がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

高原新田宿

日塩もみじラインの旧メイプルヒルスキーリゾート入口附近から北西に入っていく鶏頂開拓地区南端に、かつて会津西街道の高原新田宿があった。

f:id:gari2:20141105162042j:plain

高原新田村の起こりは承応から寛文にかけて(1652-72)6戸がこの地に移住したそうだが、湯元塩原村(現在の元湯)を壊滅させた万治2年(1659)の大地震で、湯口が枯渇し村生計を失った村民が離散した際に移って来たという説が濃厚だ。

f:id:gari2:20141105162105j:plain

旧高原問屋屋敷跡。石垣と礎石、屋敷裏庭園の築山跡が残る。

会津西街道(下野街道)の近世宿駅組織は明暦年間(1655-57)に整ったとされている。ルートは今市-大桑-高徳-大原-藤原と鬼怒川の渓谷沿いを進み、川治から先、五十里間は男鹿川沿いに移動することが困難だったため、藤原宿から高原峠を上がり五十里へ抜ける道(高原越え)を通らざるを得なかった。

f:id:gari2:20141105162141j:plain

高原新田宿北端、万治3年(1660)建立の法華題目塔
南無妙法蓮華経 左 会津道 右 塩原道」
(道標の文字は近代の追刻であるとされている?<要確認)

元湯千軒と呼ばれた湯本塩原村が大地震による山津波で壊滅した翌年の建立。当然死者を弔う目的で建てられたものか。

天和3年(1683)の大地震で葛老山(戸板山)が崩落、男鹿川を堰き止め、五十里湖が出現する。代替ルートとして会津中街道・尾頭峠越えの塩原-関谷-石上ルートが開削整備される。

水上輸送で繋いで従来の高原越えルートは細々と使われたが、尾頭峠から地蔵曽根づたいに高原新田宿に来る「高原道」、元湯から大塩沢峠、地蔵峠を通る「元湯道」、元湯から赤川沿いに高原新田宿に来る「赤川道」などを整備し高原越えルートを存続した。

 

f:id:gari2:20141105162315j:plain

文化2年(1805)建立 西国供養塔 
「左 阿いず 右 あらゆ 道」

享保8年(1723)古五十里湖が決壊すると五十里宿からの高原越えが復活、会津西街道と会津中街道、それらを結ぶ間道を利用した荷争いが激しく、かつてのような賑わいを取り戻すまでには至らなかった。

f:id:gari2:20141105162342j:plain

享保19年(1734)建立の十九夜塔。光背部分に「奉唱血池念仏供養講中女人六十五人」とある。五十里洪水で藤原村が壊滅的被害にあった翌年の建立だ。「ちのいけねんぶつ」ってのがすごい。65人という人数は藤原村と高原新田村の合同の講であったようだ。

標高1200m以上の高原地帯で村民の生業は農業に多くを頼れず五十里宿からも藤原宿からも急な登り坂を登らねばならない中継地点の地の利を生かして、駄賃稼ぎを主とした。高所のため降雪期はほぼ街道の往来輸送機能を果たせなかった。
文久3年(1863)幕府は、高原峠越えの険路を回避し、川治を通る栃久保新道を開削。人馬・輸送物資が新しい街道を通るようになり、高原新田の住民も人馬の宿料駄賃稼ぎの収入源が無くなり新道沿いに集落を移転せざるを得なくなる。

f:id:gari2:20141105162412j:plain

宿西端の荒れ果てた塩湯山医王院湯泉寺墓地跡

墓地跡を過ぎ川治に下りる旧道の崖に文化財「磁石石」がある。住民が200年にわたり住み慣れたこの地を離れねばならない悔しさをこの石に刻んだものという。石の上に「文久三年下ル」の文字が残る。

で 後半がこちら

参考文献:
「藤原町の文化財
「藤原町町史」
「栃木の街道」栃木県文化協会
「歴史の道 下野街道(南山通り)」福島県教育委員会


 

五十里宿 - がりつうしん

会津西街道 高原越えの探索1 - がりつうしん

高原新田宿 - がりつうしん

会津西街道 高原越えの探索2 - がりつうしん

広告を非表示にする