今回、なためさん、まるみやさんについて高原越えのルートを辿る機会に恵まれた。なためさんのレポートは「磨り減った山靴 会津西街道5」を参照のこと。
今回は「片足沢橋」脇のスペースに一台、そして日塩道路の藤原出口のR121合流点の駐車場に一台車を置いてスタート。
五十里宿跡のあった男鹿川岸から段丘上へと上がってきたところに、文化10年(1814)五十里村女人講中建立の子育地蔵の祠があった。この碑が建立された頃には、古五十里湖はとうに水抜けしており、五十里宿は谷底の古屋敷から西岸段丘上の居屋敷に移動している。「五十里宿」については別の回で書いているのでそちらをどうぞ。
五十里宿から高原新田宿へ向かう道は、五十里海渡り大橋で旧国道と分岐する「片足沢橋」から150mほど独鋸沢寄りの箇所から上っていく。ちなみに古五十里湖の時代は上の屋敷(三軒屋)から別の上り口があったそうだ。
旧道への取付き部分。
右側の古地図にも山道として描かれている。
登り口を上がっていくとすぐに、右土手上に石仏群がある。
延享・寛政などの庚申塔と文化3年(1805)の道祖神だ。ちょうど見通しが良く、崖下に男鹿川が見える。五十里宿の集落も見渡せたことだろう。ここが五十里村の内外の境界ということなのだろう。
道筋は藪にはなっておらず、まるで普段整備されているかのように歩きやすい。丁度紅葉の時期で、ちょっとしたハイキングコースになりそうだ。
何度か人工的な切り通しを通る。この場所で最近火を焚いた形跡を見つける。
道の真ん中に熊の糞が!!この後も数箇所で糞を見かけた。冬眠前の腹ごしらえ中か。万が一を考え、笛を吹いたり棒で道沿いの木を叩きながら進んだ。
今にも崩れそうな尾根道を通過。
道跡は分かりやすい。先行者のリボンもあり心強い。
炭焼き窯の跡か。この附近で数箇所みつける。
ずっと尾根道だったが、急に広い場所に出る。窪地になっており、幻想的な場所だ。
見上げると熊棚が。
木を上った爪あとも。
次第に笹薮が深くなってきた。小さな沢が流れており、道跡か水路跡かわからない。先行者のリボンもこの状況では憶測でしかない。そろそろ頂上のはずだが。
藪を抜け出ると鶏頂開拓地区の鉄柵に辿り着いた。小さな入り口からお邪魔させてもらう。
位置的にこのゲートが正式な五十里道の入り口なのか?とりあえず鬼怒川カントリークラブゴルフに向かう通りに出る。
北上し、高原新田宿北端の万治3年(1660)建立「法華題目塔」をみる。道標になっており、会津道と塩原道の分岐になっていた場所であることがわかる。会津道が会津西街道を指すのはわかる。さて、この「会津道」は五十里宿方面を指すのだろうか、それとも尾頭峠越えの地蔵曽根ルートを指すのだろうか?
五十里宿方面を指すのなら、今来た山道はここに出てこなければならない。その場合、「塩原道」は地蔵曽根の途中の地蔵峠か大塩沢峠で湯本塩原に向かう道、あるいは赤川道の可能性もある。「会津道」が尾頭峠越えの地蔵曽根ルートを指すなら、ここから赤川道が分岐していた可能性が出てくる。
万治3年(1660)は湯本塩原村が大地震による山津波で壊滅した翌年だ。尾頭峠越えの高原道(地蔵曽根ルート)が会津西街道の代替ルートとして使われるのは当然古五十里湖が出来た天和2年(1683)以降なので、この道標の「会津道」は五十里宿方面を指しているのだ。下のマウスオーバー地図の古地図のほうを見ると、五十里から上ってくる山道はこの道標よりもかなり南で合流している。
前述の新旧画像を無理矢理重ねたもの。こちらがマウスオーバー画像。残像現象で相互比較をどうぞ。こちらは参考までになためさん提供のGPS軌跡と旧地図に描かれた山道を比較したもの。この頃の地図と現代の地図を重ねてもうまく重ならないのはしょうがないか。
新湯道との合流点にある道標
旧地図では、五十里道、尾頭道、新湯道はこの附近で合流するようだが。
新湯道の分岐の南には沼地が広がっている。かつてはスケート場として利用されていた。
問屋跡のある通りに入る手前、西側の土手には多くの塔碑が建てられている。西国巡礼や百八十八番供養など巡礼ものが目立つ。馬頭観音や十九夜塔もある。
先日UPした「高原新田宿」の回に目を通してもらって、そのあと後半をどうぞ。