がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

薄葉の原街道槻沢通り(多分)

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 県道192号から薄葉団地方面

県道192号の中薄葉高性寺裏に、薄葉団地方面に抜けられる細い路地が残っている。原街道槻沢通りが二ッ室岳の間を抜けて薄葉を通った道の名残がこれなのではないか、とずっと考えている。まあ、薄葉団地が造成されたのは'70年代くらいだろうし、地形図の変遷を辿ればもっと堂々と確証を持てると思うんだけど。明治43年の5万分の1地形図をみると、関根養魚場のある通りあたりまでは繋がっている感じなんだけど。ウォッちず(2万5000分の1)ではこの路地を無視しているので地形図ではダメか?ゼンリンいつもガイドならバッチリなので過去の住宅地図はどうだろう?この路地の先にある「薄葉ほほえみセンター」に集う方々に聞き取りしたところ、やはりこの道は一区方面に伸びていたとのことだった。薄葉公民館に集められた石仏も、日光北街道沿いではなく原街道沿いにあったものの可能性はあるかも。

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 路地出口から県道192号・箒川方面

箒川方面をみると高性寺の墓地の敷地に阻まれるんだけど、高性寺裏の道の塀の曲がり方が変にアヤしい。地図でみるとわかるんだけど、かつては真っ直ぐに通っていた道を敷地拡張でひん曲げてしまって、筋違いになってしまったのではないだろうか?

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 高性寺裏の道入口から箒川方面

ここから県道192号を通って平沢に出るか、真っ直ぐ河岸段丘を降りる坂を通って箒川を渡り、沢の集落へ出て豊田に向かうか。平沢の問屋渡辺家で荷を引き継ぐ必要がない場合や旅人は、薄葉で箒川を渡って沢に入ったのではないかと思ったりする。

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 段丘降りる坂の石仏 馬頭尊は明治期建立

間道入り乱れる那須野ヶ原の街道事情で、ずっと原街道だけを通って運ばれる荷がどれだけあるのかを考えると、どれが原街道の正式なルートなのかと悩むことは、大して意味がない事なのかもしれないけど、俺がおもしろいと思ってやってんだからいいよな。ちなみに「かさね橋」の名づけの経緯の話を、この夏の暑気払い飲み会で聞いてちょっと驚きました。 はくせきさんが名づけ親だったのですね。