今市の相之道通りにやってきた。かつては今市銀座と呼ばれ賑わっていたこの通りは、かつての旧街道、会津西街道と日光北街道の起点となる場所だ。「アヅマヤ」の角から入る路地。現在でも日光北街道のルートを行く大渡が終着点のバス路線がある。起点は日光市役所だが、本当の起点である「相之道」のバス停も健在だ。
日光道中(現R119)から分岐する相之道通りへの辻に建つ柱標には「会津若松市まで112キロ(28里)とある。
今市の中心である証として「今市町元標」がR119を挟んだ道向かいに今も建っている。元標ってのは、道路の三角点みたいなもの。結構マニアさんがいる。
市内の日光道中沿いもそうだが、歴史のある街並だけに老舗の店も多そうだ。立派な外観の老舗も感動するが、地域に根ざしたイイ感じのお店に出会えるのが街道歩きの醍醐味の一つだ。相之道通りの「ワタナベ食堂」はそんな雰囲気の店構え。甘味処も兼ねた「和田屋」的なお店?焼きそば(300円?!)大判焼などをやってるみたい。パッチワークの暖簾がカワイイ。
左手に創業100年茶蕎麦の「やぶ定」があって、その先が鉤の手になっている。角がお米屋さん「松本商店」。二階窓が格子になっていていかにも歴史のある商家っぽくイイ感じだ。
丁字路を左折して進むとゆるいカーブでR121への出口が見渡せない。日光市のHPの旧今市市年表によると、「昭和29年 相の道の国道121号線、車馬の一方通行を実施」とある。今は一方通行は解除されているが、当時はこの通りも車馬の行き来が多かったのだろう。この頃には春日町交差点に真っ直ぐ行く道もちゃんとあったはずだ。
荒物屋の軒先にかつての商店街の看板があった。チューリップの絵がかわいい。この荒物屋さんの看板でこの辺りが「相生町」といったことを知る。「相生(あいおい)」とは、一つの根本から二つの幹が分かれ出ること(大辞林)で、この場合追分を指すのだろう。旧宿場に多い地名だ。日光道中と会津道が合わさる処、という意味だとずっと思っていたが違う説をみつけた。「今市ヨリ大田原通会津道見取絵図」には「奥州街道相之道」との表記がある。東京美術版解説編によると「相之道」とは「捷道(はやみち)」のことで、要は近道の意味であるとのこと。日光北街道(=今市ヨリ大田原通会津道)に対しての注記であるとしており、こちら方面は大田原宿で奥州道中に合流する脇道だ、ということらしい。「奥州街道相之道」の表記は現在の「相の道通り」の処に書かれているんだけど、果たして日光北街道のルートを指しているのだろうか?この絵図の主役は日光北街道であり、そこから今市宿を通り(日光道中)宇都宮宿で奥州道中に行けるよ、って意味の表記にも思えるが。ちなみに「相之道分岐」から日光道中で宇都宮宿の奥州道中までは約28キロ、日光北街道で大田原宿の奥州道中までは約40キロだ。
料理教室。側面に「いつでも入学できます」とあり。いいねぇ。
菊屋造花店あたりから坂になっている。菊屋さんは会津西街道旧道沿い倉ヶ崎に斎場があったな。
ガラスの引き戸の中から察するに酒屋さんか?立派な松がうねっている。
今度、この起点から日光北街道を船生まで歩くこととなった。今回は車で来たのだが、実際に歩かないと気づかないことも多いに違いない。その日を楽しみにしつつ、次の目的地、大桑に向かった。