がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

箭坪の庚申供養塔

先日Puuさんに情報を頂いた箭坪の庚申塔を観てきた。

場所は戸田の分譲地の奥の林の中。こんな場所の塔碑を見つけるなんて、どんな情報網をお持ちなのだPuuさん・・。

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 箭坪の庚申塔 
天明6年(1786) 柱状平 57×27×27cm 37.004280, 139.958642

[正面]
(月日)庚申供養塔

[右側]
天明六丙午年閏十月
會津彌五嶌村 へ久喜兵衛

[左側]
矢坪村

右側は建立年と建立者名。会津弥五島村の屋号?「やまひさ」の喜兵衛が建立した庚申塔。左側は現地名あるいは所有者って感じか。会津弥五島会津中街道小出通り沿いの地名で(現在は南会津郡下郷町大字弥五島)荷継の問屋がおかれた地である。


庚申塔道祖神は村に疫病や悪霊が入り込まないように境界や辻に建てられた。この塔碑の位置を見るとちょうど村境に位置することがわかる。





箭坪村は天保年間で家数17件ほどの集落。正保4年(1647)に開通した巻川用水が流れる。箭坪村も会津中街道の道普請人足や荷付馬を提供する役割を果たしていたことだろう。会津中街道は箭坪村内を通っていないが、この庚申塔のある箭坪の境界線の古道が枝道として機能していた可能性はある。百村の問屋をスルーするルート?そんな物流の関係で「弥五島山久の喜兵衛」が関係したのだろうか。
この古道、北は百村・油井・板室本村方面で、南は宇都宮共和大の東を通り塩野崎に伸びている。戊辰役の塩野崎戦から板室戦、そして大田原戦と幕・西両軍が行き来した様子を想像させる。


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塔碑の後ろと左側にこんもりとした隆起がある。庚申塚だろうか?