がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

黒羽の映画館 黒羽東毛座と黒羽東宝

昭和30年代、黒羽地区にあった映画館は、黒羽向町の東毛座と、黒羽田町の黒羽東宝の2館だ。当初は東毛座が邦画、黒羽東宝が洋、邦画系を上映する映画館だった。すでにその面影はないというが現地を確認しに行ってきた。

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東毛座(とうもうざ)
川西町321 / 黒羽町黒羽向町313 現住所:大田原市黒羽向町(上町)311-5
木造二階建 500-800席

1912年10月創業 資料では1952-1964年までの営業を確認 閉館年は不明

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松井天山 黒羽町及川西町真景図 部分 大正13年(1924) 東毛座

映画年鑑による創業年は劇場としてのものだろう。黒羽町及川西町真景図(大正13年の商業地図)に東毛座が描かれている。黒磯道、常念寺脇のかつて川西町役場から余瀬に向かう通り沿い。当時の建物は存在しない。跡地は現在、以前「すずらん美容院」だったお宅と「お食事処すみれ」の駐車場になっている。跡地の向かいに当時から営業している「すみれ食堂(現お食事処すみれ)」がある。

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訪問時、すみれのご主人のご兄弟の方がおられ、20代の頃東毛座のお手伝いをされていたということで、詳しいお話をいろいろと伺えた。普段は埼玉にお住いで、たまたま実家に戻っておられたとのこと。映写技師の資格もお持ちで、他劇場とのフィルムの運搬や映画の宣伝用の看板描きもされていたとのこと。

昭和30年代、フィルムはセルロイドベースで燃えやすく、カーボン式映写機(炭素棒に電流を流し、スパークさせた光を映写用の光源にするもの)で、消防法で定められた国家資格が必要だった。

 

f:id:gari2:20141218142004j:plain下野新聞1966年12月の新聞広告 県下上映館の欄に「黒羽東毛座」 日活配給

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下野新聞1966年12月の新聞広告 近日大公開の欄に「黒羽東毛座」 東宝

昭和30年代前半の最盛期はこの地方の映画館にも日活や東宝、松竹の営業マンがいつも出入りしていた。東毛座はあらゆる配給会社の作品を上映していた。

封切館と二番館、三番館
都市部の公開日に上映される「封切館」の上映が終了すると、主要地方都市の映画館、そして田舎の集落の小さな映画館へとフィルムが回される。封切館の次に回される映画館が「二番館」、その次に回される映画館が「三番館」である。このフィルムの移動の流れを「番線」という。封切館ではプログラムは1本ずつ上映されるが、二番館、三番館では2本立て、3本立てで上映された。封切館での人気で上映期間は変わるので、二番館、三番館の公開日は「近日」とあいまいにしている。

掛け持ち
東毛座と提携している劇場にフィルムをオートバイや自転車や車で運び、同じプログラムを複数館で上映した。1本のフィルムを二つの劇場で使うことを「掛け持ち」という。フィルムを次の劇場に運ぶことを「フィルム回し」、またフィルムを運ぶ役割の人を「掛け持ちさん」と呼ぶそうだ。東毛座の場合、同じ経営の佐良土の湯津上東映館、お話で出てきたのは伊王野倶楽部、閉館していた馬頭クラブや芦野の芝居小屋を借りての掛け持ちを行なっていたようだ。そのほかに須佐木の山形屋、大山田上郷の河原坊劇場などでも上映を行なった。通常10分から15分のフィルムロールを2、3本ずつ移動する。余裕を持った時間で上映をずらせば、同じプログラムを複数の劇場でより多くの観客に見せることが出来た。そのほか、村祭りなどでの興行を行った思い出も語っていただいた。

現在、封切館・二番館・三番館という用語は、ロードショー館と名画座みたいな使い方になっていると思うが、もともとは都市部から地方へのフィルムの流通のしくみでも使われていたようだ。

昭和30年前半はテレビも即席麺もない時代である。娯楽の殿堂 東毛座は大盛況で、その向かいのすみれ食堂はてんてこまいだった。東毛座の経営者のお子さんも小学生だったが切符切りのお手伝いをしていたそうだ。その頃はラーメンが25円か30円の時代、お向かいのすみれ食堂も映画のお客さんで昼時は忙しかった。このへんの食堂は花月の前の鎌倉屋とすみれくらいだった。須佐木や須賀川のほうからも唐松峠を越えて皆自転車で観に来たんだから。駅前通りの「つちや食堂」に226事件の年の書いてあるタライがありましたけどあそこは?と聞いたら、いやあそこはうちほど古くないよ、つちやのマスターも若い頃いっしょに掛け持ちさんをやっていたんだ、とのことだった。

 

東毛座は当時常設映画館であったが、歌手や芝居の公演も行われた。曰く、東毛座に来なかったのは美空ひばり裕次郎くらいじゃないか、有名どころはほとんど来た、とのことだった。お話で出てきたのは三波春夫、春日八郎、三橋美智也島倉千代子などなど。テレビが普及する以前、歌手の活動のメインは地方公演回りだった。今でこそ芸能人とヤクザの関係はダメなことになっているが、当時は芸能人を呼ぶと必ずヤクザが用心棒としてついてきた。ボディガードやセキュリティーの業務を行うのはこわもての人たちの仕事だった。興行と暴力団の関係は仕方のないことだった。あの頃名の知れた歌手を呼ぶと1日の興行で60~70万、美空ひばりは300万だった。宿泊の世話は花月旅館に泊まらせた。町一番の宿泊施設だったし、きっとサインや記念写真がたくさんあるんじゃないだろうか。王将で有名になる前の村田英雄を東毛座に呼んだ時「掛け持ち」で大山田下郷の小屋(河原坊劇場)に連れて行ったとのこと。



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黒羽東宝(くろばねとうほう)

黒羽町田町330 / 335 / 313 現住所:大田原市黒羽田町330-2
木造二階建-一階建ての記述に 150-600席
開業1948年2月 1963年までの営業は確認 閉館年は不明

「映画年鑑」の資料からみると、映画館としての黒羽東宝のスタートは、大田原東宝を経営していた加藤栄次氏が黒羽に拠点を出したものであったと思われる。当然、大田原東宝と黒羽東宝間での掛け持ちの営業だったのではないか。その後1956,7年から興行主、支配人が東毛座の鈴木羊四郎氏になっている。大田原東宝のほうも1957年から経営が日本映芸~五十嵐富衛氏に代わっている。
以降鈴木氏は東毛座、黒羽東宝、湯津上東映館を経営していたことになる。また1964年から黒磯の金剛館の経営にも参画している。

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松井天山 黒羽町及川西町真景図 部分 大正13年 福井座と中島屋

黒羽東宝はR461から中島屋(パン製造、現在は民家)と黒羽信用金庫(現在は那須信用組合黒羽支店)の間を入った路地にあった。当時、黒羽信用金庫の隣には黒羽町役場があった。那珂川右岸の黒羽向町はかつて河岸で栄え、大田原に繋がる鉄道駅が出来て商業が盛んだったが、左岸の黒羽田町はもともと城下町で八溝山地に近く、林業の盛んだった黒羽の経済を支える地域であった。この付近は駅前通りと並ぶ黒羽の中心地で、そんな繁華街の裏路地に劇場があったのもうなずける。当時の建物は存在しない。現在は高和道路工業㈱の事務所になっている。

 
その後、娯楽の主役はテレビとなり、爆発的普及により地方の映画館は次々と閉館する。東毛座、黒羽東宝は閉館を余儀なくされるが、近隣の大田原市西那須野町の映画館は1990年代まで存在した。当時の映画館に関する思い出話や資料などありましたら是非教えてください。


追記
「黒羽ふるさと雑話」に黒羽の芝居小屋に関連する記述をみつけた。

常舞台(じょうぶたい)

歌舞伎の常舞台は、明治15、6年(1882、3)ころ田町の那珂川べりに設けられ、十年後 福井座(のち東宝となる)ができ、主に芝居を、のち活動写真も上映した。その後向町に東毛座ができ、廻り舞台もつくられ、幕合いには「あんか」や「せんべい」も売られたりした。また河原の関谷権之亟・初太郎氏らは地芝居をおこなった。今も当時の幕や舞台道具などが大切に保存されている。

 黒羽田町の劇場「福井座」は明治25,6年(1892,3)頃には営業を開始。「のち東宝となる」とあるので、その建物を利用して常設映画館としたのが黒羽東宝なのだろう。河原横道の地芝居についてはまた調べてみよう。

 

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