3/14の続き。
大谷橋を渡り、大谷向に入る。かつての渡河ポイントは現在の橋よりも下流であったようだ。
画像左大谷向集会所から大谷川へ真っ直ぐに、川への降り口があったという。現在のR121バイパスに出る道はいつぐらいに出来たのかといえば、
・・正直分からない。しかし通り沿いにはこんな歴史のありそうな商家がある。薬屋だったのだろうか。「藤澤樟脳」「懐中良薬 ボイス錠」「起死回生 寳丹」「清心丹」といった広告額が今もそのまま飾られている。
「御引菓子」てのがいいね。返礼品を引き出物、御引き物っていうよね。洋菓子もやってるのか。「シベリア」とかありそう。
さっきの大谷向集会所のところから、会津道方面と栗山街道に分岐していたという話だ。
大谷向公民館裏の大谷向の庚申供養塔を見て、堤防上で小休止。この辺から河川敷に降りていたらしい。その後会津道分岐に向かう。左が会津西街道、右が日光北街道だ。この追分に自然石の道標がある。
今回は右へ。東武鬼怒川線の踏切を渡る。ここの踏切は、
鉄道マニア垂涎のフタマタ踏切なので気をつけろ。
途中、居村道の馬頭観音に寄りつつ先へ進む。この前カメラ談義をしたオヤジさんは、線香工場の方だったと気付く。用水路に小さな水車が。里芋などを洗うのにこの水車を使っているらしい。かつては線香を引く動力も水車だったに違いない。
街道沿いの民家の生垣にいきなり愛宕山があったってりして驚く。片道2車線のR461バイパスに出る。左折してしばらく行くと、かつて「芹沼十文字」と呼ばれた場所に。現在ここには「十文字霊園」があるのだが、その角にこんもりとした塚がある。
これが「芹沼の一里塚」といわれている塚だ。位置的に今市宿から一里(4km)の場所に作られたものようだ。その隣の木にぶら下げられている大きな草鞋は、この村にはこんな草鞋を履くような大男が住んでいるから悪さはできないぞ、という魔よけの意味があるという。この一角には芹沼の道標をはじめ、いくつかの道標があり、字横街道(鹿沼道)と呼ばれていた道と交差していたことが分かる。
芹沼十文字からバイパスを逸れ旧道へ。といってもれっきとしたR461。回転寿司屋裏に集められた石仏群を観察。この前を通るたびにじっくり眺めたいと思っていたんだ。ここにも祠のある愛宕山が。通り沿いの芹沼集落には、道沿いに用水路が流れており、用水路は蓋がされてしまったが、洗い場は各戸に作られている。さすがに現在は使われていないか。
緩やかなカーブを繰り返し、道端にお堂が何箇所か。その前に如意輪観音の彫像が並んでいる。信仰の深い地域、ともいえるが、それを建立するだけの資金がある豊かな地域であったのか。それは「御蔵詰御用米」をはじめとする駄送仕事の収入のたまものなのか。しかし御用米駄送の負担が大きいと藩に訴えて、担当の村落を替えてもらったという記述もある。真実はいかに。
しばらくすると右手に芹沼幼稚園が見えてくる。当時この幼稚園の看板辺りに芹沼村の高札があった。
この角に五つの石仏が並んでいるのだが、寒念仏供養塔が道標になっている。クネクネと蛇行する道筋が旧道っぽい。この先左手に「富士山」を見て轟(とどろく)の集落へ。十字路のコンビニで昼食。
館坂入口に立つ案内板。この附近に中世「轟城」という城があったという。坂を降りればそこは大渡宿だ。
日光北街道 今市~船生をいく3
へつづく。