柴燈護摩供のあと 奥の院ご開帳の準備。道場の中にクレーン車が入る。平成の奥の院へのアプローチは地上からクレーンで。
来賓テント席にはモニターを設置。地上からのカメラと副住職のウェブカメラをスイッチング。奥の院の中の様子もこのモニタでリアルタイムに?モニターの脇には「ナニコレ珍百景」のカメラが。
この画像の左上の茂みから奥の院の祠にかけて V字型に棚の足場があるようだ。地元の方によると、かつては岩上の亀の子岩から垂らした綱を頼りに この棚上を奥の院に向かったという。
かつてご開帳は 六十二年を周期として その昔「奥の院大悲窟」を開基した四国讃岐国多度郡司 藤原富正の五人の従者の子孫によって行われていた。寛政6年が17回目、明治12年4月15日がこれまでで最後の18回目のご開帳だった。
ご開帳は、白布を巻いた太い綱を岩頭より吊り下げ、 斎戒沐浴した五人の代表が地上からからよじ登って 奥の院にたどり着き、宝物を取り出して参詣者に拝観結縁させた。まさに決死的な行事であり、参集者一同は手に汗をにぎり、無事安泰を祈り見守った。
ご開帳に使われていた綱は、観音岩の前の漁楽荘さんに保存されていると聞いた。開帳用具が付近の斎藤家に収蔵されており 町の文化財に指定されている、とあるがこのお宅のことなのか。
136年ぶり19回目、平成のご開帳は、明治初期の廃仏稀釈で別当寺の岩戸山慈眼寺が廃寺になって以来、別当というか管理をしている 福聚山東海寺の渡辺副住職が、一週間の断食苦行をへてその任を担った。
そしてついにご開扉。扉の前で九字を切る副住職。地上まで気迫の九字が響く。
難儀の末、長年風雪に耐えた扉が取り外される。
奥の院大悲窟の中にはどんな秘宝が納められているのか。
つづく
参考:現地案内板、塩谷町史