栃木県北に馬頭観音の碑が多数残存することは、この地域のかつての農村社会が馬に強く依存していたことを示している。馬は生産活動の中心であり、家族のように大切にされた「労働者」だった。この碑は、馬の健康や活躍を祈り死を弔うためのもので、その存在は馬への深い敬意と親愛を物語っている。近代化で機械が普及するまで、馬は日本の経済と生活を支える基盤だった。宿駅伝馬として、農耕馬として、明治以降は荷馬事業が盛んとなった。
馬頭観音はもともと馬の神様ではない。阿弥陀仏の化身で、頭上に宝馬をいただくその姿からいつしか馬の守護神として信仰されてきた。馬頭観音のほかに馬力神、勝善神、生駒大神などが信仰された。
入り口にある柱には「日本三勝善のひとつ 玉田勝善神社」とある。
矢板市玉田にある生駒神社はソウゼンサマと呼ばれ厚く信仰された。「玉田講」「蒼前講」と呼ばれる講が作られ、生駒神社、生駒大神の碑が建てられた。旧暦正月の28日の祭礼には、飾り立てた馬を連れた多くの参詣者、講中の人達で賑わった。お札や神笹を受けて講員に配ったり、厩の柱にお札を貼って馬の安全を祈った。神笹は細かく刻み馬に食べさせた。
玉田の生駒神社は別名勝善神社、各地で微妙に異なるが、玉田のショーゼンサマ、ソーデンサマ、ソウゼンサマ、ソウデンサマなどと呼ばれている。
平安末期に九尾の狐を退治した勝善親王を祀った勝善神社が前身で、明治期に生駒神社に改名された。勝善親王は、住民や馬・牛を愛し、農耕や家畜の保護、五穀豊穣を祈願した。このため、農村社会で親しまれ、馬の安全や生産の守護神として崇敬されていた。 親王の命日(旧暦1月28日)には、農馬や馬車馬が鈴や五色の吹き流しで飾られ、住民が神社に参拝し、馬の安全や五穀豊穣を祈る慣習が生まれた。馬を引く列が玉田から石関、片岡の方まで途切れることなく続くほどの賑わいだった。農業が機械化され、荷馬車もトラックに替りこの大祭は廃れてしまった。
玉田の生駒神社は玉藻の前調伏を祈願した豊宇気姫命(とようけひめのみこと 産業の神、保食神)を御祭神とし、勝善親王、邇邇芸能命 猿田彦命媼神(子育)命を配祀神とした神社である。由緒によると建久3(1192)年正月28日創立、慶安3(1650)年正月28日鎮座。2024年に生駒神社の例大祭で馬の参拝の再現がされたという記事が下野新聞に掲載された。
長い参道を通り、鳥居をくぐった境内にある嘉永4年の神燈に刻まれている奉納者からその当時の信仰圏の範囲をみてみよう。
○御神燈(手前)
[柱右]
[柱左]
風見山田村
願主 髙野澤惣兵衛
[台石表面]
[台石右前]
一 佱百疋 東泉村中
一 同百疋 田野原村中
一 同百疋 下伊佐野村中
一 同百疋 土屋村中
一 同百疋 山田村中
[台石右後]
一 佱百五拾疋 川崎反町村中
一 同百疋 境林村中
一 同百疋 木幡村中
一 同百疋 矢板村中
一 同百疋 上河戸村中
[台石裏面]
一 佱百疋 幸岡村中
一 同百疋 下長井村中
一 同百疋 下長井村中
一 同百疋 鹽田村中
一 同百疋 上鹽原村中
[台石左前]
一 佱二百疋 東泉村
橋本友右衛門
一 佱二百疋 鷲宿村
村上新右衛門
一 佱百疋 氏家上新田
源左衛門
一 佱百疋 大宮友右エ門内
石屋助右エ門
[左後]
一 佱百疋 大久保村中
一 同百疋 上平村中
一 同百疋 風見村中
一 同百疋 熊野本村中
一 同百疋 関野沢村中
○御神燈(奥のもの)
[柱右]
[柱左]
風見山田村
願主 髙野澤惣兵衛
[台石表面]
[台石左前]
一 二百疋 □□□ 漆原七□右エ門
一 同百疋 同村 油屋友右エ門
一 同百疋 同村 吉成十右エ門
一 佱百疋 安沢村 阿美八右エ門
一 同百疋 同村 黒崎利兵衛
[台石左後]
一 佱四百疋 西舩生村中
一 同四百疋 東舩生村中
一 同二百五拾疋 押上村中
一 同二百疋 鷲宿村中
一 同百五拾疋 平野村中
[台石裏面]
一 佱百疋 前岡村中
一 同百疋 後岡村中
一 同百疋 下安沢村中
一 同百疋 小入村中
一 同百疋 早乙女村中
[台石右後]
一 佱百疋 石関村中
一 同百疋 大槻村内 梶内中
一 同百疋 氏家宿中
一 同百疋 前高谷村中
[台石右前]
一 佱百疋 金枝村中
一 佱百疋 肘内村中
一 佱百疋 西乙畑村中
一 佱百疋 髙原村 君嶋七□左エ門
一 佱百疋 風見山田村 蓮實俊平
○常夜燈
[右]
関口半兵衛
[左]
安達□兵衛門
加藤□□左衛門
○手水
略
玉田生駒神社 嘉永4年の石塔の奉納者による信仰分布
戦後、浮浪者の失火で焼失してしまうが、現在の本殿はこの神社を信仰する多くの人達によって再建された。
飾り馬を連れてお参りし、お堂の周りをまわり、熊笹の葉とお札を受けてきた。馬の虫かぶり(腹痛)の際にこの笹を食べさせると治ったという。
伝説のひとつに、勝善親王が九尾の狐の退治に失敗し那須野に逃げられてしまったため自害し、その愛馬もそのそばに葬ったのが社前にあった三本杉であったという。玉田のソウゼンサマの三本杉は巨木で有名だったが、最後の一本も終戦後切られてしまった。
敬神 矢板 奉納 大正 などの文字がうっすらとみえる
本堂にある奉納額。大半は退色して読めないが、近代のものは鮮明なものも残っている。本堂内にも奉納額が残っているのだろうか。
生駒大神 軍馬武運長久 昭和十四年十月吉日 片岡馬車職合組合
生駒大神 矢板馬車組合一同 昭和四己巳年 旧正月二十八日吉祥
生駒神社 昭和二年二月二十日 宇都宮駅地 菊池運送 馬車一同
奉納玉田勝善 由緒か
宇都宮合同運搬株式会社 馬車組合創立 昭和三年正月二十八日
厩に貼られた絵馬(お札)
神楽殿
井戸
手水石(享保5年)
玉田のソウゼンサマについて掲載があった市町村史
矢板市史 塩谷町史 喜連川町誌 氏家町史 中塩原の民俗
参考文献:やいたの昔の話 矢板の伝説ほか