がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

下のクルマ@豊原甲

先述の星野製麺店の記事を書くのに「五軒町区100年のあゆみ」を読んでいたら、西那須野地区にも思いのほか水車があったことに気付いた。といっても那須疏水が開通してからの話なのだが。星野さんは粉を引くのに赤田の第三分水にあった「保坂水車」まで往復していたという。永田町にあった星野うどんから一番近かったのは、太夫塚の現三和ハイツ付近にあったと思われる「ヨロズヤ水車」だが、なぜこちらで挽かなかったのか、という疑問があった。他の製麺業の人がこちらの水車で挽いていて使えなかったとか?

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豊原にやってきた。「下野の水車習俗」という本に、県北で唯一稼働している水車として紹介されている、豊原甲の「下のクルマ」を見に来たのだ。平成5年刊行の本なので現在も稼働しているかどうかわからない。

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かつての勇姿。豊原地区には八軒の水車が稼働していたが、現在は一軒しかなくなったので通称「クルマ」で通っている。製麺業を営む鈴木さんのお宅に伺った。

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結論から云うと、この水車は現在稼働していない。平成10年の那須水害で土砂が堆積し動かなくなってしまったそうだ。

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板敷川と黒川の用水からの取水は今も水車脇を流れている。水車を動かすだけなら堆積した土砂を取り除くだけでいいのでは?と思うのだが、そんな簡単な話ではないようだ。水利用の再申請などもしなければいけないそうで。

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水車の使用は現当主の三代前、江戸末期から明治初期に始められたという。水車小屋の右手は元母屋で、以前は隠居家であったらしく、水車による粉挽きは隠居仕事であった可能性がある。

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水車小屋は昭和30年代までは茅葺きであったが現在はトタンになり、物置小屋として使われている。ダイハチグルマと云われる下掛水車で、直径は9尺×幅2尺、昭和35年頃に水車、ギア、シャフトを鉄製に変更した。
福島県南部はあまり水車がなかったため?白坂・旗宿・中野付近から、カマス一斗五升(27L)を担いで4,5人で来たそうだ。挽き終わるのを待つか、同じ穀物の挽き終わったものと交換して持ち帰ったという。持ち込みの穀物を挽いて代価を得ることを「賃挽き」という。

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水害で動かなくなる以前は、水車の動力で製粉機を動かし小麦を粉にしていた。昭和25、6年頃まではこの水車で竪杵と一斗張の石臼が4組、挽臼が一台、うどん用の製麺機として練り機、ロール、切刃が動かせたという。現在は納屋ですべてモーターで行われている。

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現在も使われている製麺機。かなりの年代物の機械を大切に使っている。鈴木さんのうどんは島田うどんで、今でも昔ながらの天日干しによる乾燥が行われている。その光景は壮観らしいが、訪問した日は曇りで干しの作業は行われていなかった。

独立行政法人 国際観光振興機構 Japan Photo Library 内の うどん干し風景「豊原水車うどん」(DLして壁紙にできます!)

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かつてはうどんを馬に百束つけて、奥州街道沿いに売りに行ったという。歩きでも六十束はしょって遠く西那須野・塩原方面まで売りに行ったそうだ。現在は近隣の道の駅などの物産販売所、ダイユーなどに卸している。

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直売もしてます。うどんは一束260円。

お仕事中に突然お邪魔したのに温かく迎えて頂いてありがとうございました。水車と天日干し作業の見学は、鈴木さんにお断りしてからでお願いします。


那須町豊原甲3095 (豊原駅前) 
豊原鈴木製麺所