
那須与一は三国一よ、男美男で旗頭~。
那須の八幡崎、八幡平には、そんな与一が少年期に弓の腕を磨いたという言い伝えのある場所。那須岳から南東方向に延びる尾根の末端に広がる標高1040mの高原だ。那須連峰を背景に、広く那須野が原から白河方面まで一望することができる。
那須与一が少年期に弓の技術を修練した場所は、南金丸の法師峠では?あるいは三輪の神田城跡では?と思うが、屋島の戦いで願掛けした神々の「八幡大菩薩」は金丸八幡宮(那須神社)、「湯泉大明神」は那須温泉神社であり、そこから派生したサイドストーリーが少年期の弓の修練の逸話である。

八幡崎、八幡平という地名の由来は、この地に八幡宮が祀られている事実があるわけでもなく、坂上田村麻呂の東征の伝説とも関係ないようだ。そうするとやはり那須与一が願掛けし成功を収めた八幡神としての那須温泉神社ということになるのではないか。この南東の斜面が、古くから馬の放牧地だったこともあり与一伝説と結びつき、与一が遠矢の稽古をした「八幡の馬場」という呼称もつけられている。

那須高原線からグリーンロッジ裏を抜け那須自然研究路に向かう。この辺りは昭和初期に矢倉石スキー場として整備された那須のスキー発祥の地である。

「那須 温泉・登山・ハイキング」 中村敬 昭11(1936)より
左手一二町をへだてた大岩は、扁應山から辨天温泉に行くときにも見えるヤグラ石で、躑躅の中に大きく目立ってゐる。この石を那須餘一のヤグラ石といふが、或は那須餘一の矢隠(ヤガクシ)石が正しいのかと思ふ。なほ「ヤ」も「クラ」も石の意であつて、要するにただ石といふことだとも考へられる。このあたりを餘一の矢場といひ、那須餘一が遠矢の練習をしたところと傳へる。これを思ふと、今もなほ勇姿颯爽たる若武者、餘一宗隆が、那須嶽颪に駒の鬣なぶらせつつ、そこらの木蔭から現れさうなところである。(那須 温泉・登山・ハイキング)

矢隠(やがくし)石、またはヤグラ石ともいう。少年時代の与一が湯泉大明神に祈りを込めて弓矢の稽古をした矢場で、この大岩に矢を隠したと伝えられている。

表面に無数の小穴が開いている。マグマが地表付近で急激に冷えて固まる際に、中に含まれていたガスが抜けてできる溶岩特有の構造だ。

このあたりは低木とチシマザサが茂って視界が遮られてきているが、かつては大丸園地付近まで放牧地で、牧場の提(土塁)がずっと続いていたという。今も残っているのかな?

牧畜の発展を目標として設立された県営那須牧場(のちの豊浦農場~毛利農場)が明治12年那須岳中腹(八幡、大丸周辺)に支場を開設。支場は5月から11月まで放牧場として利用された。牛の飼育はうまく行かず明治30年代にはやめてしまった。
黒磯の資産家、倉光三郎は那須牧場、豊浦農場、毛利農場で経営管理を行い、黒磯の発展に貢献した人物だ。後年は産馬の振興に尽くし、日本産馬協会の理事にも就任する。戦前、那須地方が那須駒の産地として全国に知れ渡ったのは倉光三郎のおかげだと言われている。(郷土の人々矢板・黒磯・大田原篇)

誠之介と
という創垂可継に収められている文化文政期(1084~1830)の「封域郷村誌図面」という地図には、真っ直ぐな向下町・向上町の町並みの北端に木戸が描かれている。ちょうどこの場所だ。「封域郷村誌図面」には赤い屋根の「不動」は描かれているが、北側に茶色で着色された建物は描かれているだけで神社は描かれていない。どういうことだ?













このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。
辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。
またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある
高岩波切




森 詠さんといえば栃木県北を舞台にした自伝的小説「オサムの朝(あした)」それに続く「











ネコ岩だ!このヒップラインのネコっぷり!

新道の脇に並行して段丘下の筒地集落に降りる旧道が残っており、道沿いに石仏群が並んでいる。


個人的な目玉はその存在を知らなかったこの高湯山碑。デカい!
その隣は

寛政11年の山神、寛政4年の

十九夜塔と地蔵








まだ黒磯側の段丘上には接続していないようだった。開通が楽しみだ。
筒地の石仏群の向かいの藪に正体不明のミドリの十字を持つ観音像があった。




































神
井戸









馬頭観世音(年代未確認)

この二股を左の板室方面に。町道室野井ハイランドパーク線、古い別荘分譲地を抜け、暫くすると町道横沢六斗地線と交差する。この十字路付近は並木と呼ばれ、多くの馬頭観音碑がある。この場所は室野井、宇田島の人たちの祭りの会場となった。
左手に大木があったらしいが切り株になっていた。







