「日本九峰修行日記」で泉光院野田成亮が辿った道のりをちょっと紹介。会津若松から那須野に入るあたりの日記。文化13年のリアル。
廿八日 晴天。荒井村立、辰の上刻。即時会津城下へ出づ、御城平地、角楼三つ天守の如く見ゆ、追手東向、廓広し、町東北にあり二千軒計り、貧家多し、托鉢等一切なき所故に托鉢せず。当所より半道の坂あり、上に馬渡り村と云うがあり、日も西に落つる故に庄屋付きにて一宿す。夕飯栗の飯の馳走あり。当村は山中に家十四五軒あり、皆々あばらや、むさきこと他に越えたり。
若松城より
北会津の荒井村を立ってすぐに会津城下に入る。城は大きく、二千軒ばかりの城下町だが貧しい家多く、とても托鉢など出来そうもない。親藩である松平家二十三万石の会津若松がこんな様子だったとは。会津城下から坂を上がった処に馬渡村がある、と書いてあるので、院内から関白平に上がる背あぶり峠の道か。羽黒修験の羽黒山湯上神社経由なんて想像も出来る。馬渡からいわゆる白河街道に入る。庄屋の家に泊まらせてもらい栗飯のもてなしを受ける。他にも増して貧しき家々。
九月一日 半天。 三吉立、辰の上刻。三吉峠とて上下一里の峠あり、下に村あり、此所にも会津の番所あり、峠に会津領白川領の堺杭あり。カネコと云ふ駅に下り宿す、此所会津より山中十四五里あり。
三吉(みよし)とは三代(みよ)宿のことか。その先の峠は番所、堺杭の記述のあることから三吉峠は勢至堂峠のようだ。カネコは街道の集落でみると上小屋(かみこや)宿であろう。九州出身の泉光院でなくても当時のネイティブななまり言葉を聞き取るのは難しかったのか。上小屋宿は江戸時代を通し白河街道の重要な宿として繁栄し、普通は夜搗(つ)く刈り上げ餅も朝でないと搗けない忙しさだったという。
現在の上小屋の街並
11月になためさん主催の「白河街道歩き 白河宿~上小屋宿」に参加した時に撮影したもの。街道沿いの道標も記録したのでそれもまたいずれ。
江戸末期の上小屋宿の街並
二日 晴天。カネコ村立、辰の上刻。白川城下へ出る。御城平地、追手南向、町数は多し、当所も托鉢等は一切なき所故早々行き抜けたり。当所より奥州仙台の方、羽州の方、江戸よりの街道分る。江戸街道へ出て白坂と云ふ駅に宿す。さて当白川城下は越中守御城下也。然るに東海道筋は宿々に本陣の様なる旅籠屋敷十軒あり、是れに皆々飯盛女数十人宛居る、日本国御倹約仰出され、三ヶの津にも御免の地外は売婦らしき者皆々御吟味ありたるに、夫にも似合はず当御城下には売女多く召置かるゝは心得ずと世上専ら申す事也。古歌に、
鏡山人のしがからさき見えて吾身の上はかへりみずうみ
白河宿十軒店付近
白川城下は親藩松平越中守の城下にもかかわらず、街道筋の宿場は本陣のような立派な旅籠屋が数十軒あり、それぞれに飯盛女数十人抱えている。日本国中にご倹約を命じて京都・江戸・大坂でさえ公式の遊郭以外は遊女を取り締まっているというのに、本家の城下には売女を召置かれているのは納得できないと、世間は云っておりますぞ!
フツウ、藩に報告書としても提出される日記に、こんなお上への批判めいたことは書かない。泉光院のこのあけすけで自由なスタンスは魅力的だ。
三日 晴天。白坂村立、辰の上刻。一里に奥州下野の堺あり。其処に下野黒羽領内堺杭あり。白川の関と云ふは今の往還より半道東に其跡あり、半道程に間の宿あり、此所より西に行き那須野の原へ掛る、四方十二三里と云ふ大原也。今松柏等の林少々あり。那須明神を尋ね行く。此原小村も無所なれば草刈りの者もなく、狐道は縦横にあり、何れに尋ね行くすべも無く、道踏迷ひ夜に入る頃ようようトノヲと云ふ七八軒ある在へ行き、一宿貰ひ出し宿せり。朝暮稗の飯馳走あり。
白坂から4キロ程で峠の明神、さらに2キロで間の宿、間の宿は寄居宿のことだろう。ここから西に逸れて那須野の原に入っている。すると現在の豊原駅に出てくる道だろうか。そこから黒田原・小島方面に出るには原街道(現国道4号)ならわかりやすいはずだが。国道からちょっと入った道は当時の狐道を拡幅、舗装した道なのか、複雑でわかりにくい。大沢・大谷方面には向かわず、小島から戸能に出て日が暮れる。
現在はバイパスが作られ静かな戸能集落
池田街道(県道21号)で小屋を経て湯本へ向かったようだ。
四日 雨天。トノヲ村立、辰の刻。野原を行くこと三里計り、雨は降る、人通り絶えし所なれば淋しさ限りなし、因て一句、
淋しさや虫も枯れ行く那須野原
湯本と云ふ所へ漸く暮方に着く、旅宿を求め直ちに入湯す。湯壷所々にあり。硫黄湯也。谷かしらには硫黄を採る。
那須明神 高湯山参道
五日 雨天。滞留して那須明神へ詣で納経す。湯本より山の手三丁に鎮座。奥の院は当所より三里登る、当分雪なれは登り得ず。那須與市扇の的を射る時、祈念せし那須明神は此の神社也。此宮の下谷合に殺生石あり。八九間四方に垣を結び一見の者近づかざる様にす。今も石の毒気に当り蝶、蝿の類多く死せりと云ふ。予案ずるに、此石に当り死するとは是慥かに秘相石ならん。又当処に不思議あり、常には入湯人多く来る由鳥多く居る由、八月過ぐれば入湯の者一人も来らず、居付きの者も餘所へ稼ぎに出るなり。雪の為め家居埋れて淋しき故、鳥何れへか皆々飛び去れど、只二羽何れの年も残り居ると云ふ。巳の下刻より湯本を立ち、黒羽城下の方へ赴く。大原を行くこと六里にして大川あり、此上に人家六七軒あり。夜に入る、酒屋の出店あるに付無理に一宿を貰い宿す、黒磯と云ふ村也。
泉光院は那須明神の奥の院(高湯山)に登るつもりだったが積雪のため断念している。旧暦の九月五日だから十月のアタマなのにもう降雪してるんだね。高湯山の閉山は旧暦の八月九日だったらしい。閉山以降は入湯客もなく閑散としていたという。でも農閉期の湯治ってその前に来てるのかな。
湯本から六里、立ちはだかる大川は那珂川で、高久橋本町からの渡渉。河岸段丘を上がると黒磯本郷町だ。ここにあった茶屋?に無理矢理泊めて貰う。つづく。