がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

羽田平山酒造店建立の道標

家族に頼まれて、羽田の養鶏所に人気の卵を買いに行った時のこと、ふと道端に佇む標柱が目に入った。黄砂と花粉で黄ばんだ青空のもと、目は血走り鼻汁はとめどなく流れる最悪の状況でも、俺の道標感知力は鈍っていないようだ。

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場所は奥州街道近く、練貫と野間の境界にあたる、羽田沼に向かう道沿いだ。もし道標を建てるとしたら、奥州街道から分岐する道の入口の角だろう。しかし、今実際に建っているのは入口から120mほど入った場所。舗装道路から分岐する細い道との叉にあり、もともとこの分岐の道標の可能性が高い。とにかくなんと書いてあるのか見てみよう。

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道に面して「従是 南 黒羽道 二里」 
西側の面「従是 東 羽田道 約五丁」
奥州街道沿いの道標なら東方面は鍋掛、寺子など街道筋の地名が入るはずだ。もともとここにあった道標に間違いない。黒羽道は蜂巣、余瀬を経て黒羽に至る道か。では東 羽田道は?このゲートのある細い道は、地図上で見ると「羽田パブリック」敷地の境界になっている道のようだ。さて建立年は・・?

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・・「大正三年 十一月建立」、その脇になにか書いてあるのは・・「平山酒造店」・・。ひらやましゅぞうてん?!

この道標の建立主は「藤の盛(ふじのもり)」の蔵元、平山酒造だった。道標の建つ場所が既に「羽田」だからして、「約五丁(545m)」というのは、平山酒造がある藤形輪附近を指しているのだろうか。ちなみに地形図で現在地から平山酒造までの距離を測って見ると、直線でも800mはありそうだ。明治4年(1871)創業の蔵元が移転した可能性は?
黒磯・大田原方面からの平山酒造へのアクセスはこの道からだったのだろう。現在の藤形輪集落へのアクセスは、もう一本先で入る道があったはずだ。
建立の大正3年(1914)は、特に銘文にないがいわゆる「御大典記念」というやつだろうか。そういえば平山酒造のブランドには日露戦戦勝記念で有名な「乃木之誉」があるネ。そう考えると、他にも建立している可能性があるので調査してみよう。

[補足]
後日、図書館で「羽田郷土誌」を確認したところ、前述の道標についての記述があった。「羽田道」に関しては

この道標を東に行くと藤形輪の温泉神社の脇に出る。それから藤形輪館、藤形輪墓地、供養仏前と山際の道を通って、小丸山、しんべ坂に出て、そこより木須館に至る。木須館からは、名興寺脇、庚申様前、新屋屋墓地の前を通って愛宕神社前、羽田館の南を通って羽田氏墳墓を通り、鹿ノ畑を抜けて棚倉街道に通じた。そこより南へ下れば、黒羽の城下に出るわけである。

とある。○○館というのは羽田にあった中世の城館で、それらをつないでいた古くからあった道のようだ。
また、「黒羽道」は地元で「立街道」といわれる道で、方向の辰(南東微北)、あるいは常陸に向かう道の意味もあるが、長者平に住んでいた長者が落ちぶれて土地を立つ(去る)時に通った道、という伝説がある。
また白鳥の飛来で有名な「羽田沼」は、地元では「長者ヶ池」と呼ばれている。かつては棚倉街道の下まで続く広大な湿地で、長者はここで稲作をしていたという。明治期には「鏡ヶ池」「芦ノ池」とも呼ばれており、「九尾の狐」伝説の鏡が池がこの池のことだという言い伝えが残っている。