がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

遊里跡を想う

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今市の「日光珈琲・饗茶庵」の建物を観に行ったきっかけで、栃木県北にあった遊郭・赤線跡が今どうなっているかに興味を持った。今でも妓楼やカフェー風建築物が残っていたりするのだろうか?

世間には同じような興味の人がいるもので、赤線跡の写真集や研究本はけっこうある。ネット上にはいくつかの探訪サイトも存在する。木村聡の「赤線跡を歩く」シリーズなどを読むと、平成の世になってもひっそりとその面影が残っている処もあるようだが、近年急速に取り壊されつつある。

宿駅や盛り場に散在する遊女屋を、幕府が管理のため特定地域に集合させたものが「遊郭」である。遊郭の遊女は幕府公認の公娼であったが、対し市中の私娼は取締を受けた。また非公認の遊女屋は宿屋や旅籠屋・茶屋名目で営業したが、規制をすり抜けるため遊女を「飯盛女」と呼んだ。飯盛女の名称は明治初期の栃木県布達にもみられるので、維新の頃には娼妓全般を指す名称として使われていたのかもしれない。

明治に入り、人身売買を規制する「芸娼妓解放令」が政府司法省より布達されたが、更正策等救済方法が不十分で意味をなしていなかった。政府は貸座敷業者・娼妓に免許鑑札を持たせ公娼制度を認める前提で規制を行った。明治30年代に入り都市化の進展と共に遊廓の存在が問題になり、郊外へ移転させるケースも多くなってくる。栃木では明治32年に「遊郭設置規定」を布達、「貸座敷及引手茶屋営業ハ遊郭区域内ニ限ル」とし、特定エリアへの集団移転を推し進めた。遊郭・赤線地帯に多い「新地」という名称は新たな移転地ということから名付けられたものだ。県北においては大田原町、佐久山町、黒磯町矢板町、黒羽町遊郭が置かれたが、エリア外にも非公娼の遊郭・女郎屋は存在したし、繁華街には私娼宿の多く集まる地域が存在した。

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松井天山 大田原町真景図大正13年 部分

大田原遊郭
は栃木縣大田原町にあつて鐵道東北線、西那須野驛から大田原行電車に乗換へ、大田原驛で下車する。

現在は妓楼数四軒、娼妓約二十人位居る。店は陰店制で遊興は全部東京式廻し制になつて居る。娼妓は勿論居稼ぎ制だ。御定りは三圓二圓位で酒肴が付く。二圓以下は茶と菓子が付く様である。以上は一泊の場合で、一時間遊びの場合は一圓五十銭である。
「全國遊廓案内」S5

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大田原新地跡にあった当時の蔵


矢板町遊廓
は栃木縣矢板町に在つて、東北本線矢板驛からは七八丁の個
に在る。
矢板町付近の木幡には、木幡神社があつて、坂上田村麿将軍が山城の木幡神社を遷座したものだと傳へられて居る。其の本殿の楼門は特別保護建築物に成つて居る。貸座敷は目下四軒あつて、娼妓は約三十人居るが、本縣下の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は廻し花制で通し花は取らない。費用は御定りが二圓で一泊が出来、簡單な臺の物がつく。本部屋はない。附近には寺山観音があり、其東には赤瀧温泉がある。
「全國遊廓案内」S5

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松の木遊郭に唯一残る痕跡 稲荷神社境内に横たわる門柱石
刻まれているのは
「千金散盡(還復來)」
銭などはいくら使い果たしてもきっとまた戻ってくるものだ (李白


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同稲荷神社の手水石


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松井天山 黒羽町及川西町真景図 大正13年 部分

羽村遊廓
は栃木縣那須郡にあつて鐵道に依る時は東北線西那須野驛で下車し、大田原驛で下車し東方山中へ約七八里の處に當る山村である。馬車或は自動車の便がある。

山中にある。ぽつりんとした小さな村であるが、隣の川西町と共に那珂川の上流の河畔に望んで水運の便があるので、之の町には相當に人々が集つて来るので、現在では遊楼が四軒、娼妓は約二十人程居る。御定りは二圓位で酒肴が付いて一泊出来る。二圓以上三圓、四圓五十銭と費用は客の任意であるが、特に本部屋としての設備がない様である。遊興は東京式廻し制、店は重に陰店を張つてゐる。娼妓は全部居稼ぎ制である。
「全國遊廓案内」S5

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黒羽遊郭跡に残る稲荷神社

鳥居に「奈良楼 女部屋女中一同 藝妓一同」


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黒磯町遊廓
は栃木県黒磯町にあって、鐵道に依る時は東北本線黒磯驛(那須驛の一つ手前)で下車すればよい。

貸座敷の總軒数は三軒、娼妓は十人位居て、重に東北人が多く店は陰店(かげみせ)を張つてゐる。御定りは二圓で臺(だい)のものが附く、一時間遊は一圓五十銭酒肴なし、全部東京式廻し制になつて居る。本部屋は無い。
「全國遊廓案内」S5

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「新地仲通り」の名が残る黒磯遊郭跡は現在も飲み屋街

(解説中の遊廓用語に関しては、がりつう「くるわことば・遊廓語」を参照のこと)


第二次世界大戦後にはGHQの政策により公娼制度が廃止されるが、ほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域になった。赤線はそれまで色街として公に認められていた「遊郭(貸座敷免許地)」が、いったんGHQにより廃止された後、集娼の必要性を感じた当局が懇願し新たに設けることを許された事実上の公娼地区の俗称である。貸座敷免許地は全国で550ヶ所ほどであったが、赤線はその倍であったといわれている。従来の遊郭地区だけでなく半ば公のものだった私娼街を格上げするケースが多かった。1956年売春防止法が成立し、1958年公娼地域としての遊廓の歴史は幕を閉じることになる。

県北の遊郭跡を一通り巡ってみたのだが、確証のある栄華の跡は確認できなかった。遊郭敷地には必ず作られたという稲荷神社を訪れることができただけでも良しとしようか。

昭和初期 栃木の遊廓一覧

 

遊郭所在地
俗称
貸座敷数
娼妓数
宇都宮市 河原町
16
122
河内 富屋村大字徳次郎  
4
17
下都賀 小山町  
4
20
下都賀 石橋町  
3
17
下都賀 家中村大字合戦場  
7
62
下都賀 富山村大字富田  
3
20
安蘇 堀米町  
9
77
芳賀 真岡町大字荒町  
1
4
芳賀 下久田町大字谷田貝  
2
8
芳賀 茂木町大字茂木 上平
1
6
足利 御厨村大字福居  
8
71
上都賀 西方村大字金崎  
8
71
上都賀 鹿沼 五軒町
5
34
上都賀 今市町大字今市  
3
17
上都賀 足尾町 向原
1
57
那須 烏山町  旭
4
30
那須 大田原町 深川
5
32
那須 黒羽町大字前田  
4
20
那須 黒磯町  
4
20
塩谷 矢板町大字矢板 松の木
4
20
塩谷 氏家町大字氏家  
4
21
塩谷 喜連川町大字喜連川 川松波
5
23
22箇所
105軒
773人

日本遊里史 上村行彰著(S4発行)より

参考:「全國遊廓案内」「栃木県警察史」 「赤線跡を歩く」ほか

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