
那須与一宗隆の愛馬「鵜黒の駒」が、黒羽の大輪駒込沢で誕生したという話は「那須記」に掲載されている伝説であるが、与一の没後、鵜黒の駒は野生の馬として那須山麓の原野に逃げ棲み、那須の半俵で余生を過ごしついに死に絶えたという言い伝えがある。鵜黒の駒の亡骸を里民の秋元主水亮が発見し山の上に弔った。のちに秋元主水亮の子孫がこの山に馬廻塚馬頭観音を建立したと伝えられている。今回はそんな謂れのある半俵の馬廻塚馬頭観音にやってきた。

江戸期から昭和初期にかけて那須山麓は国内有数の子馬を生産する馬産地だった。那須与一とその愛馬、鵜黒の駒の伝説はこの地域の産馬事業を盛り上げる格好の宣伝材料である。

カーナビの案内の通りに行くと、民家の軒先に着いてしまう。民家の裏山にその小さな山、というか丘はある。民家の納屋の脇を抜けるとお堂に向かうしっかりした階段があった。

正面の階段を上がると長屋門のような山門がある。見る限りは現在は利用されていない廃墟のようなたたずまいである。

左側は詰め所のようになっている。お札を販売した場所か、それとも管理者の住居かお祭りの際の寄り合い場所か。

右側は土間。囲むように大人数で座れるベンチスペースになっている。









山門をくぐってさらにもう一段上がった場所に観音堂がある。左右に石柱と手水石。

正面右側 安政7年(1760)建立の馬頭観世音の碑「馬巡墳」とある。
正面左前 明治23年(1890)建立の馬頭観世音で「本立石檀供養塔」とある。




奉納 馬廻塚 馬頭観世音 明治二十年二月二十八日

田畑を耕す農耕馬として、戦時は軍馬として欠くことのできなかった馬は、「半身上(はんしんじょう)」、 家の財産の半分の価値があり、その家の繁栄は馬に大きく依存しているといわれた。


寄付者の芳銘板と奉納絵馬。うっすらと馬の絵がみえる。


本堂背面から

堂宇左奥には玉垣に囲まれた幣束を立てる石柱があり、これが馬廻塚(馬巡墳)であり鵜黒の墓と思われる。

かつては近隣はもとより福島県南部まで知られた聖地で、2月と7月の祭礼には、朝早くから那須山麓の村々をはじめ、遠く福島県からも馬を曳いた飼育者参詣にやってきた。観音堂の細い道は数百頭のつなぎ馬でひしめきあった。こうして参拝者は境内にある馬の塚のまわりを三遍廻り「鵜黒の駒」の力やご利益にあやかろうとした。そんなわけでこの塚は馬廻塚といわれるようになった。

馬頭観世音菩薩
種牡第九フォレストビュー号
下總三里塚御料牧場於
明治卅五年三月産
大正十年五月廿八日病死(かばねへんに召)
同年旧七月廿八日建立
管理者人見巳之吉
当時の那須駒は、日本の在来馬のなかでもがっしりとしていて軍馬としても重用された南部馬を改良していたが、それでも小さくてずんぐりした140cmくらいだった。そんな那須駒に、イギリスの名門馬である彼の血が入ったことで、那須駒は見違えるほど大きく、強く、美しい馬へと進化した。優秀な子供たちは高く評価され、那須駒の名は全国に広がることとなる。生涯現役17年間馬の種付け活動を行い生涯を全うした。
ここ馬廻塚馬頭観音は、鵜黒の駒ゆかりの聖地であり、また神格化された伝説の種馬第九フォレストビュー号の生命力を授けてもらえる場所だったのだ。伝説の名馬が眠る聖地に近代の名馬の碑を建てることは、那須の人々にとって、中世から続く「名馬の産地」としての誇りと歴史の連続性を象徴する行為であったと言える。
天皇家直轄の御料牧場はもともと成田の三里塚にあったが、新東京国際空港建設のため昭和44年に栃木県高根沢に移転した。



馬があがってくるスロープがこちら側にあった。

馬廻塚馬頭観音の例祭は毎年2月28日、7月28日の2回あり、着飾った馬を連れた飼い主達がこの山に上がり馬廻塚を詣で、飼い馬の無病息災を祈った。
かつての馬産地も近年は牛の畜産にかわり、例祭では牛頭観音のお札を配るようになっているという。
那須野の民話「馬廻塚」大野晋一郎 那須町誌ほか