栃木県大日本職業別明細図 T14(1925)
栃木県大日本職業別明細図 S12(1937)
昭和30年代、烏山地区にあった映画館は、鍛冶町のアサヒ座と、金井町の平和館、泉町の烏山映画劇場の3館だ。
烏山アサヒ座
烏山町102 現住所:那須烏山市中央2丁目3-15
木造一階-二階建て 230-300席
創業1953年6月 資料では1953年から1964年までの営業を確認 閉館年は不明
「映画年鑑1953 全国映画館総覧」によると経営者・興行主は長谷川興業、翌1954、55年には烏山興業企業組合に変更になっている。S28(1953)「烏山案内」にはアサヒ座と平和館の2館の映画館の広告が隣り合わせに掲載されている。1956年より川田関氏が経営者・興行主になるが、1960年の「全国映画館名簿(S35)」には烏山興行(業の誤字か)社、同年「全国映画館録1960」では川田関氏とある。1962年は経営者・興行主は烏山興業企業組合、支配人は川田関氏となっているので、川田関氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。
「烏山案内」烏山観光協会・烏山町商工会 S28(1953) 広告より
旧地名の鍛冶町とある。現在でも地区の通称として使われている。
現在の烏山アサヒ座跡地
烏山町住居表示新旧対照案内図S41(1966)に店舗名書込み
八雲八幡通り 佐野医院、よろづやの向かい、慈眼寺の裏手にアサヒ座はあった。現在は烏山保育園の駐車場になっている。住居表示新旧対照図によると昭和41年時点で烏山102の地番が振られた建物は3つあるが、映画館だった建物はマークした八雲八幡通りから奥まった場所にあった。
隣接する烏山保育園は、大正時代に創立し栃木県内2番目に歴史のある保育園とのこと。慈眼寺の東側にある建物がそうだ。また、八雲八幡通りから松月庵脇に抜ける路地には大正初期、「橘演芸場」という小屋があったという。S12(1937)の栃木県大日本職業別明細図には「新盛館」の屋号がみられる。これがその後の橘演芸場だろうか。
烏山平和館
烏山町451 現住所:那須烏山市金井1丁目10-6
木造二階建て 350-400席
創業1953年6月 資料では1952年から1974年までの営業を確認 閉館:1976(S51)「写真で見る烏山町明治大正昭和」キャプションからの情報
「烏山案内」烏山観光協会・烏山町商工会 S28(1953) 広告より
現在の烏山平和館跡地 ホームセンターサンハウス(旧ライオンドー居抜)があった
烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より
この案内図には烏山平和館の建物に「パレス」とある。手持ちの「全国映画館録/映画館便覧」資料では1965-1969年が確認出来ていないので、名称変更があったかどうかは不明である。
「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より
S28(1953)発行の「烏山案内」広告には殖産興業K・Kの名前がみられるが、前年の「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は菊地正夫氏となっている。翌年の「映画年鑑1953 全国映画館総覧」では殖産興業の名があり、翌1954、55年版では烏山興業企業組合の名義となっている。1956年から再び菊地正夫氏となり、烏山興業企業組合と何度か表記が変わる。1954、55、61、62年は経営者・興行主が烏山興業企業組合、支配人が菊地正夫氏なので、菊地正夫氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。烏山興業企業組合の名称は鍛治町の烏山アサヒ座の経営者・興行主名でも見受けられる。平和館、アサヒ座は同じ経営母体で運営されていたのではないか。しかし殖産興業と烏山興業企業組合の関係は不明である。1970年より興行主・支配人は笠井登美子氏に変更される。
烏山映画劇場
烏山町223 現住所:那須烏山市中央2丁目15-4
木造一-二階建て 230-800席
創業不明 資料では1952年から1960年までの営業を確認 閉館不明であるが
建物自体はT09(1920)落成とある 映画常設館になる以前から劇場として存在した
「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は長谷川興業となっている。これは1953年6月創業のアサヒ座と同じ興行主であり、電話番号も同じ烏山270になっている。支配人も1956年からアサヒ座の支配人となる栗原統雄氏。これはアサヒ座の準備期間として居抜きで烏山劇場の建物を利用して興行していたのではないか。
記録は飛んで1957年から興行主は森清氏、支配人は古谷一郎氏で営業が確認できる。しかし1960年を最後に映画館名簿の掲載はなくなってしまう。
山あげ通り沿い。現在は民家と空地になっている。
烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より
地番としてはこの付近であるが、昭和41年の地図で建物がそっくり残っていないのもおかしい。下の烏山倶楽部時代の写真の左隣の建物の廂の感じが15-16のお宅の感じにそっくりなのでこちらに推定した。付近の商店の方に伺ったところ、こちらで間違いないとのこと。
「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より
キャプションには 烏山劇場(泉町に庶民の娯楽の殿堂として大正9年落成)とある。写真を見ると「烏山倶楽部」と当時の名称がみえる。昭和30年代の烏山映画劇場もこの建物のまま営業していたとのこと。
跡地を「写真で見る烏山町明治大正昭和」掲載の写真と同じ角度で写したもの。隣の建物は元商店のようだが、玄関のひさしが唐破風であったり、通りに面した意匠が凝っていてなかなか興味深い。
栃木県大日本職業別明細図 S12(1937) 部分
実は以前の聞き込みでは、久保田屋旅館の隣の、那須南病院職員駐車場として使われている場所が烏山映画劇場であるという情報もあった。これは住居表示新旧対照図により否定されるものであるが、「栃木県大日本職業別明細図」S12(1937)をみると確かに久保田屋旅館の隣に「烏山劇場」がある。唐破風の玄関、もしや隣の敷地に現存する建物は元久保田屋旅館、なんてことは??