3/14・4/2の続き
館坂を下ってくると右手の林の中に道型らしきものが。今の館坂は切り通しになって最短コースを緩やかに下るものだ。もしかしたら林の中にかつての旧道があるのかもしれない。坂の途中に防犯ブザーがあった。押してみたい衝動を抑え先へ急ぐ。
右手に松の木と石仏を見てさらに行くと、丁字路にぶつかる。ここからが大渡の集落だ。
大渡集落入口の鉤の角に貴船神社が建っており、その敷地内に愛宕の供養塔の道標がある。芭蕉は日光から今市宿に入り、なぜか瀬尾から川室を通って大渡宿に入っている(曽良随行日記)。上の画像左手から我々は大渡宿に入ったわけであるが、芭蕉一行は正面奥側から来たわけだ。日光で五左衛門という男が芭蕉一行に大田原方面への行き方をアドバイスしたのだが、分かり易い日光北街道のコースではなく、川室ルートを指南したのだという。川室には「籠岩」という当時もメジャーだった観光スポットがあるので、芭蕉一行もそれ目当てだったのかもしれない。その割には籠岩で一句詠んだ話は出てこない。・・まあ、せっかくなのでウエスタン村にいったけど、ピンとこなかったのでブログには紹介しなかった、といった感じ?
ちなみに大渡集落から鬼怒川に向かう宿出口の鉤部分にも愛宕の道標がある。
現在のR461は鬼怒川手前で左にカーブしている。新たに造られた大渡橋に導くためだ。その手前で右に逸れドライブインに向かう道が元々の川岸に下りるルートのようだ。右側にバスのロータリーがある。相の道からのバスルートは鬼怒川を渡ることなく、ここ大渡停留所が終着点となる。
曽良随行日記には鬼怒川には仮橋が架かっていたとある。渇水期であったのか。ここ大渡はS30年代まで渡しがあったそうだ。
橋を渡りながら向こう岸の船生船場を眺める。左手には河川沿いに降りる旧道沿いの船場集落が今もある。
右手の船着場だったという辺りには今も水神が建っている。当時の石組みも残ってるそうだが、どの部分かはわからなかった。
川岸の巨石に舫い紐を通す穴が残っていた。
船場はいわゆる渡しであったが、そのちょっと上流に、ある短い時期河岸があったという。西船生河岸である。西船生に河岸の開業が認可されたのが安政4年(1857)。しかし、鬼怒川上流部のため水深がそれほどなく、季節を通して大きな貨物船を浮かべることが困難だった。もし西船生河岸がもっといい条件の河岸だったなら、会津西街道を通って運ばれてきた会津からの荷物は、氏家宿阿久津河岸や栃木宿巴波川栃木河岸、楡木宿思川壬生河岸まで陸送することなく、ここから水運で江戸まで運べたはずだった。文久年間以降は衰退したという。
船生に入り中心部の船生宿の集落へ向かう。船生船場集落から上がってきたところの対面にある馬頭尊の分岐。
船生側の日光北街道の直線ぶりはちょっと退屈で、ふとこの真っ直ぐさはM21年開通の「日光北街道」による整備後の道なのではないかと勘ぐってしまう。それっぽい脇道には迷わず飛び込む、それが旧道探索の楽しみ。路傍の石仏や神社の向きを観察し、林の中の道型を探し、より自然な道筋を探っていく。実際はいろんな脇道があったろうし、時代によってルートが変遷していくこともあったろう。これだけ時が経った今となっては、どのルートが正解なのかと問う自体ナンセンスなことなのかもしれない。路傍に残る石仏や、旧道の面影残る風景を眺めながら、遠い昔に思いを馳せて黙々と歩を進める。
そして船生宿。石造りの商家。モダンな見世蔵?文字の消えかけた看板の風合いが良い。
道沿いの建物の壁に「塩谷郡 船生村」の標識発見。船生村と大宮村と玉生村が合併して塩谷村になったのがS32.3.31。50年以上前のものか。
そして今日の終着点、船生支所に到着。お疲れ様。