県立なす風土記の丘資料館湯津上館に、企画展「あづまのやまのみち(東山道)―那須の防人広成が通った道―」を見てきた。
東山道とは、近江国から美濃・信濃・上野・下野を経て陸奥国に通じる古代の官道。大宝2年(702)に開通し、大河を渡らないですむようなルート設定となっている。東山道は奈良時代の中頃まで畿内から東北開発や蝦夷征伐に向かう主要路線として、また下野国から税の運搬や防人としての赴任する道でもあった。時代経過により渡河の技術・整備が進むと、東西交通の中心は東海道へと移っていく。
防人とは、崎守(さきもり)の意味で、唐・新羅からの侵略を防ぐ国防のために徴用された人々のこと。当時 21 から60 歳の男子は 3 年間の防人の軍役につく義務があった。勤務地までの旅費は自費で、現地では自給自足の生活であったという。任期も3年で済むわけもなく、帰りも現地解散、生まれ故郷に帰りつける保証なんて少しもなかった。企画展の「那須の防人広成」とは「万葉集」巻20の防人歌に掲載されている大伴部廣成のことだ。今回の展示は、広成がたどった道のりから見える当時の生活や様子を、最新の遺跡発掘調査の成果や出土品の展示を交えて紹介したものだ。
「万葉集」に掲載されている下野国北部出身の防人の歌
4382番・755年
那須郡 上丁 大伴部廣成
布多富我美 阿志氣比等奈里 阿多由麻比 和我須流等伎尓 佐伎母里尓佐須
フタホガミ アシケヒトナリ アタユマヒ ワガスルトキニ サキモリニサス
太小腹 悪しけ人なり 疝病 我がする時に 防人に差す
訳
うちのおエライさんは ひどい人だよ 俺が病気で苦しんでんのに 防人として徴用しようってんだからサ
4383番・755年
塩屋郡 上丁 丈部足人
都乃久爾乃 宇美能奈伎佐爾 布奈餘曽比 多志泥毛等伎爾 阿母我米母我母
ツノクニノ ウミノナキサニ フナヨソヒ タシテモトキニ アモカメモカモ
津の国の 海の渚に 船装ひ 発たし出も時に 母が目もがも
訳
つ(摂津)の国の 海の渚で旅支度して 船出するとき思ったよ せめて母さんにひと目でも会えたらなぁ、って
一番の目当ては、県北エリアの東山道のルート取りの最新見解が展示されてないかな、ってことだった。展示物で地形図上に引いた推定図があったので、じっくり見てきたけれど、よくわかんなかった。小川~湯津上~黒羽ってあまり地の利がないので・・。東野の線路道と並行する感じか?刷り物がチラシしかないのがくやしい。企画展の本は校正中とのことで予約台帳に署名をしてきました。ぜひあの地形図を閉じ込みで入れて欲しいものです。今回は祝日の昼下がりに行ったのだけど、他の見学者がいなかったので学芸員さんにマンツーマンで案内してもらえて、色々気軽に質問できて大変良かった。