がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

栃木県遊廓設置規程(明治32年)

明治後期から大正にかけて、旧宿場町の繁華街に点在していた遊廓(貸座敷)が「風紀上よろしからず」という理由で集団移転を行っている。明治32年(1899)に発布された遊廓設置規程により正式に遊廓の営業を許可された地域が指定された。これにより今まで繁華街に点在した貸座敷や引手茶屋を集団移転するいわゆる「新地」の設置場所が規定されたと言えるだろう。

遊廓設置規程 明治三十二年九月 県令第六〇号
第一条 貸座敷及引手茶屋営業ハ遊廓区域内ニ限ル
第二条 遊廓ハ左ノ地域内ニ置ク
 宇都宮市 河原町
 河内郡 富屋村大字徳次良字上座禅堂
 下都賀郡 小山町大字上鳥谷字長福寺
 同   郡 石橋町大字石橋字牛井戸
 同   郡 富山村大字富田字竹ノ内
 同   郡 壬生町大字壬生字下台東
 同   郡 家中村大字平川字関取塚
 阿蘇郡 堀米町大字堀米字安良町上北
 同   郡 田沼町大字田沼字中道
 足利郡 御厨村大字福居字中里小字上
 上都賀郡 鹿沼町大字西鹿沼字一丁田
 同   郡 西方村大字金崎字原
 同   郡 今市町大字今市字清水川
 同   郡 足尾町字向原
 塩谷郡 喜連川町大字喜連川字松並
 同   郡 氏家町大字氏家字伊勢後
 塩谷郡 矢板町大字矢板字東原
 那須郡 田原町字沼ノ袋
 同   郡 佐久山町大字佐久山字四ツ谷
 同   郡 烏山町朝東裏
 同   郡 黒羽町大字前田字郷前
 同   郡 那須野村大字黒磯字原街道上
 芳賀郡 真岡町大字荒町字妹内
 同   郡 茂木町大字茂木字上ノ平
 同   郡 久下田町大字谷田貝字天水場
第三条 遊廓地ハ左ノ各項ニ該当スルコトヲ要ス
 一 面積二千坪以上八千坪以下
 一 官公衙学校病院又ハ重ナル作業所ニ接近セサルコト
 一 国道県道又ハ交通頻繁ナル里道及鉄道線路ニ接近セサルコト
第四条 遊廓ノ構造ハ左ノ各項ニ該当スルコトヲ要ス
 一 遊廓ノ形状ハ方形又ハ円形ナルコト
 一 遊廓ノ道路ハ五間以上タルコト 但裏道ハ此限ニアラス
 一 遊廓ハ其境界ニ相当ノ墻塀ヲ設クルコト
 一 遊廓ノ内周囲ニハ六尺以上ノ余地ヲ存スルコト
 一 遊廓内ニハ相当ノ下水ヲ設クルコト
第五条 遊廓ハ其区内ニ於テ営業ヲナサントスル者ノ申請ニ依リ知事之ヲ指定ス
第六条 前条ノ申請ヲナストキハ第三条第四条各項ニ対スル計画ヲ詳記シ図面ヲ添エ
 所轄警察官署ヲ経由スヘシ 但申請ノ土地他ノ所有ニ係ハルトキヘ地主の承諾書ヲ
 添付スヘシ
      附 則
第七条 従来ノ免許地ハ明治三十七年十二月三十一日迄其効力ヲ有ス
 前項ノ期限内ト雖トモ新規営業譲受譲渡ヲナスコト得ス 但相続ニ係ルモノハ此限
 ニアラス  

 

下野新聞M32.10.26掲載「那須郡大田原便り」で反対運動が報道されていた大田原の貸座敷移転問題は、そのまま候補地の沼の袋が採用されている。しかし大正13年の松井天山による「大田原町真景図」にもみられるとおり、その後新地は深川に移転しており、その正確な時期と詳細に関しては今後確認してみようと思う。同記事にあった通り、この県令により県北の黒磯遊廓と黒羽遊廓が出来たことがわかる。鉄道敷設でますます発展する黒磯と、林業の盛んな黒羽だ。また下野新聞ではこの年の10月に「本県遊廓増設問題」というタイトルでこの関連記事を10回にわたり掲載している。この内容についてはまた次回紹介していく。


またこれ以前の栃木県における遊廓の存在に関しては、明治26年(1893)2月発布の栃木県貸座敷娼妓賦金徵収規則 栃木県令第22号 において、各地域の盛況具合によって賦金徵収額を甲乙丙の3ランクで定めているリストがある。

甲部 宇都宮 甲部 宇都宮町 

乙部 鹿沼町、足尾町小山町、家中村、大田原町、堀米町、御厨村、梁田村 

丙部 西方村、北押原村、富屋村、富山村国分寺村、石橋町氏家町喜連川町烏山町、蘆野町、佐久山町、鍋掛村

このリストをみると、明治32年の遊廓設置規程に選定されていない地域があることがわかる。梁田(足利市)、北押原(鹿沼市)、国分寺(旧下都賀郡下野市)、蘆野(那須町)、鍋掛(旧黒磯、那須塩原市)がそれだが、鍋掛と蘆野(芦野)は江戸期に栄えた旧奥州道中沿いの宿場町にある色街である。旧奥州道中沿いの宿場町であった地区は氏家、喜連川、佐久山、大田原などが遊廓設置規程に含まれている。大田原以北の鍋掛、芦野は鉄道計画から外れたエリアで時代の変化とともに繁栄に陰りがみえはじめており、明治32年の遊廓設置規程では選定されなかったのではないか。

参考:栃木県警察令類纂 栃木県警察部(M27)、栃木県警察類典 栃木県警察部 編纂 栃木県警察部(M34)