明治中期 日清戦争の頃、日本で景気がいい地域は「鎮台の安芸広島か、たばこの野州茂木か」と言われた時代があったという。大本営が置かれ戦争特需に沸く広島と並ぶくらいに、たばこの一大生産地であり製造が盛んな茂木が栄華を極めた時代があったというのだ。その後軍備拡張政策により多額の費用が必要になり たばこは専売化されるが、原料産地に近い茂木には専売局直営の製造所が作られ生産製造は続いた。しかし時代と共にたばこの葉の栽培もたばこ製造も縮小の一途を辿った。
栃木県大日本職業別明細図(1925 T14年) 役場の上に大正座がある
栃木県大日本職業別明細図(1937 S12年)
茂木町料理屋組合 下野新聞(T12)茂木町史第6巻通史編2
そんな繁栄した地域だったので、たばこ産業に関わる人々の娯楽のための劇場や、商談や憩いのための旅館や料亭、芸妓の置屋などが多数営業していた。
現在も茂木のかましんもぴあ店2階に「もぴあホール」という映画館がある。この映画館を運営するのは茂木文化映画劇場の瀧田虎男さん。シネコンが主流のなか、栃木県内で単館の映画館が継続しているのは日光の日光劇場と茂木のもぴあホールだけだ。日光劇場の現在の営業形態は各地を回って上映する巡業スタイルなので、純粋な単館の映画館は茂木文化映画劇場が最後の一軒だといえる。
大正座跡地
大正座の舞台 茂木町史第6巻通史編2より
茂木文化映画劇場のルーツは、明治末に現茂木高校下にあった「末廣座」で、瀧田虎男さんの祖父 梅吉さんがたばこエ場の工員の憩いの場として設け、芝居や浪曲、義太夫、活動写真などを上演した。次いで大正2年5月、現町役場西側の東郭内に町有志が資本金2,000円の株式会社を作り、芝居小屋「大正座」を開設、興業は梅吉さんが担当した。
昭和館跡地
昭和8年4月、上砂田地内に映画専門館の「昭和館」がオープン、塚本利ー、若井文七、渡辺金三郎らと有限会社を設立し二階建ての立派な映画館は郡内一を誇った。舞台付きの劇場は戦時中は水戸光子や玉川良一ら多くのスターが訪れた。木戸で切符がさばききれないほどの大入りだった。同10年10 月10日夕刻に、大正座の映写機のフィルムに火が入り、間口8間奥行15間の大正座と隣家5戸を全焼、2時間後に鎮火した。当時800人余りの観客が映画見物中で大混乱に陥った。
虎男さんの父 和泉さんも興行に携わっていたが、昭和15年に若くして亡くなった。成人になった虎男さんは母親とともに劇場に専念。総天然色(テクニカラー)時代になり客足はピークに。昭和31年、現在の足利銀行 茂木店の地に2番館の「茂木文化劇場」を開館させた。東京五輪を控えてテレビの普及が進み映画は斜陽となり昭和館の方は昭和37年に閉館した。
以後、郡内唯一の映画館として若大将、裕次郎、舟木一夫の時代は日に3回上映、中高生の映画教室も開き地域の文化向上に貢献した。昭和50年頃は娯楽も多様化し客足も少なくなり人を雇わずにチケットもぎり、掃除、 映写機操作と一人何役もこなし働き方を工夫した。
昭和61年の水害で茂木文化劇場は被災。客席の泥落としは、臭いし暑いし大変だったが 地域の大切な施設を守ろうと団体の泥かきボランティアが訪れ、瀧田さんはあの時ほどありがたいと思ったことはなかったという。
映写室からの眺め もぴあホールは横4mのスクリーン、全96席
もぴあホールと茂木文化映画劇場三代目の瀧田虎男さん
平成5年オープンのショッピングセンターもぴあでの 上映を仲間が誘ってくれ、平成3年、茂木文化映画劇場は幕を閉じた。以前使用していたフィルムの映写機をもぴあホールに移動し、現在はDCP配信のデジタルシステムを稼働している。 瀧田さんはテレビ普及以前の映画館全盛期から現在までの歴史を知る貴重な存在だ。県北にかつてあった映画館についてもご存じだったし、もっと映画館の全盛期の話を伺えたらと思う。いつまでもお元気で。
参考:真岡新聞、下野新聞記事、茂木町史