日光北街道の玉生と倉掛の間に倉掛峠がある。現在R461となっている道の基は明治21年に開通したもので、倉掛三険と呼ばれた戸方坂、日光坂、外出坂を避けるように作られてる。日光坂と外出坂の間のピークが倉掛峠だ。
峠にある倉掛新路記の碑によると、この一帯は、冬には坂が固く凍り付き、牛馬が進むことが出来ず、夏秋の長雨の時期にはスネまで潜るほどのぬかるみで転んでケガする者が多い難所であったという。
今回は矢板側から峠に向かう。倉掛の集落を過ぎると峠の入口に弘化4年(1847)建立の道標が建っている。ここから入るルートは嘉永4年(1851)に作られた新道で、まずはそれ以前のルートを辿ってみよう。道標からさらに40mほど進んで右に入る作業道が元々のルートだ。
倉掛側からの峠に向かう坂を日光坂といった。かつてこの坂は一年通して沢水が浸み出し、ぬかるんだ道だったようだが、何度か訪れた印象は特にどうということはない普通の山道だった。確かにこの辺りは小山帰の湧水地もあり、湿地帯を避けるようなルート取りがされていたと聞く。
日光北街道は、寛永13年(1636)の東照宮落成に伴い、各地から社参する大名の利便性を図るために整備された道で、東北地方から日光へ通じる近道として、宇都宮宿から日光道中に向かうことなく、奥州道中大田原宿より今市宿に出るルートを整備したものだ。その道程の難所が大渡の鬼怒川渡河と、高原山の丘陵部突端を越える倉掛峠越えだった。
徐々に高度を上げ、尾根上の道となるが、その先は嘉永4年の新道開削により切通しが作られ分断されている。元禄2年(1689)芭蕉一行が通ったのは元々の尾根上の道だ。
切通しを降りて対面の尾根に上がりさらに進むと、道跡が残っていて次第に高度を下げ新道に合流しているが、本来の旧道はまっすぐ降りてくる道ではなかったようだ。
ここが峠からの道が降りてくるところ。右は新道峠の切通し方面。
右に垂直に曲がる坂道を降りる。そのままR461に出ずに国道の30m程手前で左に逸れる作業道がある。これがかつてのルートだ。
峠からこの場所には、先ほど降りてきた尾根上のルートではなく、峠から斜めにこの場所へ下りてくる道があったようだ。尾根上は途中から堀割状になっており、右に逸れるような分かれ道はなかったようだが。こちら側から峠に向かう道を探して辿ってみたが、それらしい道跡はみつからなかった。
倉掛峠 新旧道関係図
左に逸れる作業道を辿ってみる。次第に右手に国道が近づいてきて、やがて国道と平行して山際を進む。峠からこちら側のなだらかな坂を外出(外手)坂と呼んだ。
途中藪になり通行不能の区間もあるが、小山帰入口のドライブインたてば手前に出てくる。この先は倉掛村と熊の木村の境の松が峰を経て玉生に至る。
折り返して新道を通ってみよう。
長い間通行の不便を強いられていた倉掛峠であったが、街道筋の名主、玉生村の玉生汎昌、幸岡村の君島昌信、矢板村の坂巻茂寿が中心となり、宇都宮藩に許しを得て「倉掛新道」の開削を行う。新しく開削した距離は約760m、作業した延べ人数3500人。
以前のルートより近道で坂も緩やか、峠を切通しにした道が斜めに横切るように作られている。
倉掛新道、矢板側から峠方面。この先は左手に民家をみてしばらく行くと先程の弘化4年(1847)建立の「右日光道 従是八里」の道標の処に出てくる。・・ところで、新道が計画されたのが嘉永3年秋、実際に開削されたのが嘉永4年(1851)なのに、なんでそのルートの道標がそれ以前に建立されてんだろう?
参考:「会津道(日光道)の今昔」兼崎才助