鴻巣馬頭観音堂は、那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の霊を弔うために建立されたという伝承があり、霊験あらたかな馬頭観音として有名だった。
明治31年奉納の門柱。かつてはこの門前に堀があり橋が架かっていたらしい。
本堂右奥には釣鐘堂、左手にはお札絵馬売場、木製の馬形を飾った馬屋や相撲場、現在駐車場になっている場所には堂守の僧のお籠り堂があったという。
鴻巣馬頭観音堂の祭礼は春秋の2回で、正月二十八日と七月二十八日に行われた。この日の朝は、夜も明けない朝から飾り付けた農耕馬を連れた参詣者で境内があふれたそうだ。祭礼では馬の描かれたお札絵馬が配られ、仏堂では息災祈願の護摩焚きが行われた。秋の祭礼では昼間は青年たちの力比べや相撲などが行われ、夜は遅くまで踊り明かしたという。
馬頭観音は畜生道を救済する仏様として信仰され、特に馬の守護仏として広く信仰されてきた。農耕において馬は非常に重要な労働力であったため、農家では馬の無病息災を祈願して馬頭観音を信仰した。鴻巣馬頭観音堂は雨乞いや逆に止降を祈願して豊作を願う仏様でもあった。
仏堂は天保10年(1839)に再建されたものだそう。現在は小滝にある真言宗妙徳寺が管理をしている。
本尊の馬頭観音は、鎌倉時代貞応の頃に那須氏により創建された練貫福性院宗隆寺の本尊であったといわれ、秘仏とされている。福性院宗隆寺は明治時代に廃寺となり現在は存在しない。三面六臂の馬頭観世音菩薩像で、記念誌「鴻巣馬頭観音堂」(H14)でそのお姿がみられる。
お堂の周りには複数の奉納額が飾られている。農耕馬の健康と安全を祈願し信仰が厚かった当時がしのばれる。これらは退色はげしくどんな図柄だったかわからない。記念誌「鴻巣馬頭観音堂」には本堂内に掲げてある多数の絵馬や、奉納幕、天井画の写真が掲載されている。機会があれば実際に見てみたいものだ。
本堂裏に元文3年、寛政9年、大正6年の無縫塔があった。右が馬頭観音堂を中興開山した迎誉亮雲のもので、中央が江戸末期から大正初期の堂守の僧、法印海浄のものだ。
記念誌「鴻巣馬頭観音堂」では大野信一さんによる解説が掲載されていて、奉納品より鴻巣馬頭観音の信仰圏についても考察されている。
天保10年奉納の絵馬、天井絵による信仰圏
練貫村、市野沢村、戸野内村、北金丸村、小滝村、寺形村、久保村、大田原上町(以上は現大田原市) 唐杉村、笹沼村、波立村、宝鏡村、沓掛村、長久保村、前弥六村、鍋掛宿(以上は旧黒磯市) 稲沢村、沓掛村(以上は現那須町)
明治28年奉納幕による信仰圏
花園、宇田川、大田原、中田原、町島、富池、羽田、金丸、南金丸、市野沢、戸ノ内、原町、寺町(以上は現大田原市) 木綿畑、下厚崎、唐杉、沼ノ田和、中内、弥六、北弥六、大原間、北和田、沓掛、東小屋、上中野、下中野、黒磯、野間、嶋方、塩ノ埼、三本木、共墾社、山中(以上は旧黒磯市) 宇つの(旧塩原町) 関根、遅沢、東遅沢、井口(以上は旧狩野村西那須野町) 黒羽、余瀬、北野上(以上は旧黒羽町)
また栃木県北にある農耕馬の健康と豊作を祈願する信仰を集めた場所として以下の寺社をあげている(カッコ内は信仰圏)。これは見てまわらなければ。
半俵 馬廻馬頭観音堂(高林村、那須湯本村、高久村付近)
小深堀 東堂山(黒田原を中心とした那須町、西郷村、白河付近)
芦野 聖天宮(芦野を中心とした福島県白河郡付近)
伊王野 城山馬頭観音(稲沢村以東の伊王野を中心とした地域)
大畑 東堂山(蓑沢地域)
玉田 勝善様(箒根村から野崎村にかけての箒川に沿った地域)
ほんの60年くらい前まで農耕馬が家族の一員であった時代があった。農耕馬の健康と安全を祈る思いはどこの地域も同じで心がなごみます。
参考文献:「大田原市史 前編」(S50)「那須与一宗隆 ゆかりの地めぐり」(H17)
「鴻巣馬頭観音堂」(H14)