がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

天空の古道 会津中街道山歩き旅2017

昨年に引き続き、会津中街道交流実行委員会主催の「天空の古道 会津中街道山歩き旅」に参加してきました。月初めにかなり激しいギックリ腰に見舞われ参加が危ぶまれましたが、不安を抱えつつもなんとか完歩することが出来た。
今回は会津側集合組と栃木板室温泉側集合組の2グループ。板室側集合組がバスで野際のスタート地点に到着したのが8時40分頃。合計80名ほどの参加者で出発。

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紅葉の落葉を踏みしめながらのトレッキング。

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大峠。このあと雨足は霧雨から小雨に変わる。雨粒として落ちたため、大峠である程度見通しがきいてよい景色を堪能出来たということか。

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大峠から三斗小屋宿跡までの会津中街道跡は非常に歩きやすく部分的に熊笹を下刈りすれば快適なトレッキングルートなのだが、3か所の渡渉、そして麦飯坂手前のでさらに湯川の渡渉があるため、単独、少人数での遡行はかなり難しい。安全ロープだけでザブザブ渡った方も多いはず。倒木での安全な橋掛けには経験と技術が必要だ。

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今回は那須山岳会の強力なサポートの元、万全の体制での実施でした。

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湯川渡渉点。わざわざこのスノコと鉄パイプを運んできて下さったサポートの那須山岳会の皆さんには感謝の言葉しかない。

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最後の最後、すっかりクタクタの状態での麦飯坂登り。大人数の隊列なのでかなりゆっくり、休み休みだったのでなんとか上がることが出来た。沼っ原から駐車場に上がる階段が一番きつかったかもしれない。

トレッキング終了後は板室温泉「幸乃湯」で「夜楽会」が行われた。佐藤淳一先生とスタッフの皆様、企画運営お疲れ様でした。

 

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関谷山下の白湯山碑

 

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関谷の大田原道(関谷道)を関谷小学校の脇から県道30号に出てくると、関谷上町交差点のT字路と多少のクランクになっている。


関谷上町交差点から愛宕山のつづら折に向かう旧道は1884年(M17)三島通庸が拓いた塩原新道。それ以前の塩原温泉へ道は塩原新道の北側を並行して愛宕山に向かっていた。塩原温泉に向かう取り付きは愛宕山を左に巻いた古屋敷から登っていく。この取り付きの坂は塩原電車(塩原軌道)でも利用されている。

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その塩原新道沿いに並ぶ住宅の裏手に大田原道(関谷道)の道跡がある。関谷では別名「原道」と呼ばれた通りだ。当時の道沿いに関谷山下の石仏群が並んでいる。

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石仏群の中にひときわ大きな関谷山下の白湯山碑 安政2年(1855)建立がある。高さが202㎝あり、当時の関谷での白湯山信仰の熱心さが偲ばれる。隣には同等の大きさの湯殿山碑。本家出羽三山信仰とそれを模した地元の霊場の碑が並んでいるのはいろいろと想像させられる。一生に数回しか行けないはるか遠くの出羽三山と、数十キロ圏内、関谷からも姿を望める那須岳霊場白湯山。日常で直接目にして手を合わせられる親しみやすい存在であったのだろう。

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石仏群にある道標 右 やまみち 左 塩原みち

前述のとおり、ここ関谷山下から塩原温泉へ向かう道は、愛宕山を左に巻いた古屋敷から登っていく。

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麓の愛宕神社参道の鳥居の脇に小さな祠が集められている。

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祠の一つに「白湯山大権現 相馬某」と彫刻されたものがあった。はたしてこれはもともとここにあったものか、それとも集落の熱心な信仰者の家に置かれていたものか。

天空の古道~会津中街道を行く~2016

会津中街道交流実行委員会主催の「体験観光トレッキング 天空の古道 会津中街道を行く」に参加してきました。

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コースは大峠林道駐車場から大峠~三斗小屋宿跡~麦飯坂~沼ッ原駐車場の予定でしたが、台風直後により湯川の水量が多く、渡渉が困難だったため深山ダム林道ゲート側に降りて終了という形になりました。

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大峠林道終点駐車場から湯川手前戦土手までのログデータを地形図に落としたもの。kmlデータも「会津中街道交流会ウェブフォーラム」で公開しています。トレッキング終了後は湯野上温泉「洗心亭」で「夜楽会」が行われました。湯野上のお湯も最高でした。佐藤淳一先生とスタッフの皆様、企画運営お疲れ様でした。充実したプログラムで大変感動しました。

宇田島の供養塔道標

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室野井の馬頭観音をみてから宇田島へ。那珂川左岸の酪農家が何軒か連なるエリアだ。道路の感じは圃場整備されてしまっていて旧道の雰囲気はない。

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集落を過ぎたあたりに六手の金剛青面の庚申塔があったが目的の道標が見つからない。もう一度引き返すと集落の一軒目の脇にお堂をみつけた。お堂の周辺にあるのか?とりあえず車を降りて近所のお宅に話を聞きに行く。

軒先で家長と思われるおじいさんが日向ぼっこをしていた。ダメ元で話しかける。1オクターブ高い声で、きわめてほがらかに。
趣味で石仏を調べてましてぇ このへんに江戸時代の道標があると聞きましてはるばる伺った次第なんですがぁ ・・我ながらあやしい訪問者。

お呆けになられているかと思われた老人は、きわめて明瞭に家の裏手に昔の道があり追分に二十三夜塔と左 山道 右 横沢の道しるべがあることを教えてくれた。家の中にいたおばあちゃんも出てきて、どうしたのおじいさん、いや実はこれこれ、まあ!わざわざこんなところまで・・みたいな至福の歓迎ムード。ああ石仏巡り最高!


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裏手を流れる沢を渡るとすぐに二叉路。そのたもとにいくつかの石仏がまとまっている。立派な二十三夜塔、そしてその前に探していた道標があった。

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宇田島の供養塔道標  緯度: 37.04692 経度: 139.97483
角柱 宝暦14年(1764)48×21×15㎝
[正面]
 宝暦十四申天
蓮乗童子
 □月十八日
[右]
右ハよこさわ
[左]
左やまみち

月の上は剥離していて「六月」にもみえるが宝暦は13年までで翌年6/2に改元しているので18日はない。


「右ハよこさわ」方面を進むと室野井の馬頭観世音道標の「左 板室」の道に出て、そこから北東に横沢方面へ向かった。その道を基にしたと思われる道路が現在も使われている(グリーンヒル柳沢分譲地の道)。

 

室野井の馬頭観世音道標 - がりつうしん

 

 

細竹の六字名号塔道標

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那珂川右岸を鳥の目から小結を通って細竹へ。

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細竹の六字名号塔道標  37°02'29.4"N 139°58'35.79"E
角柱 寛政8年(1796)56×24×21㎝ 

[正面]
南無阿彌陀佛

[右]
右 もむら
なか やつぼ 日光

[左]
左 大た王ら
寛政八丙辰年七月


三差路の道標。もともとは道を挟んで向かいにあったものか。現在向かい側は法面を玉石で積んでいるが、路面がこの高さまであったのではないか。


 道標手前の分岐を左に行ってすぐ南西に延びる細道が「なか やつぼ」の名残だ。地図上でたどっていくと戸田から箭坪方面に向かっている。箭坪の庚申塔の脇の道に合流する感じ?「日光」は鹿野崎から波立、原街道を通って日光北街道に出るということか。
「左 大た王ら」は鳥野目方面。本郷町の白湯山供養塔前を通って奥州道中に出る。
「右 もむら」は現在の前の道だと河岸段丘を降りて那珂川沿いをを行くことになる。この先は私有地になるので確認できなかった。やはり段丘上を行き油井を経て百村に向かうのではないか。
そうなると「なか やつぼ」方面の名残りの細道入口の角にあったことになるのかな。

この道標がある付近はかつて赤淵(あかぶち)村といった。段丘の崖のローム層の色から付けられたと思われる。大田原藩領で天保年間の家数は1。明治9年に細竹村に吸収されるまで存在したらしい。

箭坪の庚申供養塔 - がりつうしん

 

那須野ヶ原の道標の分布

室野井の馬頭観世音道標



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室野井の馬頭観世音道標 37.044259, 139.985274 
自然石 文字塔 安永7年(1778)170×45×40㎝

安永七玄[黒戈]星 右 奈す
   閹茂
梵字(カン)馬頭觀世音

  十一月吉祥日 左 板室

   
室野井道二叉路の土手の上に立つ馬頭観音。その他に大小の馬頭観音が祀られている。震災以降この場所に上がった者はいないらしく、藪が茂り石仏は転がったままだった。
年号の玄[黒戈](げんよく)は「壬」、閹茂(えんも)は「戌」の干支異称だが安永7年は戊戌のはずなんだけど。
「右 奈す」方面は横沢を通り南が丘牧場の脇の信号の十字路に出てくる。「左 板室」は二期倶楽部のあたりを通って那須ハイに抜ける道だが、板室本村に向かう道だったのか。

箭坪の庚申供養塔

先日Puuさんに情報を頂いた箭坪の庚申塔を観てきた。

場所は戸田の分譲地の奥の林の中。こんな場所の塔碑を見つけるなんて、どんな情報網をお持ちなのだPuuさん・・。

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 箭坪の庚申塔 
天明6年(1786) 柱状平 57×27×27cm 37.004280, 139.958642

[正面]
(月日)庚申供養塔

[右側]
天明六丙午年閏十月
會津彌五嶌村 へ久喜兵衛

[左側]
矢坪村

右側は建立年と建立者名。会津弥五島村の屋号?「やまひさ」の喜兵衛が建立した庚申塔。左側は現地名あるいは所有者って感じか。会津弥五島会津中街道小出通り沿いの地名で(現在は南会津郡下郷町大字弥五島)荷継の問屋がおかれた地である。


庚申塔道祖神は村に疫病や悪霊が入り込まないように境界や辻に建てられた。この塔碑の位置を見るとちょうど村境に位置することがわかる。





箭坪村は天保年間で家数17件ほどの集落。正保4年(1647)に開通した巻川用水が流れる。箭坪村も会津中街道の道普請人足や荷付馬を提供する役割を果たしていたことだろう。会津中街道は箭坪村内を通っていないが、この庚申塔のある箭坪の境界線の古道が枝道として機能していた可能性はある。百村の問屋をスルーするルート?そんな物流の関係で「弥五島山久の喜兵衛」が関係したのだろうか。
この古道、北は百村・油井・板室本村方面で、南は宇都宮共和大の東を通り塩野崎に伸びている。戊辰役の塩野崎戦から板室戦、そして大田原戦と幕・西両軍が行き来した様子を想像させる。


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塔碑の後ろと左側にこんもりとした隆起がある。庚申塚だろうか?