がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

会津西街道 高原越えの探索2

 

会津西街道高原越えの後編。高原新田から藤原宿方面へ下るの巻。

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旧宿場跡の元屋敷から宿西端の墓地跡を過ぎ、開拓地の端の柵から外に出る。柵沿いに数10m行くと「磁石石」がある。

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高原新田住民が200年にわたり住み慣れたこの地を離れねばならない悔しさをこの石に刻んだものだという。石の上に「文久三年下ル」の文字が残る。

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文久3年(1863)幕府は、高原峠越えの険路を回避し、川治を通る栃久保新道を開削。人馬・輸送物資が新しい街道を通るようになり、高原新田の住民も人馬の宿料駄賃稼ぎの収入源が無くなり、新道沿いの藤原村字栃久保河原に集落を移転せざるを得なくなった。この地を高原村字河原と改称した。現在の大字高原である。

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磁石石から急激な坂となる。旧道はつづら折で尾根へ降りていくが、今回は電線沿いに真っ直ぐ下ってしまった。この坂を「大石(おおげ)下り」と呼んでいる。

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道跡のちょっと離れた場所に馬頭観音があった。

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寶暦十四甲申六月吉日
高原村中 施主 香取五兵衛

宝暦14年(1764)は6月に明和に改元した年なのだそうだ。

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その先、「大石下り」の由来と思われる大小の大岩が転がる地帯を通過する。

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そのうちのひときわ大きな岩の上に塔碑を発見する。

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湯泉寺の名前が刻まれた供養塔。

[正面]
 十二天尊當村湯泉寺□□
奉 建立 供養塔
 現世安隠後生佛□育他法泉寺□□

[右]                             全
(光明真言曼荼羅 蓮座 脇侍種子) 為往来人馬安
                               □

[裏面]
示時安永二癸巳年四月吉日
   願主當村 
          行田
(左上2行不明)

         

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傾斜が急になり、その先が「川治別れ」と呼ばれる大下と川治の分かれ道に来る。

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右は川治高原の子安神社脇に出てくる道だ。Yoshiさんが子安神社をレポートしているので見てみてほしい。会津西街道は左に向かう。

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なためさん提供、今回のGPSによる軌跡。

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このあと道跡はわかりにくくなるが、しばらくいくと二枚沢林道に出る。この林道がほぼ会津西街道であると言われている。

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二枚沢林道はS48年に起工された林道で、大下沢を渡り二枚沢と平行して進み日塩もみじラインに合する。このあたりは明治末期から大正にかけて植林されたヒノキが多く残っている。

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林道出口。この先旧道はまっすぐ進むようだが、今回の探索はここまでとし、車の置いてある日塩もみじライン出口まで舗装路をいくことにした。

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林道出口の向かいにつづく道跡。

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もみじラインからガードレール下を覗くと、時折つづら折の旧道が伺える。

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落ち始まってはいるが紅葉が美しい。

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太閤下ろしの滝。太閤様のような偉い殿様でも下馬して歩かねばならない険路であるため「太閤下シ」という地名がついたが、これには基となる史実がある。天正18年(1590)8月、奥州仕置きの会津入りの帰路、高原越えの険路を太閤一行が通る。田島で一泊し、尾頭峠から尾頭道で元湯(入湯したという逸話が残る)経由で高原越えをしたというのが定説だ。

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途中、切通して残った岩の上に塔碑があるのを発見。

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寛永3年(1626)の馬頭観世音だという。旧道は太閤下ろしの滝から先、野沢を渡るわけだから、もっと標高の低いところを通ると思うのだが。これは別の道沿いのものか?

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やっと料金所の明かりが見えてきた。



 
佐藤権司さんは「藤原町史」で会津西街道の歴史、古五十里湖の誕生と五十里洪水、仲付駑者による物資運送システムと各街道間の継立荷物争いの歴史について執筆されていた方。コラム形式でとっつきやすい入門書。

 

 

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