がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

駒込の池@長谷田


黒羽運動公園近くにある駒込の池。那須与一の名馬として名高い「鵜黒(うぐろ)の駒」が生まれた池として知られる場所だ。

黒羽の北中川にある「牛居渕」に、鵜の群れが住み、その中に「鵜の王」と呼ばれる大きな鵜がいた。近くの長谷田村には野馬がおり、その中に足の速い七寸余の雌馬がいた。雌馬が怪我で動けなくなると、里人が保護のため堀を掘って住まわせた。そこに大鵜が飛来し、雌馬の背に止まるようになる。次第に両者は親密になり、ついには交尾して子馬を生んだ。この子馬(鵜黒の駒)は、馬の姿だが頭毛は雛のようで、尾毛は鳥の羽のよう。川を渡るのが得意で、名馬として評判に。里人はこの馬を国主・須藤太郎資隆に献上。資隆はこれを「希代の名馬」と称賛し、古代中国の名馬「驥」に例えた。馬は源平合戦(屋島など)で那須為隆・宗隆兄弟に受け継がれ、数々の戦いで功名を上げた。この馬の誕生は「乱国の兆し」とされたが、資隆はこれを運を開く象徴とし、馬を献上した次郎を「羽生駄次郎左エ門親綱」と名付けて重用した。  

 


那須与一の愛馬、鵜黒の駒がどれだけすごいかを語るのに、屋島の戦いで波打ち際の戦闘を難なくこなす名馬だから、実は鵜(ウ)と馬のハイブリッドっていう設定はどう?って発想がもうすごい。まあそんな伝説があるくらいすごい馬だったって話。

当時から那須地方は馬産の盛んな土地であったというし、那須駒のセールスのキャッチフレーズとして、あの鵜黒の駒を輩出した那須地方の馬ですと売り込んでいたのだろう。全国各地に那須与一、鵜黒の駒ゆかりのスポットが存在する。創作か史実かは正直どうでもいいし、それぞれの史跡にそれぞれの根拠と思い入れがある。民衆は地元出身の英雄譚に酔いしれ誇りとし、与一のような勝負強さ、出世運に、鵜黒の駒の力強さ、元気で健康であることにあやかりたいと願ってきたのだ。