がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

日本九峰修行日記 金田村滞在のこと その1

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積雪のため那須明神の奥の院(高湯山)登拝を断念した野田泉光院。 湯本から黒羽城下方面に向かう。那珂川を渡渉、黒磯本郷町の茶屋に宿泊し翌朝出発する。

黒磯本郷町の白湯山供養塔 右 奥州海道 左 表口三斗小屋道

黒磯本郷町から市道黒磯大田原線の元になった道(大田原街道、湯道)を通り練貫方面へ。


練貫の小出チップの貯木場裏手に那須湯道と思われる作業道が残っている。258mの標高点を通る道だ。地形図上では橘商事の200m北側で市道黒磯大田原線から右に分岐しているが今も通しで歩けるかは未確認。


左手の高台に愛宕神社をみて県道72号線、旧奥州街道に合流する。


火袋部分が壊れてしまっている常夜灯が道標になっている。


練貫永代常夜燈の道標   奥州海道湯道分岐の道標 左 原方 那須湯道 右 奥州海道


 六日 晴天。黒磯立、辰の上刻(午前7時台)。今日も大原を行くこと六里(約24km)計り晝(ひる)過る頃江戸よりの奥州街道へ出で、夫を横切り八幡那須八幡宮へ詣で納經八幡は興市八島射術の時祈誓を掛けし八幡にて興市の産土神(うぶすながみ)也。宮南向、 楼門あり、扇の的の時用ひし弓矢此宮の寶蔵に今猶納り居る也。予も奉納一句、

 今も猫 扇ならねど 散る木の葉

練貫から那須神社金丸八幡宮へは、現在の東小屋黒羽線の元になった道で来たはずだが詳細はなんとも。M42作図の地形図をみると、村山酒店のところの練貫十字路は存在せず、その手前の久保集落を抜ける道がそうか。左手の丘陵に久保城址をみながら集落を抜けると東小屋黒羽線に合流。その先は乙連沢、篠原、余瀬を通り那須神社金丸八幡宮へ向かう。


那須神社金丸八幡宮

鎌倉時代の軍記もの、祇園精舎の鐘の声ではじまる「平家物語」のなかで、屋島の戦いの場面の有名なシーン、戦いの前の余興で弓を射ることになった与一が祈願した産土神のひとつだ。

南八幡大菩薩」は弓矢の神、武士の守護神である八幡大菩薩に命運を委ねますよ、という念仏の常套句。少年時代の与一が雲雀(ヒバリ)の蹴爪を射て弓の修練をしたという伝説のある法師峠がある南金丸八幡宮だ。屋島の戦いで手柄をたてた与一は凱旋帰国し、文治3年(1187)土佐杉を使用して金丸八幡宮社殿を再建し社領を寄進したのだという。与一が祈願した故郷の神社には、与一が社殿を寄進したり奉納したという宝物が保存されている。これらの伝承が事実なのか作りごとなのか、後年神社仏閣の権威付けのために用意されたものかは定かではない。モデルとなった人物がいたという話もあるが、那須与一という伝説上の人物は、長い時を経て既成事実となっている。

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當村市右衛門と云ふに宿す。

 七日 晴天。市右衛門宅立、辰の刻(午前7時~9時)黒羽の方金丸村と云ふに托鉢の所、洗濯したく思ひて宜しき宅見合せ居たるによき庵地あり、是幸也とて隣家にて聞合せたる處、當時無住也と云ふ。右に付吾々共暫時借用し洗濯致し度、借寺は出来間敷やと申入れたる處、主人次郎衛門と云ふが聞付け、然らば暫時待玉へ 、近所の者又名主へも申聞かせ相談すべしとて、近所へ相談に行きたる慮、皆々農業に出で留守也、夜に入り相談すベし、先づ今夜は此方へ宿し玉へと云ふに付一宿す。夜に入り相談に出られたる處、借寺相談出来滞留に極む。

八日 晴天。世話人宅、名主方、助衛門と云ふに禮に行く。此宅より 鍋釜諸事入用の品渡されたり。寺號地蔵寺と云ひ眞言也、本尊地蔵也、 此寺へ宿す。


金丸村の市右衛門宅に宿泊し、翌朝村内を托鉢してまわる。洗濯もしたいしちょっと滞在できる場所はないかと思っていたらちょうどいい庵(小さな寺院)があった。無人だというし、しばらく間借りできないかと尋ねると、ご近所や名主と相談するから待ってくれと。とりあえず今晩はうちに泊まりなさいよと次郎衛門。話し合いの結果寺院の滞在が許可された。翌朝、名主の助衛門宅にお礼に行くと鍋釜など生活用品を貸してくれた。寺号は「地蔵寺」といい真言宗で、本尊は地蔵尊だ。

野田泉光院が滞在した「地蔵寺」とはどこなのか。大田原市史にも金田村郷土誌にも廃寺を含めて金田村に「地蔵寺」という寺はみつからない。(親園に「西松山養福院地蔵寺」という寺院があるが金田村とは関係なさそう)名主方助衛門次郎衛門の名前を近隣の寺院の宗旨人別帳で調べてみては、などと考えたりしたが、いつしか泉光院への熱も冷めてしばらく経ってしまった。しかしつい最近、街道歩き仲間の方から、奥さまが泉光院にハマっているという話が思いがけなくもたらされた。泉光院が滞在した「地蔵寺」に関連しそうな史跡が南金丸の田中地区にあるというのだ。


田中集落センター


田中泣地蔵堂(南金丸)
源義家が奥州征伐のおり勧請したものという(創垂可継)。寛文二年(1662)、黒羽藩主法光院高増の九男、一学増俊の創建(大関過去帳)であるという。本尊は、木像で丈二尺三寸、雲慶の作と伝えられる。大関家代々これを崇信し、増興は特に「霊感」と題する直筆の扁額を奉納した。また、藩家老の鈴木青蘭(為蝶軒の祖父)筆の「泣地蔵」の額を掲げた。  泣地蔵の由来は、元禄二年(1689)行脚の僧がこの地にきたり、地蔵堂荒廃して頑是ない児童らの本尊を、おもちゃにしているのをみて、その冒涜を嘆き携えて奥州会津に至り、一堂に安置したところ、毎夜「田中恋しや」と、泣き声が聞えるので不思議に思い仏像を拝すると両眼に涙のあとがあった。これをみて驚き、正徳六年(1716)再び田中の地に安置したと伝えられる。また一説には、元暦年中(1184~1185)、盗賊が堂に入り仏像を盗み出し、奥州南部に持って行き辻堂に安置したところ、前記のように奇異なことがあったので、再び田中に持ち帰ったという(創垂可継)。思うに、増興の奉額に「霊感」とあるのは、以上の霊異を聞いて、感激したものであろう。増興の襲封は、元文元年(1736)(大関系図)であるから、田中に持ち返したというのは、元文を去ること、さして遠くはないと思われる。当堂は、もと上田中にあったが、明治十三年(1880)現在地に移転した。

大田原市史前編1114-1115p

第八節 地蔵堂
「 田中山、地蔵堂は本村大字南金丸字田中に在り。旧境内は東西十二間余南北十間、面積四畝二歩の官有地なり。創建年月不詳。世人伝而云堂大破に及び木像は村内の小児等の持遊ぶ所となり元禄二年中行者(姓名不詳)是を思ひ遙かに陸奥国会津郡へ携へ往きて其地の堂に納む。其後尊像は古る里田中を恋れて泣き給ふ。行者其真情を汲みて像の故郷田中山の堂に納む時に正徳六申年なり。斯く霊験高き地蔵尊なるを感じ領主大関丑之助誓を懸けしに其功を顕現す。為めに同年七月堂宇を再建し堂の中央に領主直筆にて「 霊感」と記せし奉額をなす。次で享保二酉年黒羽藩士 鈴木青蘭の書にて「 泣地蔵」と扁額に記して奉納す。今も之を堂前に掲ぐ。 其後数年を経て堂大破に及び乞食等の住む所となる依て信徒I一同協議し明治十三年認可を得て字下田中に東西十間南北十一間許百十七坪の民有宅地に移転の上修覆す。本堂は間口奥行各こ二間半方形造り辰巳向きな り。本尊、泣地蔵尊は木像立姿にて丈二尺三寸雲慶の作れる所と言ひ伝 ふ。縁日は毎年陽朁七月二十四 日にて信徒十五戸なり。

金田村郷土誌


野田泉光院がなぜ黒羽に向かったのか、そもそも泉光院の旅の目的は何だったのか。表向きは修験の霊山である英彦山羽黒山湯殿山、富士山、金剛山、熊野山、大峰山箕面山石鎚山の九峰に登ることを目的とした旅であるが、各地の霊山や集落にいる修験者と情報交換をし、各藩の状況を仕える佐土原藩主に報告することだった。藩をまたいだ移動が自由だった山伏、修験者は諜報活動に利用されていた。修験者の活動は江戸時代になると幕府により規制され、定住化、人別帳も作られるようになった。逆スパイにもなりうる修験者の機動力と情報収集力が脅威となったのか。芭蕉曽良が逗留した余瀬に近いこの地に泉光院が長期滞在したというのも興味深い。

その2にいつか続く