プチぎっくりをやってしまった。なんとかやり過ごして数日が経ったが、今週末のハイクで周りに迷惑かけずにちゃんと歩けるか試す意味も兼ねて那須に向かった。
最初は紅葉の姥が平へ・・と思ったが、那須温泉神社に辿り着く前から渋滞が始まってしまった。我慢できずに那須嶽はやめにした。今の時期は沼ッ原側から入ることをお勧めします、とハクセキさんも云っておられたのに・・。
で、板室本村まで降りてきた。ここは板室古戦場。画像は小笠原畑附近。伝習第一大隊の小笠原新太郎が戦死した場所だ。以前この藪に入った時、旧黒磯市の建てた標柱が朽ちて打ち捨てられていた。
以下「高林村郷土誌」 田代音吉 著 より
常用漢字 現代かな使いに改め、区切りを空白、文末に読点をつけた
板室戦争概略
明治元年(戊申閏)四月二十四日 天気朝より快晴なりき。同日早朝官軍穴澤に来たり。月井源ェ門家ほか十六戸を焼払い それより直に板室に向う。午前十時より戦端を開き 午後三時にわたる激戦なりしと。官軍は黒羽藩士先隊となり 大垣勢続きて二番隊として薩州勢等勇敢振うて攻撃せり。会津軍にありては 総指揮隊長秋月昇之助 中隊長小笠原慶助等 専心防御せり。
初め会津軍板室に着するや その当時山中に材木、板等沢山ありしをもって その木材にて小屋を掛け 農家はもちろん 納屋に到るまで人をもって充て 一千以上の軍隊にて守備したりしが 折から同日は僅か三百人前後の兵士にて防戦せりと言う。
会津兵士の概況
時あたかも四月二十四日 会津兵皆言いらく 先月本日は宇都宮落城の当日なり。しかれば官軍にしては不吉の日なり。攻め来る患いなしと言い 皆備えもなさず 朝より湯を沸し風呂に入り酒肴をととのえ 酒宴を催し居たりと。偶々使者来りて警報すべく すでに官軍は近くに寄せ来ると報ずるや 間もなく南方油井にて砲声轟くや それと言う中小銃の音豆炒る如くに 飛び来る弾は雨霰の如く 木の葉の散るも物凄くて 老幼男女は泣き叫び 泣声天に響き その様何に仮令様もなき惨状なりきと言う。会津軍に於ける小笠原中隊長の命令を下し それぞれ指揮号令を下すも 軍隊規律なく命令行われず 火薬大砲等澤名口方面に行きて 実戦上の効力なし。ただ軍勢のみ宿尻に集合するのみ。小笠原隊長 大砲大砲と呼べども答えるものなく 時に官軍より飛び来る弾丸雨霰の如く 隊長は軍兵の意気地なきを怒りて 少数の人数をもって阿久戸坂上に進めて指揮防御するや 程なく官軍の一隊は東六斗地および東原より 一隊は西方程窪地方より 会津軍を裏切りに取り囲み 三方より大攻撃に 會津軍は小笠原を始め従者もろとも敗滅となりたり。会津軍も中隊長の死を惜み 一従卒その首を持ち逃去れりと言う。これ 我国武士の一魂またここに見るや。
會東照大権現(亜樹さん) > 閏4月22日 を参照のこと
上記文献以外に各方面の文献を網羅してます!すごすぎるー!
山と蟻の間(入潮さんのブログ) > 板室・三斗小屋記その2 板室の戦い
濃厚!!会津中街道を戊辰戦争を軸に探訪してます
阿久戸坂上の藪に地元有志による明治27年建立の戊辰戦死供養塔が建っている。
阿久戸坂下は那珂川。川向こうが油井だ。この静かな森の中も弾丸乱れ飛ぶ激しい戦闘の舞台だったのだ。
今回、地元の方に「歩兵塚」に案内していただいた。板室戦の戦死者17名?を合同埋葬した場所だ。場所は供養塔より東に約200m程の松林の中で、高圧線鉄塔の近く。
塚の面影はないが川原石が積まれている。140年前だからな。偶然元屋敷の畑で話しかけたおじさんが場所を知っていたのだが、ここに埋められたのは16人といっていたか。当時ほかにも埋葬した場所はあったのだろうとのこと。油井の楠を切り倒したとき、製材する際当時の弾丸が出てきた話を教えてくれた。おじさんはそのままキノコ採りに出かけていった・・。
歩兵塚近くから油井の集落を見下ろす。油井も穴沢、阿久戸、板室本村も戦略上火を掛けられてしまった。油井では「塩野崎の人とは縁組するな」と長い間云われて来たという。新政府軍が塩野崎の住民に命令して火をつけさせたのだそうだ。・・泣き声天に響きそのさま何に例えようのない惨状・・。犠牲になった方々へ哀悼の念を表します。