がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

高岩神社の夏越し@黒羽向町


「川は流れる」聖地巡礼その2。今回は第三話 蛍火の夜のロケーションとして想定される黒羽向町の北の端の高岩神社を見にきた。高岩神社の夏越まつりのシーンだ。

誠之介と万屋の昭吉、玉屋の加代ちゃんは竜吉とお満を連れ立って黒羽向町の町並みを奥沢村方面に歩いてくる。明王寺を過ぎると高岩神社のこんもりとした杉林が見えてきた。ずっとまっすぐだった道が高岩神社の前で方向を変えるのだが、これは城下町の特徴の桝形になっていた部分かな。

 


松井天山の黒羽町川西町真景(T13)。右手に明王寺をみてかつての鉤の手のクランクした道と真っ直ぐに作り直した道が合流しているようにみえる。

この地図では高岩神社じゃなく、「愛宕神社」と表記されている。高岩神社の名称は、明治3年に愛宕神社を含むいくつかの神社が合祀され「高岩神社」と正式に改称されたそうだ。それにしても大正13年の地図で高岩神社表記になっていないのはどういうことだ? 境内にある石柱や鳥居などはほとんど昭和初期のものだ。昭和10年の改修記念碑があるので大幅なリニューアルがあって古い石碑は取り払われたのか? 火事?火伏せの愛宕神社が火事になってはシャレにならないな。唯一本堂脇に安政4丁巳年の灯籠がひとつ残っている。

その隣には「不動堂」、高岩波切不動尊が描かれている。那珂川の沿岸の高岩の周りはは現在も「高岩公園」ないし「高岩園」と呼ばれている。高岩の上には松が茂り、灯籠や四重の塔が描かれている。

という創垂可継に収められている文化文政期(1084~1830)の「封域郷村誌図面」という地図には、真っ直ぐな向下町・向上町の町並みの北端に木戸が描かれている。ちょうどこの場所だ。「封域郷村誌図面」には赤い屋根の「不動」は描かれているが、北側に茶色で着色された建物は描かれているだけで神社は描かれていない。どういうことだ?

封域郷村誌地図




入口ちかくの池の畔に「従是南黒羽領」「従是東黒羽領」「従是北黒羽領「従川中西黒羽領」の境界石が無造作に建っている。越堀宿浄泉寺にあるものと同じなのでどこか近くにあったものを移設したものかな、と思ったが那須郡誌には

川西町黒羽向町高岩神社の境内にあるのは上河岸の倉庫に残っていたのを発見してここに立てたもので別義はない

とある。


黒磯市誌にも

なお同様の標石は黒羽町高岩神社境内にも移し建てられてあるが、これら標石は増業大阪城加番の時(文化10~11(1813~14))大坂で造り海路黒羽に運ばれたものという。

とあった。これらは倉庫にしまってあった予備の石柱だったのだろうか?

 


手水場を過ぎると左に折れ、高岩神社の正式な参道となる。物語では夏越まつりで賑わう境内の様子が描写される。あちらこちらに篝火が焚かれ、参道には夜店が並んでいる。たくさんの提灯と大勢の浴衣姿の老若男女と子供たち。茅の輪くぐりの順番を待つ列に誠之介たちも加わった。


社殿の前には直径一間半ほどの茅の輪が設けられている。参詣者は茅の輪の前で拍手を打って、茅の輪を3回くぐってから社殿を詣でる。


参考資料:大室高龗神社さんの茅の輪


そんな楽しいひとときをだいなしにする向町の悪童たちの登場だ。田町のよそ者の若侍が向町のマドンナ、玉屋の加代ちゃんを連れて夏祭りに来てるのだ。これはレペゼン田町の名に懸けて因縁をつけざるをえない。


この喧騒のなかで騒ぎになってはまずいので、違う場所で話をつけようと誠之介は加代ちゃんに刀を預け悪童たちについていく。雑踏から離れ、那珂川の川岸に移動する。多勢に無勢、しかもあちらには力士もいるってよ!どうする誠之介!!

 


その後の展開についてはともかく、ここが高岩公園。高岩の上は傾斜していて岩場で滑るのでケンカする場所には向いてないと思う。暴力反対。話し合いで解決しよう。


それにしてもとんでもなくダイナミックな景勝地だ。度胸試しに渕に飛び込んだりしたのかなあ。


高岩から上流の高岩大橋。いやあこりゃ、とてつもなくたかいわぁ(テッパン高岩ギャグ)。


高岩沿いは高岩渕と呼ばれる深みとなっている。


高岩から下流方面。


高岩神社から250mほど北側に、辰の口の山神と呼ばれる場所がある。

このあたりは石井沢村の辰口と呼ばれていた場所で、小さな岩山に桜の木が立っており、その根元に山の神が祀られている。

辰口の桜の花が咲くと村の人々は田を耕し苗代の準備をした。山の神は春になると田の神様となると信じられていたのだ。秋になって稲の刈入れがすむとまた山の神に戻るという。

またこの小さな岩山は、すぐ後ろにある那珂川の高岩の深い渕に住む竜神様の頭であると信じられていた。村の人々は竜神の頭がここ辰口で、その尾っぽは緒川あたりまで及んでいると想像した。

日照り続きで農作物に影響が出ると、この地で雨乞いの祈りを捧げると雨が降ったという。山の神が祀られている場所の木を切ると祟りがあるといわれ、ながいことこの場所は藪になったまま残されていた。



物語に戻るが、ケンカのあと手打ちを行なった場所が、高岩神社の右側にある高岩波切不動尊だ。

高岩波切不動尊は、那珂川で帆かけ船や筏で舟運が行われていた時代、近郊農民の五穀豊穣と水運の無事息災を祈願したという。その昔、那須与一屋島の合戦で扇の的を射るとき、鵜黒の駒を海に乗り入れ波立たぬようにこの不動尊に祈願した。この波切不動の霊験によって波が鎮まり、見事扇の的を射落とすことができたと伝えられている。

高岩山密蔵院明王寺に付属し、初め桧木沢二ッ滝の地にあったが、寛永年中に藩主大関土佐守高増が黒羽城より眺められるこの地に移転させたという。寺伝によればこの波切不動尊像は仏師運慶の作と伝えられる。


堂宇に多くの奉納刀が飾られている。不動明王倶利伽羅剣を模した刀剣を奉納することで煩悩や災厄を断ち切り、不動明王の加護を願うものだ。


刀は朽ちてしまったが安政4年の奉納額が残っている。

参考文献:黒羽町誌、那須郡誌、那須記ほか