福島県本宮市のアサヒビールの工場見学に行った。そのついでといってはなんなのだが、市内にある本宮映画劇場の見学を予定にねじこんだ。
旧奥州街道沿いメインストリートにある銀行の駐車場に車を止める。その裏手 路地を入ったところに目的の建物は立っている。ネットでみたピンク色のあやしい洋館、本宮映画劇場。ついに来たんだ!
本宮映画劇場の建物は1914年(大正3)芝居小屋の本宮座として建設された。木造3階建ては当時でも近代的な建築。地元の人からは「定舞台(ジョウブデイ)」と呼ばれていた。福島県教育委員会による日本の近代化の足跡を示す産業遺産の調査対象になった建築物だ。
開設当初は芝居や踊りなどが行われ、その後 映画や歌謡ショー、地域の演芸大会などにも使われた。戦後は映画館として営業、昭和30年代前半までは数多くの映画が上映され賑わった。しかしテレビの普及で客足が遠のき、1963年(S38)に閉館した。70年代までは時折映画を上映することもあったが、その後はそれもなくなったそうだ。
さっき銀行の駐車場に停めた時にすれ違ったおじさん、無断駐車で怒られるのかと思ったら、年配の方を連れてこちらに来る。幸運にも劇場の関係者の方だった。本来は事前に連絡しないと劇場の中を見ることは出来ないのだが、たまたま映画館に向かう我々を見つけて建物を開けてくださった!
映画館を閉館後、経営者の田村さんは自動車会社に勤めるのだが、退職後また劇場を再開させることをあきらめず 劇場と映写機の手入れを40年以上ひとりで続けた。また別の閉館した劇場からもフィルムや機材を地道に買い集めた。平成20年(2008年)に45年ぶりの映画上映会を開催した。
かつては旅廻りの一座の公演なども行われたそうで側面はその楽屋があった付近。劇場の後ろにお住まいのおじさんによると、梅沢富美男が小さい頃、梅沢一座がこの劇場を訪れ公演したのだとか。三波春夫もこのステージに月イチで立っていたそうだ。
本宮映画劇場がある土地はかつては廃寺があったらしい。当時皆が集える施設を、ということで本宮座が作られたのだそうだ。この巨木はその頃からずっと見守ってきたのだろうか。
正面入口を入ると館長の田村修司さんが出迎えてくれた。御歳78歳。先日もNHKの取材があり(爆笑問題の「探検バクモン」)、また他の取材が来るので映写機の調子を見に午後から来るつもりだったそうだ。我々の来訪を聞き早めにいらしてくださった。
ロビーには収集した懐かしいポスター
田村修司さんのお父さんの寅吉さん。この時計の前で撮ったもの。昭和18年に寅吉さんが経営者になり戦後は映画上映が中心となった。
映写技師も兼ねる田村修司さん、 いろいろお話を聞かせていただき、さらにフィルムの映写までして頂いた。
昭和30年代に活躍したカーボン式映写機。炭素棒に電流を流しスパークさせた光を映写用の光源にするというもの。炭素棒が燃えているうちにカーボンがずれて画面が暗くなってくると 手で動かして明るさを調整する。使いこなせる技師がもういない年代物だ。
ホール内の様子
今はベニヤでふさいであるが、2階3階と座敷席が存在した。
当時の様子、スズナリの観客。まさに娯楽の殿堂。
ステージにはかつては回り舞台(盆回り)があったという。それでは用意が出来たそうなので上映会。
当時の予告編のフィルムを繋いだもの
すいません 今日は映画泥棒をお許しください。
78歳になる劇場主の田村さんは都築響一さんや柳下毅一郎さんの話をまじえながら まだまだ語り足りないという感じ。都築響一さんの「独居老人スタイル micro nirvana」で紹介されたおかげで田村さん、本宮映画劇場のファンが全国からやってくる。かく云う俺もその一人だ。
福島にはあと2つ古い映画館の建物が奇跡的に残ってる。南相馬の朝日座、そしていわき湯本温泉の三函座だ。田村さんにそれらの映画館の話をしたら「あれはもう廃墟だろ?こっちは現役だ!」とおっしゃっていたので最近の状況を伝えたら「負けてられない」とアツく語っておられた。引き続き活動を見守っていきたい。
参考:新聞記事等