がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

夏の野外学習、稲沢周辺

最近気になる旧道関連のトピックを二つ。

初期の奥州道中で、白坂から先、白河宿へまっすぐ北に向かわずに東に迂回していたらしい。いわゆる「鬼越ルート」である。

初期の白河街道は女石に出ずに薄葉に向かったそうだ。いわゆる「葉ノ木平ルート」である。

どちらも「白河風土記」あたりにちらと出てくる内容だが、安田初雄氏の論文中に詳細が載っていた。これは行ってみたい。
ところが下調べの段階で、「葉ノ木平」が今回の震災で大変な被害を受けた地区だと知った。なんでもみてやろうとは思うが、これは俺の中の道理に反すると思った。またいつか機会は巡るはずだ。

鍋掛宿・越堀宿を歩くに参加した際、教えてもらった越堀から稲沢に出る往還道を通ってみる。

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入口の坂を上がると右手に石仏群が。庚申塔、二十三夜塔、馬頭尊など。山を二つほど越えて出口にも馬頭観音が。方向的には沼野井に出た道か。あるいは杉渡土へのショートカットか。
とりあえず黒磯棚倉線(県道60号)に戻るべく南へ。途中、向かいの山際に地蔵堂と石仏が見えたので寄ってみた。石仏の一つが道標になっていた。

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36.94145, 140.11912

稲沢町田の地蔵
78×38×12cm
36.94146, 140.11916

36.94145, 140.11912

右 山ミチ
享保十六年
十月朔日
左 伊王野道

左 伊王野道方面は結局黒磯棚倉線に戻ってしまう。右山ミチはどの道を指しているのか。地蔵堂に向かう用水路沿いの道の角と仮定するなら、黒磯棚倉線を越えて延びる山道沿いには大正時代の大きな馬頭観音があり、かつては人が行き交う道だった可能性もあるか。

堀越に戻り、鍋掛宿・越堀宿を歩くに参加した際、情報を得た黒磯棚倉線沿いの道標を探す。那珂川右岸の段丘上を通り、ハッケトンヤ遺跡のある船戸の渡渉点に出る道と伊王野方面に分かれる道の分岐にある地蔵だ。

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越堀坂上の地蔵
60×33×17cm
36.94265, 140.10923

右 くろ波ね道

左 やみそミち

地蔵の脇に六地蔵が何本も建っている。この奥に墓地があるのかな、と思ったら、県道の反対側が墓地だった。名称をどうしたものか。この地の小字もわからず仮称「越堀坂上の」地蔵とした。


こんな暑い時期に道標ハントをやるなんてどうかしてる。パンツまでぐっしょり。石仏の周り草ボーボーだし。
しかし、せっかく重い腰を上げる機会を得たのだ。Puuさんありがトン。多分次のがPuuさんの情報の道標であろう。

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稲沢沓掛の六字名号塔
85×66×13cm
36.94242, 140.13760

右 こゑほ里ミち
南無阿弥施佛
 享保十六辛亥
       五月七日
左 くろば祢ミち

県道稲沢高久線と旧R294の丁字路の脇に道標がある。果たしてもともとこの位置にあったものか?黒磯棚倉線の出口の丁字路にあったものなのか、それともそもそも越堀道の入口はこの細い作場道だったのか?

以前この角に火の見がなかった?ちょうど余笹川と奈良川が合流する場所で、向う岸樋世原の石仏群の処には平成10年の洪水の際の最高水位の線が引かれている。スナック原宿村は今はない。