綱子の道標
30×122×28cm 安政三3年(1856)
[正面]
右なす能ゆ
[左]
左 於ぎのく保
[裏面]
安政三丙辰年三月建
[右]
味噌屋
升 屋
白 大坂屋
柾木屋
藤 屋
川 松川屋
藤 屋
益屋
など白河の商家や那須湯本の旅籠の寄付者名が並ぶ
この道標は元々この場所にあったのではなく、綱子集落を入った山の中にあったものだという。白河と那須湯本を結ぶ「白川道」は、白河、西郷方面から那須湯本に物資を運ぶ道として(別名「白川米付け道」)、湯本や北湯などに湯治へ向かう道として(「湯道」)、那須の山岳信仰である高湯山参詣の道として往来があった。綱子ではこの道を「那須道」と呼んでおり、集落の中を通る那須道を挟んで、小字名が那須道上、那須道下となっている。
那須道は、稗返から黒川を渡り綱子に入る。那須西郷線から左折して、町道新夕狩線に入るところが網子集落だ。
綱子村(「創垂可継」では「砂子」の表記)は黒羽藩領で、寄居西組に属していた。文化年間の家数は19,天保年間は家数7。明治初年、西寄居村、夕狩村、逃室村、松倉村、そして綱子村が合併して豊原村となる。明治22年に那須村の大字となる。現在綱子は豊原乙に含まれる。
綱子には上下二軒の問屋が置かれ、湯本方面への輸送の人馬の継ぎ立てをした。集落を抜けると大山祇神社の前を通り、右に分岐する沢沿いの道がかつての那須道だ。
左手に綱子集落の墓地をみて、途中のカーブで左手の藪に覆われた山道に入る。かつては分譲地として売り出すために区割りがされていたようだが、藪に覆われたぬかるんだ山道で、現在は山菜採りぐらいでしか入らないだろう。この坂を網子の人は「赤土道」と呼んでいるようだ。
「那須の湯道を歩く」によると、網子の道標は「沢沿いの坂道を上り詰めた場所にある」と記されている。赤土道は町道大谷慈生会線に出る。地形的にはここが道標のあった「上り詰めた場所」なのだと当初は思っていたが、確証がなかった。現在慈生会のある付近を「長峰(ナガミネ)」と呼んでおり、周辺の村々の入会地で秣場であった。
「那須温泉史」には交通の章に白河道・北湯道の項があり、綱子の那須道についても解説されている。それによると道標の元の位置は「尾根のところの分岐」とある。また白河道・北湯道のルートの概略図が掲載されている。しかし、概略図にはかつての尾根の上の分岐は描かれておらず、網子の道標とはまた別のルートであることがわかった。
かつて道標があったと思われる付近
網子地区の方に何度かお話を伺ったところ、町道大谷慈生会線との出会いよりも手前、赤土道の途中にかつて道標があった分岐が存在したと思われる。「那須温泉史」掲載の白河道・北湯道のルート(ピンクで表示)、そして綱子の道標の「右なす能ゆ」「左 於ぎのく保」の推定ルート(赤)を引いたのが下の図である。、ルートの考察の元となる旧地形図との比較はこちら。
綱子の道標の移動時期に関しては、「那須の湯道を歩く」では昭和40年代、「那須温泉史」では昭和30年代と書かれている。戦後大谷開拓が出来て、現在の那須西郷線が整備され、山越えの那須道は使われなくなった。綱子地区の方によると、正確な時期は忘れてしまったが、峠向こうの集落から(北沢か?)道標を自分の所に持って来たいと言われ、綱子の男衆はすぐさま集まって、トラクターで道標を引っ張ってきたのだそうだ。道標の建立には綱子村のご先祖様が関わっており、道標は綱子側にあるべきだと思ったのだ。
「右なす能ゆ」方面は町道大谷慈生会線を現在の水道施設付近まで来て、まっすぐ斜面を下って北沢に向かっていたようだ。また水道施設付近から慈生会の農地を通り、新生飼料㈱那須高原実験牧場のある丘を越え、荻久保集落に出る「那須温泉史」掲載のルートも、江戸時代から存在した道のようだ。荻久保集落側の峠入口の馬頭観音群に道標がある。
荻久保の馬頭観音道標1
48×29×11cm 天保13年(1842)
(天)保十三寅二月 立石上
左はく山道
荻久保の馬頭観音道標2
48×26×10cm 嘉永3年(1850)
右やま道 嘉永三年二月戌
左白山宮 □傳右ェ門
荻久保の馬頭観音道標3
58×30×10cm 明治11年(1878)
右 きた 道
さわ
明治十一年三月八日
馬頭觀世音
薄井勝ェ門建之
左ハやま道
天保と嘉永の道標には、はく山道、白山宮?と読める文字が見える。これは何を指しているのか?近くに白山比咩神社が?白湯山に関係あるとか?
綱子の道標のあった峠の分岐から「左 於ぎのく保」方面に行くと、分譲地の水源施設、慈生会敷地内を通り、現地の人に「たこの足」と呼ばれる場所(四方八方に分岐する所)を通り荻久保に向かう。この道も荻久保を経由して北沢に通じている。
荻久保から北沢に出る山道 現在は掘割りになっている
荻久保は黒羽領、北沢は芦野領だったので、よく境界線で争いがあったという。境界をはっきりさせようと両藩立ち会いのもと、大きな石を境に置いた。この石が犬の仔に似ているので、「犬子石」と呼んだ。両藩の見分役が指図、監督のため小屋掛けした場所を「御殿掛場」と呼んでいる。
参考文献:「那須町史」「那須温泉史」「那須の湯道を歩く」