がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

久那瀬河岸@馬頭

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那珂川 八溝大橋 上大桶側から

那珂川の水運はかつて重要な輸送手段で、黒羽から那珂湊までの河岸は江戸時代中頃までには整備されていた。

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那珂川町の久那瀬地区。ここにはかつて水戸藩領武茂郷最大の久那瀬河岸があった。開設は宝永5年(1708)。河岸には領主の公認を受けた河岸問屋が置かれ、水戸藩の御蔵が2棟造立されていた。このあたりにはかつて「十三軒長屋」と呼ばれた筏乗りの住む集落があった。


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栃木県立博物館 第112回企画展「川のあるくらし ~栃木の漁師の玉手箱~」

http://www.pref.tochigi.lg.jp/c01/houdou/documents/h27muse_life_river.pdf


河岸の場所にだいたいのアタリはついていたが、確証を得るために現地の方にお話を伺った。たまたまお会いできたのが久那瀬で川漁師をされている佐藤川魚店の佐藤実さん(78)だ。あとから確認したら、県博の企画展「川のあるくらし」や「栃木民俗探訪」でも登場されている方で、那珂川川漁師の民俗や漁法、漁携用具調査では重要人物なのだった。

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「栃木民俗探訪」下野新聞社より

栃木民俗探訪 とちぎの小さな文化シリーズ(4) (とちぎの小さな文化シリーズ (4))



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佐藤さんの案内で下久那瀬河岸に行ってみた。さすが現役の川漁師さん、足元の悪い岩場をもろともせず、ずんずんと前を進む。

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下久那瀬河岸跡

明治の初期における馬頭の河岸は、特に久那瀬河岸と三川又河岸は渡船場もあって繁盛した。明治13年時点で、馬頭には広瀬・三川又・久那瀬・東富山の四つの河岸が存在した。

那珂川中流域の久那瀬付近まで来ると長さ8間半、幅6尺3寸、水深2尺、米100俵を積める鵜飼舟(うかいぶね)が使われた。茂木から久那瀬あたりでは胴高舟(どうたかぶね)と呼ばれる、鵜飼舟と大きさは変わらないが胴が1尺ほど深く、急な瀬でも水をかぶらないよう胴を高くした帆船が使用された。効率的に荷物を運ぶために水深が深く緩やかな流れの下流域に来ると大型舟に集積する。那珂川では中請け積替え河岸として常陸の野田、長倉河岸が活発だった。

 

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下久那瀬河岸には段丘上から川面に降りる桟橋がかかっていた。崖を削って作った岩棚に板をかけ、谷側の支柱杭で桟橋を組んだという。今の水位に対してかなり高いところにあるかんじだ。かつてこの付近の那珂川の水面は現在より2mくらい高かったらしい。新幹線の工事の際に川砂利をさらったんで川底が深くなったんだ、と佐藤さんはおっしゃっていたが定かではない。

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緑色の草が並んで生えている部分が棚になっている箇所

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泥で埋まった支柱杭の穴の場所を教えてくれた。

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岩盤に作られた桟橋の支柱杭が建っていた穴

那珂川の舟を利用した輸送は旅客より荷物が中心であった。下り荷としては米穀類、酒、醬油、油類、漆、たばこ、楮、薪炭などで、上り荷には味噌、塩、魚、油、木綿、肥料などが積まれていた。

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馬頭は近世から優良な木材の産地として知られ、伐採された木材は馬車で河岸に運ばれて、集積された木材は筏(いかだ)に組まれ水戸市場などに輸送された。久那瀬河岸は材木を組んだ筏流しが盛んで、長さ3.6mの杉、檜などの丸太を藤づるなどで幅約3m長さ25mに組み、これを三組つないだものに六人の筏師が乗って一日半で水戸に着いたという。

筏流しが盛んであった当時、筏師たちの生活を歌った情緒豊かな「筏節」が久那瀬地区に残っている。

 ・ハアーエー
 那珂川難所の加波簗越せば
 歌も出てくる筏節
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 主が竿さしゃ私もともに
 ご飯炊き炊き舵を取る
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 那珂川ならいの水さかずきは
 誰が水あげするじややら
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 那珂川下りの筏の小屋は
 大黒柱は藤の蔓
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

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久那瀬の渡船場にできた八溝大橋(昭和60年竣工)


那珂川で筏流しが行われたのは昭和2、3年頃までだ。明治19年(1886)に東北本線が黒磯まで開通し、東野鉄道が大正7年(1918)に黒羽まで、同13年には小川まで開通した。また大正12年には烏山線が全線開通した。大正8年に小口-小川間に那珂橋が架橋されると氏家駅烏山駅などを通じて木材は鉄道輸送されるようになった。鉄道により荷物を大量に迅速に輸送することが出来るようになると、那珂川沿岸の荷物輸送は鉄道に奪われ、那珂川の水運は衰退していった。

 

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川に面した崖に何か所か大きな穴が開いている。用水のたまった砂をかきだす穴だよ、と佐藤さん。

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中を覗きこんでみるとちょっと中腰にかがんだぐらいの高さの縦長の隧道が岩盤の中を通っているではないか。江戸時代に近江商人が新田開発のために作った手掘りの用水だという。

近江国滋賀県)出身の近江商人で、馬頭村で酒造業を営む富商、外池宇兵衛教意・正西は、私財を投じて松野河原の新田開発のために久那瀬地内の武茂川より松野から富山に至る「松野用水」を拓いた。天保6年(1835)に完成したこの用水は16年の歳月を費やし、正西は用水と開発した新田のすべてを水戸候に献上した。

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槌と鑿で岩盤を掘った用水の隧道はちょうど佐藤さんのお宅の裏側に出て地上に出てくる。こんなすごい遺構が特に案内板もなく存在していることに驚いた。

参考文献:馬頭町史、栃木民俗探訪

大山田、須佐木の映画館 河原坊劇場と山形屋

常設館ではないが、八溝山麓の劇場を紹介する。

黒羽東毛座について当時スタッフだった方からお話を伺ったとき、東毛座と「掛け持ち」での上映を行なっていたと教えてもらった、那珂川町大山田上郷の河原坊地区にある劇場の場所を観に行った。掛け持ちとは、1本のフィルムを複数の劇場で使用することで、劇場間をオートバイや車、自転車でフィルムを運び、同じプログラムを複数館で上映することである。



河原坊劇場
馬頭町大山田上郷951 現住所:那珂川町大山田上郷951
木造二階建 約100席
開業、閉館不明

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栃木の峠―峠でたどる暮らしと文化」桑野正光(2010)に、大山田上郷の河原坊地区から須賀川に抜ける小元峠を紹介するページがある。その記事中に河原坊地区にあった「河原坊劇場」が出てくるのだがその文章を紹介する。

この小さな集落に、「河原坊劇場」という大衆劇場があった。今も外観がそのまま残り、劇場で使われた長いすが近所の軒先に置いてある。来演者の中には村田英雄もいたという。この小さな集落にかつては料亭もあり、昼から三味線が聞こえるほどの賑わいであったという。その賑わいを支えていたのが砂金と葉煙草である。

ご近所の方に確認したところ、当時の河原坊劇場の建物はすべて壊されて、この工場が建てられたとのこと。手前だけが2階建てで奥が細長く平屋になっており、あやしいなとは思っていたのだが、ご近所にお住いの当時掛け持ち(フィルムの運搬を行う業務)をされていた方の話だと、この建物は玩具工場になってからの建物とのことだ。

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河原坊集落は雲岩寺、須佐木から馬頭の健武に抜ける街道(雲岩寺道、健武道 現R461)沿いにあり、また小元峠を越えて須賀川へ通じる要所でもあった。葉煙草の収納所のあった河原坊集落は大いに賑わい、劇場やパチンコ店、料亭まであったという。葉煙草収納所(現在は大野ゴム工業馬頭工場がある)へ通じる河原坊銀座通りは、葉煙草の納付払いの日には道の両側に長靴や下駄などの日用品や雑貨を出店が出たという。須佐木や馬頭の商店が出張していたのかも。ある方はその臨時の市で下駄を買ってもらって嬉しかった思い出を語ってくれた。

 

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かつての小元峠入口

この付近の葉煙草は江戸期より「大山田煙草」として有名で、近隣の地域でも副業として葉煙草の栽培を行っていた。須佐木や雲岩寺集落でも民家の脇に葉煙草を乾燥させる小屋があった。西那須野のほうだとかつては農家には蚕小屋があったりしたが、貴重な収入源だったのだろう。
また大山田下郷から健武にかけて古代より金の鉱脈があることが知られ(那須のゆりがね)産金がおこなわれていた。かつて猪沢(イノッツァワ)に金山があり、また何か所か砂金が採れる沢があって、昭和30年代まで砂金採りは行われていた。業者が採取した砂金を買い付けに来たそうだ。今も時々鉱物趣味の人が訪れるという。

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河原坊銀座通り かつての葉煙草収納所の場所には大野ゴム工業㈱が営業している。通りの中ほどに40年ほど前から営業するきらく食堂がある。昼時ともなると近所の現場や工場で働く人達や近所に住むご隠居さんなど、きらく食堂のご夫婦と味を慕う人たちでにぎわう。きらく食堂を始めた時には前の玩具工場はすでに営業していなかったそうだ。(玩具店は昭和42年には営業を終了していた)

 

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この建物は劇場当時のものでないことは述べたが、劇場があった頃のお話を聞いたのでまとめておく。

劇場は二階建てで表面は板張り、入口は現在の建物だと大谷石で覆われている付近で一段高くなっていた。劇場建物の左手に楽屋として利用された建物があった。集落の入口のクランクしている付近から劇場の脇に路地が伸びていた。椅子は背もたれなどない4人掛けの木製ベンチが2列で5行並んでいた。床は土間で水平、舞台があり、両脇に板張りで手摺りのついた1m幅くらいの二階桟敷があった。建物の裏には跳ね上げ式の窓(大道具搬入口か?)があった。

S30年代後半の入場料は子供20円、大人40円。その頃1日の日雇いの稼ぎが200円くらい。映画が上映されるのはひと月に1回か2回で、黒羽東毛座が掛け持ちで上映した。上映日が近づくとあちこちに手書きのポスターが貼られた。当初は白黒映画だったがS32、33年頃、ポスターに大きく「総天然色」の文字が躍った。カラー作品の映画がやってきたのだ。

掛け持ちで前の劇場からフィルムが届かずにしばらく中断して待つこともしばしば。途中でフィルムが切れて繋ぎ直すまで真っ暗な中しばらく待つこともあった。ブリキの入れ物(円盤などと呼んだ)に入ったフィルム缶が2、3本ずつ到着する。映画の上映がある日は子供たちが劇場に集まった。届いたフィルムを映写室に運ぶ作業を手伝うとタダで映画が観られるのだ。2人か3人のお手伝いの枠を巡って朝早くから子供たちが待っていたという。

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馬頭輸出玩具製作所 と読める。人形を作る縫製工場だったらしい。

旅芝居の一座が来ると、集落を「チンドン屋」が歩いた。チンチン ドンドン チンドンドンと鳴り物を叩きながらチラシを配る。多分一座の人たちが自分たちでやるのだろう。お化粧をして着飾ったチンドン屋に子供たちがぞろぞろとついていく。子供たちは親に行きたいよ、行きたいよぉとせがんだ。その頃は集落には子供が40人くらいいたそうだ。現在はこの近隣の5つ小学校が統合しても、この春の新入生は7人なのだそうだ。

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昔この辺りは働き口も限られており、山仕事ぐらいしかなかったのでみんな貧乏だった。でもまわりもみんなそうだったので、くやしいとか悲しいとかはなかったな、と語ってくれた。今は自家用車で仕事のある地域に通えるので、そんなことはなくなったんだけど、代々暮らしてきた愛する土地を守っていく苦労は図り知れないものがあっただろう。

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馬頭輸出玩具製作所の建物を裏側からみたところ

ご近所にお住まいの掛け持ちを手伝っていた方の話。
本業は建具屋さんだったが、若い頃、伊王野の伊王野倶楽部や黒磯の金剛館への掛け持ちを手伝っていた。東毛座の興行主の鈴木さんがこちらに来られる時はいつもお宅でごはんを食べて行った。体は小さかったが、絵の具で描くポスターの文字は達筆で見事なものだった。河原坊劇場で映画をやるときはお姉さんも頼まれて木戸銭(映画の代金)の徴収を手伝った。当時東毛座には助手が大勢いて、掛け持ちや看板作り、ポスター張りをやっていた。その頃は360ccの軽自動車でフィルムを運んでいた。家の一軒もない鍋掛街道は穴ぼこだらけの砂利道で、暗闇の中進むのは怖いし、当時の車はプラグかぶりしやすく大変だった。多いときは5か所くらい掛け持ちで上映したので、集めた木戸銭は相当な額になった。須佐木の山形屋だけでなく、南方や川上でも農家の広い庭や乾燥小屋を借りたり、須賀川の製材所を借りたりして興行を行った。母畑温泉(福島県石川郡石川町)や芦野温泉で興行したこともあった。


河原坊集落にはかつて旅館もあり、併設して飲み屋やパチンコ屋まであった。劇場は本当に掘っ建て小屋で、下水がなかったので大雨が降ると床が水浸しになって大変だったそうだ。

東毛座の手前にある永井ラジオ店さんと助手仲間のIさんと自分で、真空管の中古を利用してステレオをいくつも作って販売したのを覚えている。建具屋なのでスピーカーボックスを作った。店の前でレコードを掛け大きい音で鳴らしてデモンストレーションをした。

 

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山形屋
黒羽町須佐木161 現住所:大田原市須佐木161
当時の構造、席数不明
開業、閉館不明

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雲岩寺手前の須佐木に山形屋商店はある。山形屋は食堂と精肉店を生業としていたが、昭和30年代その建物は劇場として使われた。黒羽東毛座から掛け持ちで山形屋で上映し、さらに河原坊劇場にフィルムが回されていたという。

山形屋商店は芝居の公演でも使用された。旅芝居の一座も1週間ほど滞在し、舞台を上演したという。情報がないので雑文を書くよ。旅芝居といえば、西那須野に那須ヘルスセンターという施設があった。休憩室も兼ねた演舞場と入浴施設が合わさった芝居小屋の進化型だ。那須ヘルスセンターはその後スポーツクラブのスイミングの施設になったが、社名として今も残っている。大衆演劇の一座が短期間公演を行うんだが、一座の子どもがその間だけ近くの小学校に転入してくるんだ。やっと友達になったらすぐ転校で本当にかわいそうだった。

山形屋で思い出すのは、黒羽藩御用達鍛冶の山形屋であるが、そちらは今も後裔の方が金属加工業をされている。なにか関係があるのか?・・芝居好きが高じての小屋運営なら「忠治山形屋」のほうかもしれない。国定忠治の元ネタの講談だ。

何か新しい情報が分かり次第更新します。

河原坊劇場と山形屋の記憶、思い出、関係資料についてご存知なことがありましたら、書き込みして頂けるとうれしいです。

 

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 今回の劇場の情報は詰めが甘かったですが、旧峠情報に関しては間違いない!読んでるだけで楽しい旧道廃道愛好家必携の本です。

 

馬頭の映画館 馬頭新興館と馬頭クラブ

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栃木県大日本職業別明細図 T14(1925)

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栃木県大日本職業別明細図 S12(1937)

f:id:gari2:20210226211339j:plain馬頭時報S26(1951)07創刊号 広告

 

昭和30年代、馬頭地区にあった映画館は、新町下の新興座と荒町の馬頭クラブの2館だ。

新興館
馬頭町馬頭462、463、464 現住所:那珂川町馬頭464-1
木造二階建 220-480席
開業1941年7月 1964年までは確認 

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新興館があった路地の入口。東芝ストアの青木電機にベータマックスの看板が現役。

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現在は白寄病院が建つこの敷地内に新興館はあったという。経営者は小川映画劇場と同じ井上兼世氏。邦画を中心に上映していた。映画年鑑による小川映画劇場と新興館の年ごとの系統の表記がほぼ同一なので「掛け持ち」での上映を行なっていたと思われる。掛け持ちとは、1本のフィルムを複数の劇場で使用することで、劇場間をオートバイや自転車でフィルムを運び、同じプログラムを複数館で上映した。

白寄病院は、馬頭町の町長を3期務め2020年に亡くなられた故白寄暹(すすむ)氏の経営していた病院だ。幼少の頃ご近所にお住まいだったthoughtmayさん情報によると、かつては白寄家の広い芝生の庭があり(画像左手付近か?)そこが映画館の建っていた場所だと言われていたそうだ。


f:id:gari2:20210226212233j:plain馬頭新聞S39(1964)3月号 馬頭新聞にみられる新興館の最後の広告 「なお三十一日は小川映画劇場で上映致します」とある。


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松井天山の「栃木縣馬頭町真景」T13(1924)をみると、新興館があった場所に「共栄座」と書かれた建物が描かれている。名前からして劇場のようだが、果たして新興館との関係は?共栄座の建物を利用して新興館を営業した可能性も出てくる。

 

馬頭クラブ
馬頭町荒町105 現住所:那珂川町馬頭110
木造一階建-二階建表記に 240-350席
創業1949年10月 1963年までは確認

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馬頭クラブは乾徳寺の参道沿いにあった。左側は広重美術館の駐車場になっている。

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馬頭新聞S37(1962)10月号 馬頭新聞にみられる馬頭クラブの最後の広告


新興館で情報を頂いたthoughtmayさんによると、かつてこの付近に公民館のような建物があり、そこで剣道を習っていたそうだ。板張りの床はかなり傷んでいて、山火事の話をしながらガムテープで床の修繕をした記憶があるそうだ。山火事というのは昭和52年(1977)3月に旧黒羽町から旧馬頭町の山林で3日間燃え続けた那須林野火災のことだ。

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thoughtmayさんから頂いた資料「広報ばとう」の昭和45年8月号の表紙から。剣道スポーツ少年団の活動を伝える写真である。建物の中ほどで天井の高さが変わるのか、間仕切りのような壁が存在している。側面の飛び出しが遠近感にしては急角度な感じで、天井が弧を描いているようにもみえる。

 

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同 昭和46年8月号より

記事ではこの建物を「町民会館」と呼んでいる。thoughtmayさんによると、いろんな催しものを行なったり集会所としての機能もあったようで、現在那珂川町役場の建つ場所に山村開発センター(昭和48年12月)が建ってからはその役割を終えたようだ。

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同 昭和48年8月号より

「町民会館」には2階に桟敷があり、螺旋階段を上がり2階に上がる構造だったという。赤マルで囲った部分に少し桟敷が写っているとのこと。1階は板張りで縁の下があり、建物入口は言われてみれば劇場風なつくりだったそうだ。thoughtmayさんはここで町の催しの映画を観た記憶があるとのこと。

馬頭クラブは映画館としての役割を終えたあと、1階を板張りにし町民会館として利用されていたようだ。それは1970年代後半まで残っていたのだ。2階桟敷が残っていたというのも驚きだ。ある程度の規模の映画館であれば、スクリーンや舞台に向かって傾斜がつけられていたと思うが、床を水平にする目的もあって板張りに作り直したのかもしれない。

馬頭クラブが常設館としての営業をやめたあと、黒羽東毛座は馬頭クラブの施設を借りて上映を行なったことがあるとのことだった。以下の記事中を参照のこと。

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馬頭新興館、馬頭クラブの記憶、思い出、関係資料についてご存知なことがありましたら、書き込みして頂けるとうれしいです。

 

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昭和30年の栃木の酒

栃木県商工要覧 昭和30年版 酒類 工業の項より

本県は米産県として知られ、その上適水、気候ともに恵まれて古くから酒造工業が盛んで関東地方の銘醸地として知られている。 現在工場数66工場によつて、昭和29年度の醸造石数は清酒約5万石、合成酒、焼酎等約 2,000石 (専業工場8、兼業2) が生産されており、品質も全国一流メーカー製品に比べて遜色なく県内需要を充すほか近県に移出しているが、嗜好の点から県外酒も相当移入されている。

栃木果酒造組合名簿

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参考:「栃木県商工要覧 昭和30年版」栃木新聞社

 急ごしらえで表が画像ですみません。何か気づきがあれば追加します。

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瀬縫のお不動さま

那須町高久上瀬縫にある瀬縫のお不動さまに行ってきた。 瀬縫のお不動さまは、かつて大変ご利益があることで知られ、広く信仰を集めていた。

戦前は毎月28日に瀬縫不動尊の縁日があり、特に旧正月と旧7月には夜明け前より黒磯駅から続く街道には参詣者の流れが続き、街道沿いには多くの露店が出たという。

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上瀬縫の集落を抜けて不動尊の手前の滝の本集落センターの十字路から。現地の方に訊いたら、戦後も縁日の日にはこの参道沿いに露店が並んでいたそうだ。

黒磯市誌でこの瀬縫の不動尊の話が出てくるのは、黒磯駅の成り立ちと乗降客についての項なのだが、温泉地の最寄り駅として季節により利用客が増減したが、毎月28日、この瀬縫の不動尊の参拝客で駅がごった返したというのだ。正月、7月の縁日の日は列車の増発まであったという。

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それほどのご利益があったという瀬縫の不動尊。現在では藪に包まれてひっそりと静まり返っている。

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うっそうとした通路を抜けると広場になり、灯籠と歪んだ石段があり一段高くなった山の斜面にちょっこりとお不動さまが安置されている。入口の灯籠は昭和36年9月、東京都千代田区西神田のT夫妻による建立。清水の近くの灯籠は同住所同姓違う夫妻による昭和25年旧1月28日の建立。

 

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祈願かなった人たちが感謝を込めて社殿を造営すると、たちまち暴風雨が起こって破壊されてしまったという。格式や権威が嫌いなお不動様らしく、今も露天に安置されているのだという。

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おびただしい数の奉納剣。以前は手前の上瀬縫の集落の高久家が管理していたが、現在は集落で管理をされているとのこと。

こちらは那須町那須美さんのブログの記事。
那須りんどう茶屋 まいらんせ!奥那須へ 「大欲・・?」

rindoutyaya.at.webry.info

那須美さんは2012年の年末に瀬縫のお不動さまを訪れている。瀬縫を訪れた当時、高久家が管理しておりそちらのおばあさんからまだ奉納剣が買えたという。今回そのお宅を訪ねたが、代が替わり新しい建物に建て替えられ、昔を知ることの出来るものは何もないとのことだった。


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こちらが件のお不動様である。風雨にさらされ、陰影が消失しつつある。はたしていつ頃建立されたものだろうか。那須町史によると、大永年間(1511-1528)から続く雨乞い行事が今に至るまで続けられているとある。瀬縫不動尊は別名雨乞い不動と呼ばれている。

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石仏のそばには崖から滲みだして流れる清水があり、その流れはお不動さまの鎮座する場所の向かいの池に注いでいる。ここから芦野の方に水脈が伸びていて、 日照りが続くと、近在近郷から「水もらい」に組内・坪内または講中でお参りに来たという。その帰りにはきっと雨が降った。

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那須町史の解説でも水不動としての霊験、雨乞いの神さまだということが大きく扱われているが、雨乞いのご利益だけでは遠くから電車に乗って詣でたりしないだろう。奉納剣の願い事をみてみると、受験や商売繁盛などの祈願も目立つ。不動明王は、三鈷剣により魔を退散させ、煩悩や因縁を断ち切り、羂索で悪を縛り上げ改心させ、煩悩から抜け出せない人を救い上げ、迦楼羅焔で魔を焼き払い、煩悩を焼き尽くす。悩み事、願い事を叶えると信じられていたお不動様。

変わった例だと、戦時中、鍋掛の方で2月8日の針供養の際に大きな針刺しを作って瀬縫のお不動様に持って行ったというのがあった。瀬縫の地名も関係するのだろうか。

那須塩原市介護サービス機関紙「あやとり」第25号 2007.03

http://www.city.nasushiobara.lg.jp/14/documents/ayatori21~30.pdf


黒磯市誌によると、かつては、瀬縫不動尊に参る者は必ず大田原不動尊に、大田原不動尊に参る者はまた瀬縫不動尊に参る慣習があり、特に旧正月と旧七月は参詣者が多く、この日は列車を増発するほど盛況だったとある。ここでいう大田原不動尊とはどこのことなのか。ネームバリューでいえば成田山新勝寺の分院、成田山遍照院である。ご住職がなにかご存じないかと成田山遍照院さんにもお話を伺いに行ったが、成田山遍照院が大田原不動尊と呼ばれていたかどうかははわからない、龍泉寺のお不動様も龍頭不動尊として有名だから龍泉寺にも聞いてみてほしい、とのことだった。かたや戦国時代創建の霊験あらたかな 瀬縫不動尊、そして明治17年開創の 新名所?成田山遍照院のお不動さまをあわせてお参りするスタイルが鉄道ツーリズムの流行を背景に流行った、ということなのか。 参詣のために電車が増便されるくらいだから、何らかの資料や文献がありそうなものだ。

 

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敷地内に建立されている立派な倶利伽羅剣を模したいくつかの奉納碑は東京の個人や企業の信奉者が建立した昭和50年代のもので、信仰が昭和初期で途切れてしまったわけではないことがわかる。

先ほども触れたように、10年ほど前までは奉納剣も買え、毎月28日の縁日の日には訪れる人もいたようだが、現在どうなのか?すぐ隣のお宅の方の話だと、今でも時おり訪れる方がいることは間違いないとのこと。


瀬縫のお不動さまの手前に廃屋となったお堂が存在する。入口近くにある石碑に「不動尊信者一同」とあることから、瀬縫の不動尊関連の施設だと勘違いされている方もおられるが、こちらは富士・御嶽信仰系の新宗教神道実行教のお堂だった。

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皇紀二千六百年の灯籠や記念碑もあり、近所の方に関係をたずねると、瀬縫のお不動様とその施設は関係ない、と教えてくれた。

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[表] 東宮妃殿下安産祈願祭神奉齋所
[右] 祈願者 権少教正 黒崎忠平     神力神子 西村峰子
[左] 大正十四年十二月ニ十七日 東宮大夫書状下附
             侍従 落合義誠 書
[裏] 栃木県那須郡 神道実行教会所

           主管者 少講義 西村定

 昭和四十八年一月ニ十八日 外不動尊信者一同 建立
那須町の記念碑にて確認)


瀬縫のお不動さまについて、新たに分かったことがあれば更新したい。


栃木県北 花市・初市2021日程

令和3年の県北の花市・初市は新型コロナウイルス感染症の影響により ほぼ中止となる。黒田原花市に関しては公式情報は見当たらなかったので、那須町商工会に問い合わせを。

 



栃木県北 花市・初市2021日程

 「さくら市氏家暮市」中止

さくら市氏家花市」 中止
 毎年7日に開催

花市の開催中止について – 栃木県さくら市観光ナビ


「花市(西那須野地区)」  中止
毎年11日に開催
西那須野商工会

にしなすの花市 中止のお知らせ

 

「花市(大田原地区)」 中止
毎年1月12日開催 

広報おおたわら(令和3年1月号) | 大田原市


「初市(東那須野地区)」  不明
毎年10日あたりに開催
公式情報見当たらず 


「花市(矢板市)」 不明
毎年13日に開催
公式情報見当たらず

「花市(佐久山地区)」 1/11(火) 10:00-17:00 (時間短縮の可能性)
佐久山地区公民館駐車場 (通常毎年14日に開催 )

福引で新春の運試し 感染防止し佐久山花市 大田原|地域の話題,県内主要|下野

新聞「SOON」ニュース|新型肺炎-COVID19-|下野新聞 SOON(スーン)

大田原、黒羽地区の中止についての記述あり

「黒田原花市」  1/16(土)10:00-18:00 (時間短縮の可能性)
毎年第三土曜日に開催
公式情報見当たらず

栃木県内催事情報(提供:県観光物産協会) | 連合栃木



「黒磯初市(花市)」 中止
毎年第四土曜日に開催
那須塩原市商工会
黒磯初市 開催中止のお知らせ


「黒羽大花市(黒羽地区)」 中止
毎年第四日曜日に開催

広報おおたわら(令和3年1月号) | 大田原市



烏山の映画館 烏山アサヒ座と烏山平和館、烏山映画劇場

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栃木県大日本職業別明細図 T14(1925)

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栃木県大日本職業別明細図 S12(1937)

昭和30年代、烏山地区にあった映画館は、鍛冶町のアサヒ座と、金井町の平和館、泉町の烏山映画劇場の3館だ。

烏山アサヒ座
烏山町102 現住所:那須烏山市中央2丁目3-15 
木造一階-二階建て 230-300席
創業1953年6月 資料では1953年から1964年までの営業を確認 閉館年は不明

「映画年鑑1953 全国映画館総覧」によると経営者・興行主は長谷川興業、翌1954、55年には烏山興業企業組合に変更になっている。S28(1953)「烏山案内」にはアサヒ座と平和館の2館の映画館の広告が隣り合わせに掲載されている。1956年より川田関氏が経営者・興行主になるが、1960年の「全国映画館名簿(S35)」には烏山興行(業の誤字か)社、同年「全国映画館録1960」では川田関氏とある。1962年は経営者・興行主は烏山興業企業組合、支配人は川田関氏となっているので、川田関氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。

f:id:gari2:20200727213459j:plain「烏山案内」烏山観光協会烏山町商工会 S28(1953) 広告より
旧地名の鍛冶町とある。現在でも地区の通称として使われている。

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現在の烏山アサヒ座跡地

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烏山町住居表示新旧対照案内図S41(1966)に店舗名書込み


八雲八幡通り 佐野医院、よろづやの向かい、慈眼寺の裏手にアサヒ座はあった。現在は烏山保育園の駐車場になっている。住居表示新旧対照図によると昭和41年時点で烏山102の地番が振られた建物は3つあるが、映画館だった建物はマークした八雲八幡通りから奥まった場所にあった。
隣接する烏山保育園は、大正時代に創立し栃木県内2番目に歴史のある保育園とのこと。慈眼寺の東側にある建物がそうだ。また、八雲八幡通りから松月庵脇に抜ける路地には大正初期、「橘演芸場」という小屋があったという。S12(1937)の栃木県大日本職業別明細図には「新盛館」の屋号がみられる。これがその後の橘演芸場だろうか。



 

烏山平和館
烏山町451 現住所:那須烏山市金井1丁目10-6
木造二階建て 350-400席
創業1953年6月 資料では1952年から1974年までの営業を確認 閉館:1976(S51)「写真で見る烏山町明治大正昭和」キャプションからの情報

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「烏山案内」烏山観光協会烏山町商工会 S28(1953) 広告より

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現在の烏山平和館跡地 ホームセンターサンハウス(旧ライオンドー居抜)があった 

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烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より

この案内図には烏山平和館の建物に「パレス」とある。手持ちの「全国映画館録/映画館便覧」資料では1965-1969年が確認出来ていないので、名称変更があったかどうかは不明である。

 

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「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より

S28(1953)発行の「烏山案内」広告には殖産興業K・Kの名前がみられるが、前年の「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は菊地正夫氏となっている。翌年の「映画年鑑1953 全国映画館総覧」では殖産興業の名があり、翌1954、55年版では烏山興業企業組合の名義となっている。1956年から再び菊地正夫氏となり、烏山興業企業組合と何度か表記が変わる。1954、55、61、62年は経営者・興行主が烏山興業企業組合、支配人が菊地正夫氏なので、菊地正夫氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。烏山興業企業組合の名称は鍛治町の烏山アサヒ座の経営者・興行主名でも見受けられる。平和館、アサヒ座は同じ経営母体で運営されていたのではないか。しかし殖産興業と烏山興業企業組合の関係は不明である。1970年より興行主・支配人は笠井登美子氏に変更される。



烏山映画劇場
烏山町223 現住所:那須烏山市中央2丁目15-4
木造一-二階建て 230-800席
創業不明 資料では1952年から1960年までの営業を確認 閉館不明であるが
建物自体はT09(1920)落成とある 映画常設館になる以前から劇場として存在した

「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は長谷川興業となっている。これは1953年6月創業のアサヒ座と同じ興行主であり、電話番号も同じ烏山270になっている。支配人も1956年からアサヒ座の支配人となる栗原統雄氏。これはアサヒ座の準備期間として居抜きで烏山劇場の建物を利用して興行していたのではないか。
記録は飛んで1957年から興行主は森清氏、支配人は古谷一郎氏で営業が確認できる。しかし1960年を最後に映画館名簿の掲載はなくなってしまう。

 

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山あげ通り沿い。現在は民家と空地になっている。

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烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より

地番としてはこの付近であるが、昭和41年の地図で建物がそっくり残っていないのもおかしい。下の烏山倶楽部時代の写真の左隣の建物の廂の感じが15-16のお宅の感じにそっくりなのでこちらに推定した。付近の商店の方に伺ったところ、こちらで間違いないとのこと。

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「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より
キャプションには 烏山劇場(泉町に庶民の娯楽の殿堂として大正9年落成)とある。写真を見ると「烏山倶楽部」と当時の名称がみえる。昭和30年代の烏山映画劇場もこの建物のまま営業していたとのこと。

 

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跡地を「写真で見る烏山町明治大正昭和」掲載の写真と同じ角度で写したもの。隣の建物は元商店のようだが、玄関のひさしが唐破風であったり、通りに面した意匠が凝っていてなかなか興味深い。

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栃木県大日本職業別明細図 S12(1937) 部分

実は以前の聞き込みでは、久保田屋旅館の隣の、那須南病院職員駐車場として使われている場所が烏山映画劇場であるという情報もあった。これは住居表示新旧対照図により否定されるものであるが、「栃木県大日本職業別明細図」S12(1937)をみると確かに久保田屋旅館の隣に「烏山劇場」がある。唐破風の玄関、もしや隣の敷地に現存する建物は元久保田屋旅館、なんてことは??

 

 

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