馬とかかわりの深い那須地方の馬頭観音信仰や那須駒について、あちこちふらふらしながら調べていくうち、基本的な近代の歴史の流れや時代背景についてよく知らないことに今さらながら気づく。軍馬補充部発足以前の日本の状況、馬産農家の多くは、小農あるいは自分で馬を購入できない小作人たちだったこと。ろくに訓練もされていない徴発馬を軍馬として戦地に連れて行ったこと。いったい何割の馬が無事日本に戻ってこれたのだろう?知ってより現実味が帯びるにつれ、もう俺の興味のある「郷土史ちょっといい話」の範疇ではないなと思いつつも、より正しい理解のためにまとめておきたい。
日清戦争(1894〜1895年)や義和団の乱(1900年)当時における日本の馬の質の悪さと、軍馬としての実用性の低さは、高名な騎兵指揮官であった森岡大佐でさえ、あまりの扱いにくさに疲れ果て、「こんな役に立たない馬どもは、帰国時にすべて海に沈めてしまいたい」と愚痴をこぼさざるを得ないほど、当時の日本の軍馬の状況は深刻だった。
当時の日本の軍馬は去勢されていない牡(オス)馬が多かったので、非常に気性が荒く、前線で激しく暴れたり喧嘩を始めたりして、軍の統制を著しく乱した。西洋の軍馬に比べて体格が小さく、ぬかるみの多い大陸の戦場ではすぐに疲弊し、実用に耐えなかった。日本軍が現地で捕獲した清国の馬(支那馬)は、性質が温順で忍耐強く、非常に扱いやすかった。そのため、捕獲した支那馬の方が役に立つため、日本軍の徴発馬の3分の1から3分の2は払い下げ、支那馬に乗り換えたという主旨の記録も残されている。
義和団の乱が日・英・米・露•仏・伊・独・澳 の8か国が共同出兵した北清事変に発展した際、日本の軍馬の悲惨な状況を各国に露呈させることになった。日本の牡馬は外国の牝馬を見ると、軍紀を無視して興奮し、味方だけでなく同盟国の行列に突撃して大混乱を引き起こしてしまった。さらに、興奮して人間や他の馬を噛み殺そうとするため、戦地で射殺せざるを得ない馬まで出た。
当時の日本軍の軍馬は、ほとんどが去勢されていない「牡(オス)馬」だった。日本の伝統的な馬術や武士の文化では、「去勢した馬は覇気がなくなる」「荒々しい馬を乗りこなしてこそ一人前」という意識が根強く残っていたためだ。
一方、アメリカやヨーロッパの軍隊では、軍馬を扱いやすくするため、また戦場で興奮させないために、去勢(セン馬)するか、あるいは牝馬を上手にコントロールして運用していた。メスが混ざっていても整然と行動できるほど「順柔」に訓練・管理されていた。
この北清事変での「大恥」と大損害に直面した日本軍は、外国軍とのあまりのレベルの差に愕然する。これがきっかけとなり、明治政府は猛省し、大規模な「軍馬改良計画」や馬の去勢を義務付ける政策を急ピッチで進め、日本の馬の改良と近代化が急速に進むことになる。
明治時代の日本軍における「軍馬の去勢論争」は、単なる獣医学的な議論ではなく、「日本の伝統的な武徳・精神論」と「近代的な軍事合理性」が争う一大論争であった。
去勢反対派(伝統・精神論派)
明治初期から中期にかけて、陸軍内や国内の馬産地では「去勢絶対反対」の意見が圧倒的だった。
「馬の覇気がなくなる」という精神論
武士の時代から「荒々しい悍馬(かんば)を乗りこなしてこそ一人前」という文化があった。「去勢した馬(セン馬)は牙を抜かれた抜殻のようになり、戦場で突撃する勇猛さが失われる」と本気で信じられていた。
「種馬」が減ることへの危機感
当時の地方の有力者や馬主たちは、去勢によって優秀なオス馬の血統が絶えてしまい、日本の馬の生産(馬産)が衰退することを恐れた。
技術の未熟さとリスク
当時の日本には、安全に馬を去勢する獣医学的技術や衛生環境が普及していなかった。手術の失敗による死亡リスクを恐れた。
去勢推進派(近代化・合理主義派)
フランス留学から帰国した「日本騎兵の父」秋山好古や、欧米の軍事事情を知る一部の獣医官・将校たちは、早くから去勢の必要性を訴えていた。
欧米の駐在武官からの酷評
明治初期に日本へ来たヨーロッパの軍人たちは、日本の牡馬を見て「日本人は馬の形をした猛獣に乗っている」と呆れ果てていた。欧米では、軍馬を去勢して扱いやすくするのが世界の常識であったからだ。
戦術・兵站上の致命的欠陥
去勢していない牡馬は、敵の馬や牝馬の匂いを嗅ぐと激しく興奮し、いななき(鳴き声)をあげる。これは「隠密行動や夜襲が不可能になる」ことを意味し、軍事作戦上、致命的な弱点だった。また、輸送中に暴れて兵士を負傷させることも日常茶飯事だった。
論争の転換点となった「二つの戦争」
この平行線の論争を終わらせたのは、実戦での大失敗だった。
日清戦争(1894〜1895年)での露呈
日本軍の牡馬たちは戦地で暴れまわり、作戦に多大な支障をきたした。日本軍は「やはり去勢が必要だ」と痛感し始めるが、国内の馬産農家や保守派の抵抗が強く、法制化には至らなかった。
義和団の乱(1900年)での「決定的な大恥」
先述のエピソードの通り、欧米列強との共同戦線において、日本軍の馬だけが牝馬を見て大混乱を起こし、他国の軍隊から「家畜ではなく野獣だ」と失笑・軽蔑された。各国の軍人が見ている前で大失態を晒したことで、陸軍の上層部もついに「精神論」を捨てざるを得なくなった。
結末:法律の制定と「在来馬」の消滅
義和団の乱の翌年、1901(明治34)年に「馬匹去勢法(ばひつきょせいほう)」がようやく成立する。これにより、軍馬や民間が飼育するオス馬(種牡馬を除く)の去勢が段階的に義務付けられた。 さらに、日露戦争(1904〜1905年)でのロシア・コサック騎兵との激戦を経て、日本軍は去勢だけでなく「そもそも日本の在来馬は小さすぎて西洋馬に勝てない」という現実にも直面する。 結果として、政府は「第一次馬政計画(1906年〜)」を立ち上げ、以下の大改革を断行する。
1. 日本の小さなオス馬を片っ端から去勢する
2. 海外から大型の西洋馬(サラブレッドやアラブ種など)を輸入し、日本の牝馬とかけ合わせる。
この国策により、わずか30年ほどの間に日本国内の馬の9割以上が洋種との雑種(大型・去勢済)へと置き換わった。軍馬の質は劇的に向上したが、その代償として、中世から日本の合戦を支えてきた「南部馬」などの優秀な日本在来馬の純血種がほぼ絶滅するという、文化的な悲劇も生むことになった。
軍馬の去勢論争は、「日本の精神」にこだわり続けた結果、近代戦のリアルな現実に力づくで方向転換を迫られた、明治という時代の縮図のような出来事だったと言える。
参考文献:
「日本在来馬と西洋馬」小佐々学
「軍馬改良と名馬の産地―明治期の戦争がもたらした矛盾―」堀内 孝
那須地方の馬が全国に誇る「那須駒」として大きく発展した背景には、国の軍事需要、とりわけ近代的な軍馬育成施設がこの地に置かれたことが深く関係している。
陸軍により全国に7つ置かれた軍馬補充部の「白河支部」(本部:福島県西郷村)の重要な出先機関として、明治31年(1898年)9月、那須村田畑(現在の那須町田島)に「那須派出部」が新設され軍馬の育成が行われた。
逃室交差点を那須高原SA方面へ。これがかつて軍馬道と呼ばれた軍馬補充部白河支部那須派出部に向かう道だ。
5万分の1地形図「那須嶽」初刷1910年(明治43年)発行より 逃室付近
那須高原SAの東京方面入口を通り過ぎたところにある十字路から先が、かつて派出部があった場所だ。
今昔マップon the wabを利用した現在の航空写真と初刷り地形図に描かれた那須派出部事務所付近の道路と建物を重ねたもの。
事務所と施設を取り囲む土塁が当時の地形図の通り残っている。
那須派出部略図 「那須の太平洋戦争」より
このへんが正門になるのだろうか。この先東北自動車道の高架構造の高速道路が那須派出部の施設群跡地を東西に横断している。
正門近くの敷地を取り囲むように城壁のような土塁が残っている。土塁のあるお宅の方にいろいろお話を伺ったあと、土塁の上に登らせてもらった。
那須派出部略図のこの位置には「遥拝所(ようはいじょ)」と書かれている。
高速の高架をくぐって右手の高台に墓地がある。那須派出部跡地を俯瞰できる場所だ。
左側の高速道路路側帯から。辺りは木々が茂っており、厩舎や関連施設が建っていた状態を想像するのは難しいが、高速道路下に堆肥舎、馬糧庫が並び、ここからの正面左右に厩舎が並ぶ感じだろうか。

那須牧場の看守仮小屋 西郷村歴史民俗資料館所蔵
那須高原スマートインター線の「兼ちゃんのうどん屋だよ」を過ぎたあたりのところに那須派出部の北側の土塁と裏門があった感じか。「兼ちゃん」の北西にある丘は、那須派出部を囲う土塁の名残りなんだろうか?店主さんからはこの「丘」についての情報は得られなかった。
那須派出部が置かれた田畑地区(現在の田島)はもともと谷地(やじ)と呼ばれる湿地帯だったため、構内全体に土管を埋める大規模な暗渠排水が施されたという 。
高津牧場高津看守舎構内運動場での逍遥 西郷村歴史民俗資料館所蔵
支部本厩の逍遥運動 西郷村歴史民俗資料館所蔵
泉出張所看守舎 西郷村歴史民俗資料館所蔵
5万分の1地形図「那須嶽」には、軍馬補充部が広大な放牧地内に築いたとんでもない長さの土塁(外囲土塁・境界土塁)が描かれている(ピンクのマーカー部分)。最良の軍馬を育てるため、馬たちが民有地へ逃げ出さないように敷地を区画する必要があったからだ。重機のない時代、すべては人々の手によって作られたものだった。
西郷村 台上地区に残る土塁遺構
放牧の軍馬と牧手 「那須の太平洋戦争」より
白坂厩構内 誘導運動 西郷村歴史民俗資料館の展示より
高津公民館、高津湯泉神社にある馬匹共同運動場の碑




千振保育園・逃室小学校千振分校跡近くに残る「高津牧場事務所跡」と呼ばれている建物。西郷村歴史民俗資料館所蔵の写真のキャプションは「看守棟」だ。「那須の太平洋戦争」にある高津分厩、高津牧場見取り図でもほかに事務所的な建物はないようだ。
高津牧場 看守棟 西郷村歴史民俗資料館所蔵






高津分厩 トロッコ跡の道 広く開けた場所は、逃室小学校千振分校跡。
戦争が終わると軍馬補充部は解体されたが、その広大な跡地は戦後の重要な役割を果たす。外地からの引揚者や地元の農家の二・三男などを多く受け入れる大規模な開拓地(入植地)へと生まれ変わった。現在、那須の美しい酪農地帯や農地として知られる千振などの美しい景観は、この軍馬補充部が遺した広大な土地がベースになっている 。








矢板市の沢集落に来た。かつては日光北街道の宿場として栄えた集落であるが、今はひっそりと静まり返っている。昭和40年代くらいまでは、草屋根の屋並に馬喰宿があったというが、今はその面影もない。集落の中央に大きな鉤の手(クランク)があり、かつては城下町であったことがしのばれる。
中世(室町・戦国期)において、ここには那須氏の一族である沢村氏が築いた「沢村城」があった。特に上那須家・下那須家の分裂期には下那須氏の本拠地となり、のちに廃城となって「沢観音寺」の敷地となった。
沢集落が繁栄したもうひとつの理由がこの鉤の手の一角にある。かつては大いににぎわった沢の馬市跡である。

























誠之介と万屋の昭吉、玉屋の加代ちゃんは竜吉とお満を連れ立って黒羽向町の町並みを奥沢村方面に歩いてくる。明王寺を過ぎると高岩神社のこんもりとした杉林が見えてきた。ずっとまっすぐだった道が高岩神社の前で方向を変えるのだが、これは城下町の特徴の桝形になっていた部分かな。















このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。
辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。
またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある那珂川の高岩の深い渕に住む竜神様の頭であると信じられていた。村の人々は竜神の頭がここ辰口で、その尾っぽは緒川あたりまで及んでいると想像した。
高岩波切不動尊は、那珂川で帆かけ船や筏で舟運が行われていた時代、近郊農民の五穀豊穣と水運の無事息災を祈願したという。その昔、那須与一が屋島の合戦で扇の的を射るとき、鵜黒の駒を海に乗り入れ波立たぬようにこの不動尊に祈願した。この波切不動の霊験によって波が鎮まり、見事扇の的を射落とすことができたと伝えられている。
高岩山密蔵院明王寺に付属し、初め桧木沢二ッ滝の地にあったが、寛永年中に藩主大関土佐守高増が黒羽城より眺められるこの地に移転させたという。寺伝によればこの波切不動尊像は仏師運慶の作と伝えられる。

