森 詠さんの新作が出たとのことで今回は「川は流れる」の聖地巡礼である。
森 詠さんといえば栃木県北を舞台にした自伝的小説「オサムの朝(あした)」それに続く「那珂川青春記」「日に新たなり-続・那珂川青春記-」と「少年記 -オサム14歳-」である。東京から疎開してきた少年の目を通した昭和20年代の生活描写が郷愁を誘い、原作本は地元でも大いに売れて映画化もされた。
「川は流れる」は時期としては「オサムの朝」のすぐあとに書かれたものに大幅加筆したものらしい。黒羽藩の青年下士、板倉誠之介の青春譚である。特にストーリーの説明もなく巡礼をスタートするよ。
水 神 渕
冒頭の藩校をサボっての那珂川での水浴びのシーン。「水神渕」はのちの事件でも重要な舞台となるので押さえたいスポットだ。「前田通い」の章の廓のマドンナは誠之介の初めてのひとで、水神渕で出会った「蛇姫様」に面影が被る憧れの存在だ。板倉家の下男である源爺は川漁師で、かつて水神の渕で蛇姫様に出会ったことがあるという。黒羽の少年たちは那珂川で遊び、那珂川に育てられ、一人前の男になるのだ。
水神渕はどこなのか。小説を読み込めば黒羽河岸より下流で田町側(那珂川右岸)だということがわかる。地形図やGooglemapでも、さすがに渕の名前までは載ってない。こんな時は・・。
川に関連したローカルな地名を知りたければ、釣り人に配られる「釣り場案内マップ」といういいものがある。かつては「大和保険の那珂川釣り情報」というサイトがあってだな。今は「那珂川北部漁業協同組合」さんのページだ。ここに「釣り場案内マップ」という遊漁券やアユオトリを扱っているお店で配布されているマップのデータがあるので後世のために保存しよう。
無断転用で大変恐縮ですが、「釣り場案内マップ」からの情報がこちら。八塩に「水神」という地名がある。松葉川が合流した先、流れが湾曲し「渕」と呼ばれる地形になっている。この先の湾曲部は「山渕」「五葉渕」とネーミングされているが、「水神渕」とは書かれていない。これはどうしたことか。
水神から黒岩を眺める。黒羽河岸より古い時期に黒岩河岸と呼ばれる河岸があったらしい。
水神からボウズ、カニ岩方面
水神がある山口地区は、八塩沢が那珂川に流れ混む関係で、堰堤が切れる部分になっている。2019年の台風19号の水害の際に那珂川の流れが堰堤を越えてしまったところだそうだ。かつてはこの先は堰堤が低くなっており、木々が生い茂っていたそうだ。水害対策として低くなっていた部分を2mかさ上げしコンクリートで強化している。八塩沢を挟んだ南側の2軒が移築された。そんな護岸設備の境界に石碑が並べられている。
かつてはこれらの石碑はその木立の中にあったそうだ。
左が件の水神か。中央は何やら句碑のようなもの。右は台石だけが残されている。前述の水害で消失したのだろうか。
寿(す)満(ま)ば屋(や)な 芭蕉翁
八しおの里耳(に)
奈(な)川(つ)三つ記(き)
えっ芭蕉の句碑なの?!大発見、かと思いきや。
あとで「黒羽町誌」の八塩の項をみたら、この句碑の解説があった。
(五) 八塩
八塩(やしお)は山紫水明の地で、住みよい環境をみせている。
『水神渕』の岩頭に立つ句碑に「住まばやな八塩の里に夏三月 芭蕉」と刻(きざ)んである程である。
この句は『芭蕉』が作ったものでない。芭蕉の踏跡を尋ねてこの地を訪れて詠んだ『桃隣』の句「篭(こま)らばや八塩の里に夏三月」を建碑者等がこれを読み替えて、この里の夏を謳歌したものであろう。
『桃隣』の句心は芭蕉の「しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め」にあるとみられ、興が深い。
芭蕉の三回忌に聖地巡礼をしてた天野桃隣が、この地で芭蕉の句をオマージュして作った句を建碑者が更にオマージュした句、らしい、なんだそりゃ。
しかもここの解説にはしっかり「水神渕」とあるではないか。やはりここは水神渕と呼ばれてたんだな。もちろんただの創作の元ネタなので、実際に水神渕が水深の深い渕だったかは定かでない。八塩沢と那珂川の合流点で、昔から水神を祀って鎮める何らかの必要があった場所なのではないか。
川の蛇行している部分の外側は川底が深くえぐられ「渕」となり、内側は土砂が堆積して「瀬」となる。しかしこの水神渕に関しては、蛇行する外側から八塩沢によって運ばれる堆積物が流れ込み、渕はそんなに深くならないように思える。
2019年の水害のあとの対策工事で那珂川は川底が削られ、川の流れも全く変わってしまっているとのこと。友釣りの川だし安全対策で川底も平らにしているのだろう。
もうひとつこの句碑の解説文献をみつけた。こちらにも施工前の水神の様子が少しだけ載っている。 「黒羽ふるさと雑話」(S54)の第4章かたりつぎより
12 水神渕の句碑
八塩地区に水神渕というところがある。那珂川の流れを眼下に水勢激しく対岸の景もまた絶景である。水神を祀る祠が一基建ててある。風雪に耐えた大きな松が生えていて歳月を物語っている。その境内といっても十アール位の狭いところであるが、一基の句碑が建っている。
すまばやな八しおの里になつ三つき
そして芭蕉翁と達筆な文字で克明に刻まれている。
碑は芭蕉の作と刻んであるが、実は桃隣の作にあやかったものである。陸奥千鳥(むつちどり)にある句は「籠らばや」であるが、句碑には「すまばやな」になっている。いつの頃この句碑を建てたか定かではないが、その側の祠の年号を見ると、宝暦十一年辛巳七月十七日と刻まれている。その頃とすれば徳川家治将軍の時代である。西暦一七六一年であるから、今から二百十六年前のことである。この句碑の建ったのはその年号の前か後かよくわかっていない。何れ好事家がこの句碑を建てたのであろうと思われる。
沢の合流部分。画像の那珂川沿いの法面の色が変わっている暗い色の高さがかつての堰堤の高さらしい。1980年代の住宅地図をみると、八塩沢の南側に「芭蕉句碑」と書かれた記念碑記号がたしかに書かれている。
カニ岩側からボウズ、水神方面
カニ岩
ネコ岩だ!このヒップラインのネコっぷり!
「釣り場案内マップ」みたいにハイカーや登山客が名付けた奇岩やかつての拝所を網羅した「那須岳案内マップ」があってしかるべきだよなあ。