がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

「今市ヨリ大田原通 会津道見取絵図」

矢板市図書館に東京美術の「今市ヨリ大田原通 会津道見取絵図」を閲覧に行った。

「今市ヨリ大田原通会津道」とはいわゆる日光北街道のこと。今市の大谷向で会津西街道と分かれ、大渡を経て鬼怒川を渡河、船生、玉生、幸岡、矢板、沢を通り箒川を渡河し大田原に至る11里(44km)の道程だ。日光北街道という名称は明治以降の呼び方で、近世においては、今市では白河道・棚倉道、大田原・矢板方面では日光道と呼んでいた。幕府は会津道と呼称した。連歌師の宗祗の「白河紀行」では、応仁の乱のさなかの混乱のため、宇都宮を通らず日光より塩谷、大俵(大田原)を経て白河に向かったらしい。そのルートがこの日光北街道だと云われている。

社会的に重要性を増したのは、日光東照宮造営以降、奥羽地方よりの日光参詣の通路として、参勤交代で江戸に向かう途中で、あるいは帰国時に東照宮へ参詣に立ち寄るルートとして利用した。また、男体山登拝の行者や、一般の日光参詣の旅人が往来し、那須天領から御用米を今市の御蔵に駄送するルートでもあった。これを「今市宿御蔵詰御用米」という。

塩谷町と今市方面の道標を調べようと資料を探していて、そういえば以前閲覧させてもらった東京美術の「今市ヨリ大田原通 会津道見取絵図」の解説の充実ぶりを思い出したのだった。絵図に掲載されている街道沿いの寺社、石碑、分岐する細道についての詳細な解説には当然「道印石(道標)」がどこにあるか、どこに移設されているかも調査されている。すごいぞ!手塚良徳先生!!

コピーはご遠慮ということで抜出し書写開始。今市豊田から見ていって玉生芦場新田の「軍荼利真言(ぐんだりしんごん)道標」までチェック。興味深いトピック満載で、結局前編しか目を通せなかった。解説編だけで分冊販売されてないかなあ。

帰り道、信号待ちで庭山書店の前に止まった。ふと店内を覗くと・・。あれは!?店奥の棚に「今市ヨリ大田原通 会津道見取絵図」が面チンで鎮座していた!俺に買ってくれろというのか?


矢板郷土史研究の兼崎才助先生の訃報を伺いました。心からご冥福をお祈りします。