がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

五十里宿

江戸期、現在の県境である山王峠からこっち、横川、中三依、五十里は下野国ではあるが、「南山御蔵入領」と呼ばれる陸奥会津藩の領地だった。「御蔵入」とは、この土地の年貢は幕府の領地なので、江戸浅草の幕府蔵に入れられる、という意味であろう。

南山領を通る南山通り、すなわち下野街道(会津西街道)の五十里村は、南山領の入口に置かれた宿駅だった。元々は男鹿川西岸にあったが、天和3年(1683)9月1日の日光大地震で葛老山が崩壊、古五十里湖が出現、水位がどんどん上がっていき、90日で五十里村は水没した。

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川向こう丘陵裾が旧五十里宿

五十里村住民は、対岸少し下流の段丘「上の屋敷」と独鈷沢の「石木戸」に移住する。
石木戸の人たちは断絶した会津西街道を補うため、湖の舟運の船頭として上野屋敷までを継送した。上野屋敷の人たちは狭い山腹の開墾と舟運、高原新田への継送の駄賃稼ぎと炭焼きで暮らした。

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下野国全図」 嘉永2年(1849)

この地図には古五十里湖はとうに水抜されているはずなのに結構大きく「イカリ沼」が描かれている。この時期には西岸に小佐越新道(天保嘉永期に整備)があるはずだが、湯西川を渡るルートが描かれていない。川治新湯~栃久保で男鹿川を渡河して二ツ小屋の先で高原ルートに合流するルートが描かれている。これは「栃久保新道」のコースだが、文久3年(1863)に開削されたはず。元々道があったのだろうか?

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下野国全図」年代不明(江戸時代)

こちらは「川北」?の手前から西川に渡る渡河点が描かれているが、湯西川がない(笑)。高原ルートも五十里宿~川北~新湯~高原宿~二ツ小屋と描かれている。「湯本」が元湯で、「新湯」が湯本新湯?なんか変だ。小佐越街道ははっきりと描かれている。

享保3年(1723)8月10日、海尻の崩落箇所が連日の雨で決壊し、下流は大洪水となった。「村形全ク一変セリ」と川治村の記録に書かれるほど下流域に甚大な被害を起こした湖水抜であったが、村民にとっては念願の喜びの日。村民はこの日を「海抜け十日」といって明治初期まで毎年祝賀行事を行っていたという。

五十里村民は上の屋敷から元の地に戻って宿を再建する。いったんは以前の場所(元屋敷、古屋敷)に移り住むが、享保13~15年に洪水にあい、享保16年(1731)、男鹿川西岸段丘上の傾斜地(居屋敷)に移転する。

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これは、なためさんにいただいた2枚の地形図で、昭和31年(1956)完成の五十里ダムにより再び村が沈む以前の様子が描かれたもの(右)と最近(左)の地図の比較。現在は片足沢橋南に「五十里海渡り大橋」が開通し、上の屋敷を通るくねくねした渓谷沿いの道を避け、西岸の山々をトンネルで貫いて川治温泉に出るルートが作られている。

参考文献:
「藤原町の歴史と文化」
五十里湖の古今 「旅ゆき」>「鬼怒川・川治よもやまばなし」内

 

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