がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

久那瀬河岸@馬頭

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那珂川 八溝大橋 上大桶側から

那珂川の水運はかつて重要な輸送手段で、黒羽から那珂湊までの河岸は江戸時代中頃までには整備されていた。

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那珂川町の久那瀬地区。ここにはかつて水戸藩領武茂郷最大の久那瀬河岸があった。開設は宝永5年(1708)。河岸には領主の公認を受けた河岸問屋が置かれ、水戸藩の御蔵が2棟造立されていた。このあたりにはかつて「十三軒長屋」と呼ばれた筏乗りの住む集落があった。


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栃木県立博物館 第112回企画展「川のあるくらし ~栃木の漁師の玉手箱~」

http://www.pref.tochigi.lg.jp/c01/houdou/documents/h27muse_life_river.pdf


河岸の場所にだいたいのアタリはついていたが、確証を得るために現地の方にお話を伺った。たまたまお会いできたのが久那瀬で川漁師をされている佐藤川魚店の佐藤実さん(78)だ。あとから確認したら、県博の企画展「川のあるくらし」や「栃木民俗探訪」でも登場されている方で、那珂川川漁師の民俗や漁法、漁携用具調査では重要人物なのだった。

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「栃木民俗探訪」下野新聞社より

栃木民俗探訪 とちぎの小さな文化シリーズ(4) (とちぎの小さな文化シリーズ (4))



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佐藤さんの案内で下久那瀬河岸に行ってみた。さすが現役の川漁師さん、足元の悪い岩場をもろともせず、ずんずんと前を進む。

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下久那瀬河岸跡

明治の初期における馬頭の河岸は、特に久那瀬河岸と三川又河岸は渡船場もあって繁盛した。明治13年時点で、馬頭には広瀬・三川又・久那瀬・東富山の四つの河岸が存在した。

那珂川中流域の久那瀬付近まで来ると長さ8間半、幅6尺3寸、水深2尺、米100俵を積める鵜飼舟(うかいぶね)が使われた。茂木から久那瀬あたりでは胴高舟(どうたかぶね)と呼ばれる、鵜飼舟と大きさは変わらないが胴が1尺ほど深く、急な瀬でも水をかぶらないよう胴を高くした帆船が使用された。効率的に荷物を運ぶために水深が深く緩やかな流れの下流域に来ると大型舟に集積する。那珂川では中請け積替え河岸として常陸の野田、長倉河岸が活発だった。

 

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下久那瀬河岸には段丘上から川面に降りる桟橋がかかっていた。崖を削って作った岩棚に板をかけ、谷側の支柱杭で桟橋を組んだという。今の水位に対してかなり高いところにあるかんじだ。かつてこの付近の那珂川の水面は現在より2mくらい高かったらしい。新幹線の工事の際に川砂利をさらったんで川底が深くなったんだ、と佐藤さんはおっしゃっていたが定かではない。

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緑色の草が並んで生えている部分が棚になっている箇所

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泥で埋まった支柱杭の穴の場所を教えてくれた。

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岩盤に作られた桟橋の支柱杭が建っていた穴

那珂川の舟を利用した輸送は旅客より荷物が中心であった。下り荷としては米穀類、酒、醬油、油類、漆、たばこ、楮、薪炭などで、上り荷には味噌、塩、魚、油、木綿、肥料などが積まれていた。

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馬頭は近世から優良な木材の産地として知られ、伐採された木材は馬車で河岸に運ばれて、集積された木材は筏(いかだ)に組まれ水戸市場などに輸送された。久那瀬河岸は材木を組んだ筏流しが盛んで、長さ3.6mの杉、檜などの丸太を藤づるなどで幅約3m長さ25mに組み、これを三組つないだものに六人の筏師が乗って一日半で水戸に着いたという。

筏流しが盛んであった当時、筏師たちの生活を歌った情緒豊かな「筏節」が久那瀬地区に残っている。

 ・ハアーエー
 那珂川難所の加波簗越せば
 歌も出てくる筏節
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 主が竿さしゃ私もともに
 ご飯炊き炊き舵を取る
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 那珂川ならいの水さかずきは
 誰が水あげするじややら
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 那珂川下りの筏の小屋は
 大黒柱は藤の蔓
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

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久那瀬の渡船場にできた八溝大橋(昭和60年竣工)


那珂川で筏流しが行われたのは昭和2、3年頃までだ。明治19年(1886)に東北本線が黒磯まで開通し、東野鉄道が大正7年(1918)に黒羽まで、同13年には小川まで開通した。また大正12年には烏山線が全線開通した。大正8年に小口-小川間に那珂橋が架橋されると氏家駅烏山駅などを通じて木材は鉄道輸送されるようになった。鉄道により荷物を大量に迅速に輸送することが出来るようになると、那珂川沿岸の荷物輸送は鉄道に奪われ、那珂川の水運は衰退していった。

 

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川に面した崖に何か所か大きな穴が開いている。用水のたまった砂をかきだす穴だよ、と佐藤さん。

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中を覗きこんでみるとちょっと中腰にかがんだぐらいの高さの縦長の隧道が岩盤の中を通っているではないか。江戸時代に近江商人が新田開発のために作った手掘りの用水だという。

近江国滋賀県)出身の近江商人で、馬頭村で酒造業を営む富商、外池宇兵衛教意・正西は、私財を投じて松野河原の新田開発のために久那瀬地内の武茂川より松野から富山に至る「松野用水」を拓いた。天保6年(1835)に完成したこの用水は16年の歳月を費やし、正西は用水と開発した新田のすべてを水戸候に献上した。

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槌と鑿で岩盤を掘った用水の隧道はちょうど佐藤さんのお宅の裏側に出て地上に出てくる。こんなすごい遺構が特に案内板もなく存在していることに驚いた。

参考文献:馬頭町史、栃木民俗探訪