「那須郡誌」の中の十方院の解説に不可解な記述があり、これは現地を観に行かねばということになったのだ。

十方院

室野井山十方院霊山寺と号し、新義真言宗豊山派に属す。創立年代は詳かでない。(寺院名簿)或はいう、寛永(紀元2284)年中、徳川三代将軍家光の創立で、寺領十石の御朱印地を賜わり、御祈願寺であったと(栃木県史)これは疑わしい。享保(紀元2376)年中、大阿闍梨旺光法印大いに法灯を輝かして、中興開山となり、那須野開墾移住者のため、現当二世安楽の祈蒔を修して化益する所が甚だ多かった。弘化元年火災に罹り、安政元年現在の堂宇を再建した。同寺境内に馬廻塚馬頭観音堂がある。地方民の崇敬甚だ厚い。(那須郡誌 蓮実長)

十方院の境内に馬廻塚馬頭観音堂がある?下半俵の馬廻塚馬頭観音堂とは別に十方院にも同じ名称の観音堂があったのだろうか?

実際に十方院を訪れてみた。本堂裏山に湯泉神社があるが、その手前に何の看板もないお堂があった。これだろうか?


下半俵の馬廻塚馬頭観音堂を分祀したものだったら、馬廻塚だしお堂の周りを馬が回れるような通路になってないとおかしい。というより、那珂川をはさんで1キロ余りにオリジナルがあるのにわざわざ室野井に同じものを作る意味があるだろうか?

那須町生涯学習課文化財係 歴史探訪館さんに問い合わせたところ、このお堂は馬頭観音堂ではないとのことだった。「那須郡誌」の記述は誤記ではないかとのことだった。
あるいは下半俵の馬廻塚馬頭観音堂のいちばん近くにある十方院が管理したり行事を取り仕切っていたのかもしれないな。


十方院の近くにお住いの方にお話しを伺えた。かつてこの地で馬産が盛んだったことはご存じだったが、時代が移り馬産から畜産牛の育成にかわり、今では牛飼いをしている家も数軒しかないとのことだった。


またここから北に1.5キロほど行ったところに多くの馬頭観音碑がある並木という場所があり、かつては室野井と宇田島の人たちの馬頭観音信仰の拝所で、祭りごとをする場所でもあったという。時代はめぐり馬産から牛の畜産に切り替わったが、並木にお参りしたあと公民館で家畜に見立てた餅を競る行事が行われていた。この習俗は半俵でもみられる。 牛飼いの農家の数も減少しコロナ禍の影響もあり室野井のこの行事は途絶えてしまったそうだ。

それでは室野井の人たちの重要な場所である並木に行ってみよう。


室野井集落から町道守子室野井線のセト坂を登り、二股の斜面上に大きな生駒大神と数基の馬頭観音碑がある。

ここ 以前に道標になってる馬頭観音を観に来たなあ。この前はどうやってこの斜面上に上がったんだっけ?


中央の生駒大神(S15)。後の銘文を読んでみよう。

生駒大神 下野産馬畜産組合技師 菊地芳廣 謹書

下野産馬畜産組合有種牡馬武装號ハ
大正五年ヨリ那須村室井冬吉管理人トナリ
爾來昭和六年ニ到ル満十五ヶ年供用シ
其間生産頭數四百五十余ニ及ビ
本縣産馬ノ改良上至大ノ功績ヲ挙ゲ
名種牡馬トシテ賞揚セラル今般其霊ヲ
祀リ以テ生駒ノ守護ヲ垂レ賜ハラムコトヲ
昭和十五年十一月建之

武装号っていう優秀な種馬がいたって内容。15年で450頭!?

馬頭観世音(年代未確認)

右 馬頭観世音道標 安永7年(1778) 右 奈す 左 板室
左 馬頭観世音 寛政6年(1794)

garitune.hatenablog.jp

 


馬頭観世音 明治35年(1902)

この二股を左の板室方面に。町道室野井ハイランドパーク線、古い別荘分譲地を抜け、暫くすると町道横沢六斗地線と交差する。この十字路付近は並木と呼ばれ、多くの馬頭観音碑がある。この場所は室野井、宇田島の人たちの祭りの会場となった。

左手に大木があったらしいが切り株になっていた。


牧畜場創設記念碑

文地第二一三号ノ内
明治三十年十二月八日付
成功拂下許可

地元願人
 菊池亥之助
 室井彦左エ門
故 福地收藏

大正十二年十一月十七日建之

「那須村郷土教育資料誌」(S5)によると

牧場

室の井は早くより、産馬の業盛んにして、多きは七、八頭少きも六、七頭づつ飼育し、子馬をとり他府県に売り出せり、為に早くより放牧場の設けあり。
明治十四年より放牧場の経営あり。面積六百町歩農林省より補助もあり、良好なる経営をなし居れり。経営代表者は菊地亥之助氏なり。

馬頭観世音(文化元年)


裏山の杉林が大規模に伐採されています。電気畑になりませんように・・。


与一腰掛の松跡@高久甲

那須街道の右手の岡室集落に、壇上から4尺程のところで大きく曲がり、腰をかけるのに丁度いい松があったという。 那須与一が屋島の戦いで扇の的の武名をあげ、御加護御礼のための那須温泉神社へ参詣の帰り、この松に腰掛けて休んだという史跡だ。

東西7.2m 、南北9mにして樹齢800年余と言われた大木であった。この松を傷つけると鮮血が出ると言われ斧を入れる者はいなかったという。昭和の初め枯死して代木を植えたがこれも枯れたという。

 

後世に由緒ある松の謂れを伝えるため、那須興一腰掛松の碑が高久、田代、湯本地区の有志によって大正3年7月に建てられた。