がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

尾頭峠小滝側 師に助言を給う

 

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ユウレイソウ 6月上旬

今尾頭道(会津西街道塩原通り)の明治の新道との出合いから先の道跡が見つけられない。前回見つけた新道から分岐する道跡を下ってみたのだが、つづら折の先は新道の2段目を跨いで小さな枝尾根に降り、その先は消失していた。ビジターセンターの地図ともかなり違うし、今尾頭道に関係するものかどうか不明。

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倒木のトンネルのキノコ 6月25日

手詰まり感が漂いつつある尾頭山の南東側斜面の探索を切り上げ、郷土史家の君島先生にアドバイスを頂きに来た。君島先生のグループは90年代に今尾頭道を辿っている。ビジターセンターの地図は、師が地元の元猟師の方と今尾頭道を辿った際に作った資料を基に作ったものだ。

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尾頭峠切通しの動物の足跡 6月25日

昨年の三依側の探索の記事は以前にプリントアウトを渡してある。あんなに思い込みの多い内容にもかかわらず、賞賛のお言葉をいただく。今年歩いた小滝側のその3までの記事もプリントアウトをお渡しした。

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熊?の糞            6月25日

まずは現状報告。出合いから先の道跡が見つけられない件について話すと、先生が歩いた当時の写真アルバムと一枚の地図を見せてくれた。その中で注目したのが下の写真。

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これは「塩原の里物語」にも載っている冬期の尾頭峠付近の山並みだ。中央の白く覆われた部分が22号鉄塔がある斜面。左側から掛かる山塊が尾頭山の南東側斜面だ。よく見ると山肌にうっすらと雪が積もった斜面に道跡がみえるだろう。
結論から云うと、出合いから新道を右(北)に入り、しばらく行くと件の崖崩れポイントがあるが、その直前付近に山側ヘ上がるポイントがあるとのこと。あったかなぁ?

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そしてこれが問題の地図。先生達が辿った今尾頭道のルートと、それ以前の古道鎌倉道まで引かれている。でも、この地図の今尾頭道は尾頭山南西の鞍部を越えてないぞっ!?先生の推論では、古尾頭峠は尾頭山の北斜面付近を通過して九十九折に向かったのではないかとのこと。では何故ビジターセンター版の地図ではあのルートが引かれていたのだろう?地元ならではの地名の呼び方が書かれているのが貴重です。

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ビジターセンター配布の地図を元に色分けし見やすくしたもの

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尾頭峠東側 シカ?の足跡     6月25日

俺の記事の中で、尾頭新道を「三島新道」と表記していた件について。三島新道、三島道路はあくまで当初の計画で作られた善知鳥沢越えのルートのことであって、小滝から上三依に作られた新たなルートは三島道路ではない、というご指摘を頂いた。この新たに拓かれた尾頭越えの道は、塩原住民有志が県に嘆願書を送ったことにより開削された「三島道路とは別の」道であることを強調されておられた。たしかに「西那須野町史」でも「塩原の里物語」でも、その旨の説明は書いてあるのだが、これまた勝手な思いこみで、三島新道と表記していた。
では、この道は何と呼称するのが妥当なのか。当時の正式な名称は「県道三依塩原線」であるがこれではカタい。一般の人は「会津街道」と呼んでいたようだが、この名称では広い意味すぎる。

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この画像は「塩原の里物語」に掲載されている明治期に上塩原にあった陸運会社の荷物集積所(現:君島ボーリング)の看板だ。ここには「陸羽枝道」とある。陸羽街道の石上から分岐する枝道だからか。これは「会津西街道塩原通り」の明治以降の呼び名っぽい。なんだかんだで、やはり「尾頭新道」が妥当なのかな。これは過去記事全部直しておくことにする。

先生とは峠の探索が完了したら、塩原通りのあちこちに残るかつての道跡を訪ねてみようと誘っていただいた。ますます塩原付きそうだ!

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