がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

日光北街道 船生~矢板をいく2

4/5の続き。芦場新田の軍茶利真言道標を観てから、ふたたびR461に戻る。左手に石材店があり、その裏手の今の道路より高い位置に細い道がある。これが旧道なのだろうか。

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その脇の藪の中に青面金剛タイプの庚申塔(元文5年)が祀られていた。

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クリントン」の看板を見ながら地蔵坂を上がる。名前の由来の地蔵はどこにあるのだろう?

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R461を逸れて左折、山際を通る。玉生変電所の裏の道がそうかと思ったが、なためさんの紀行文によればもっと山際、民家裏の山道が正解?玉生市街へ入る。

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県道63号と合流したところに昭和3年建立の玉生の道標が建っている。この付近から宿内と思われる。玉生宿は奥州街道から日光に通じる間道である日光北街道の要所で、西へは高徳村で会津西街道と連絡し、南は大宮村を経由し上平河岸、氏家阿久津河岸に通じている。

大宮宿と上平河岸 - がりつうしん

 

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左手の旧尾形医院手前から入ったところに「芭蕉一宿の跡記念碑」がある。その手前の畑地に宿泊した玉生家の屋敷があったという。芭蕉一行は玉生で宿に泊まるつもりだったが、あまりにひどいので無理に名主の家に泊めてもらったのだ。尾形家の先祖がその名主の玉生家である。名主は代々玉生七郎右衛門を名乗り、宿問屋も兼ねた庄屋だった。

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右手の山際をうまく利用したかつての石庭のスケールがすごい。

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その先鉤の手を右折して塩谷町役場の前に来る。そこでまた右折して県道63号と平行して走る路地が旧日光北街道だ。

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路地を行くと丁字路で行き止まってしまうが、突き当たりに三基の山岳信仰系の塔碑が。男体山が道標になっている。かつて道筋はこのまま真っ直ぐ伸びていたようだが、今は失われてしまっている。ちょうど昼飯時なので、地元のときわ食堂に入った。

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出前迅速のようだが、なかなかウチらの番がまわってこなかった。入った時間が悪かったか。

日光北街道 今市~船生をいく3 - がりつうしん