天空の古道トレッキングの翌朝に大内宿に寄る。宿の端の塔碑群の白湯山碑を撮影に来た。あいにくの小雨模様。
下野街道大内宿の白湯山碑
天保15年(1844) 81×54×32㎝ 37.335095, 139.862285
[表面]
白湯山
[裏面]
清左エ門
喜左エ門
槽治良
村中
天保十五甲辰年
八月吉日
世話人
谷右エ門
興兵門
きょうは8月7日ヤナの日、・・ということで黒羽観光やなに行ってきた。今年の夏は台風が少ない。ゲリラ豪雨は何度かあったが台風は上陸していない。観光やなにとって台風は天敵のようなもの。シーズン途中で台風が来たりしたら、増水でやなが壊され改修の見込みが立たなくなる場合だってあるのだ。
いつもより河川の水量が少ない。訪問したのが午後2時台だったせいもあるけど釣り客もまばら。
こちらの正式名称は黒羽観光簗漁業組合。7/1から10/31までの営業。
スノコ幅は9m 奥行19m。上流域ではかなり大きいほうだ。
水量がないのであまり迫力がないですな。
せっかくなので座敷で鮎の塩焼きを食べていくことに。
今日の「のど自慢」でみた「女は抱かれて鮎になる」って唄を思い出した。「若鮎のような」って慣用句、ワイルドで若々しい女性の性的な表現で使われるけど確かになまめかしいな。考えすぎだろ。
代表者のお名前が前田と須佐木の方だった。当然旭興推しで。
お座敷に時折吹き抜ける川風が心地よい。
型はそれほどでもないけど、この成型はさすが!この躍動感!!清らかな香りがたまらない。内蔵のにがみもいい。・・ビール飲みたい・・。
たしかネットで見た情報では、式典の開始は9時半のはずだった。9時15分に温泉街に到着、八夕橋の信号機で止まったら、もうそこまでお練りが進んでるじゃないか!急いで湯っぽの里の駐車場に突っ込んで行列を追う。
今年は5年に一度の稚児行列のある年。親御さんに連れられて華やかな衣装のお稚児ちゃんがちょこちょこと。かわいい!!
今回は都心からの参拝団に加えて小中学生の姿も。塩原の子どもたちかな、と思ったら川崎大師平間寺日曜教苑の生徒さんたちとのこと。言われてみればあか抜けてる都会の子っぽかった。
湯っぽの里からバスを連ね須巻富士山園地へ。道路から階段を一歩一歩ふみしめ、柴燈護摩のある山腹の道場を目指す。結構年配のかたもいるし、お稚児ちゃんも元気に上がっていく。参拝団の方は自分の名前の入ったのぼり旗を見つけて記念写真を撮っていた。
中腹の広場の道場に近づく前に、塗香(ずこう)をいただき身体に塗って心身を清める。テントでは祈願用の護摩木を用意。赤い法衣をまとった平間寺ご住職との記念写真コーナーがあったりして和やかなムード。しばらくして柴燈大護摩供がスタート。ドンドンと合図の花火がうち上がる。
まずは山伏問答。旅の行者が道場での柴燈大護摩に参加するため修験道についての問答に答える。晴れて仲間に迎えられ道場に入場する
「法斧(おの)」深山幽谷から護摩所用の桧葉や薪を伐採する様子を演じる。
「法弓(ほうきゅう)」注連縄で結界の張られた道場にさらに東西南北、中央、鬼門に五色の矢を放ち守護結界を強化する。
「宝剣(ほうけん)」不動明王の利剣である智慧の剣で邪気を断ち切る。
「床堅(とこがた)」修験大先達の座る座を打ち堅め盤石に整える。
「閼伽(あか)・柴燈(さいとう)」炉檀に神聖なる浄水を注ぎ、不動明王の浄火を松明に移し点火に備える。
「願文(がんもん)」参詣者の諸願成就を祈念し神仏に奉読する。
点火 大団扇であおがれ、神聖な煙がもうもうと式場にたちこめる。
僧侶衆は山頂の不動明王の前に移動。
炎は落ち着きこの後の火渡りの準備に入る。
このあとお山を下りて帰るための配慮なのか、他所の火渡りよりはソフトな感じ。
修験者のあと一般の方も次々と渡っていく。
40周年記念の特別お守りとお餅をいただいた。
沼野田和の金乗院 那須波切不動尊の火まつりに来た。早朝はザーザー降りであったが、開式の10時半にはすっかり雨は止んでいた。こんな天気だからそれほど人出もないだろうとぎりぎりで現地に到着したら第三駐車場まで満杯。ぐるっと稲荷山をまわって東那須野公園の駐車場に誘導された。ここから歩きか・・。
熊川の土手を1キロほど歩いて境内に到着。ちょうど本堂から道場に向かうところ。
多少の霧雨にもかかわらず多くのギャラリーがつめかけている。400人ぐらいか。アマチュアカメラマンも多数、開山祭でみかける報道の方もちらほら。
こちらが金乗院の斉燈護摩。四方にも小さい護摩壇がついている。
さて、金乗院の斉燈護摩は荒行の「湯加持行」や「たいまつ行」があることで知られている。しかし、プログラムが盛りだくさんなせいか、見どころである旅の行者の「山伏問答」「床堅めの儀」などが省略されている。ネット上に2011年の映像が上がっているが、以前は山伏問答もやったみたいだ。山笠で招く高野山修験道の所作だ。
斉燈護摩の所作は斧や弓、刀などで道場の結界を作るところから始まる。法斧の儀。うしろの子どもたちは、職業体験研修で参加している中学校の生徒たち。
宝弓の儀
宝剣の儀
祈願文披露
点火作法
極彩色の梵天
不動明王の炎が燃え上がる。
長浜住職も 次回はあのお湯かぶりの席で。
釜入りの行
不動明王の化身となる
すごい気迫に観衆から歓声があがる。
燃えるたいまつを行衣の袖に通すことで加護を祈る。
火生三昧 このあと次々と行者が渡り、参拝者たちも続く。無病息災、家内安全、天災鎮撫、恒久平和が保たれますように。
毎年父と桜めぐりに行っていたのだが、ここ数年ご無沙汰だった。たまたま休みで父に声をかけたら乗ってきたので出掛けることにした。烏ヶ森や乃木神社のソメイヨシノも早々と盛りを迎え、山際ならまだ見頃かもと両郷方面へ。まだ早いかなと思ったが磯上の山桜を観に来た。
樹齢300年以上といわれる磯上の山桜。遠目からだとやっとピンクになってきた感じ。南側の枝はだいぶ開いてきている、そのへんは3分咲きといったところか。毎年15日以降に来てるので今年はかなり早い。
磯上の山桜の最新情報はこちら。
山桜の咲くころ、タラノメ採りのシーズンが開けるわけだがまったくその気配もなし。
様子を見に来る他の車がちらほらと。数日晴れが続けばいいかんじになりますぞ。例年併設のテントでおでんや鮎、大判焼きなどが売られてるのでぜひ訪れてほしい。
昭和30年代、黒羽地区にあった映画館は、黒羽向町の東毛座と、黒羽田町の黒羽東宝の2館だ。当初は東毛座が邦画、黒羽東宝が洋、邦画系を上映する映画館だった。すでにその面影はないというが現地を確認しに行ってきた。
東毛座(とうもうざ)
川西町321 / 黒羽町黒羽向町313 現住所:大田原市黒羽向町(上町)311-5
木造二階建 500-800席
1912年10月創業 資料では1952-1964年までの営業を確認 閉館年は不明
松井天山 黒羽町及川西町真景図 部分 大正13年(1924) 東毛座
映画年鑑による創業年は劇場としてのものだろう。黒羽町及川西町真景図(大正13年の商業地図)に東毛座が描かれている。黒磯道、常念寺脇のかつて川西町役場から余瀬に向かう通り沿い。当時の建物は存在しない。跡地は現在、以前「すずらん美容院」だったお宅と「お食事処すみれ」の駐車場になっている。跡地の向かいに当時から営業している「すみれ食堂(現お食事処すみれ)」がある。
訪問時、すみれのご主人のご兄弟の方がおられ、20代の頃東毛座のお手伝いをされていたということで、詳しいお話をいろいろと伺えた。普段は埼玉にお住いで、たまたま実家に戻っておられたとのこと。映写技師の資格もお持ちで、他劇場とのフィルムの運搬や映画の宣伝用の看板描きもされていたとのこと。
昭和30年代、フィルムはセルロイドベースで燃えやすく、カーボン式映写機(炭素棒に電流を流し、スパークさせた光を映写用の光源にするもの)で、消防法で定められた国家資格が必要だった。
下野新聞1966年12月の新聞広告 県下上映館の欄に「黒羽東毛座」 日活配給
下野新聞1966年12月の新聞広告 近日大公開の欄に「黒羽東毛座」 東宝系
昭和30年代前半の最盛期はこの地方の映画館にも日活や東宝、松竹の営業マンがいつも出入りしていた。東毛座はあらゆる配給会社の作品を上映していた。
封切館と二番館、三番館
都市部の公開日に上映される「封切館」の上映が終了すると、主要地方都市の映画館、そして田舎の集落の小さな映画館へとフィルムが回される。封切館の次に回される映画館が「二番館」、その次に回される映画館が「三番館」である。このフィルムの移動の流れを「番線」という。封切館ではプログラムは1本ずつ上映されるが、二番館、三番館では2本立て、3本立てで上映された。封切館での人気で上映期間は変わるので、二番館、三番館の公開日は「近日」とあいまいにしている。
掛け持ち
東毛座と提携している劇場にフィルムをオートバイや自転車や車で運び、同じプログラムを複数館で上映した。1本のフィルムを二つの劇場で使うことを「掛け持ち」という。フィルムを次の劇場に運ぶことを「フィルム回し」、またフィルムを運ぶ役割の人を「掛け持ちさん」と呼ぶそうだ。東毛座の場合、同じ経営の佐良土の湯津上東映館、お話で出てきたのは伊王野倶楽部、閉館していた馬頭クラブや芦野の芝居小屋を借りての掛け持ちを行なっていたようだ。そのほかに須佐木の山形屋、大山田上郷の河原坊劇場などでも上映を行なった。通常10分から15分のフィルムロールを2、3本ずつ移動する。余裕を持った時間で上映をずらせば、同じプログラムを複数の劇場でより多くの観客に見せることが出来た。そのほか、村祭りなどでの興行を行った思い出も語っていただいた。
現在、封切館・二番館・三番館という用語は、ロードショー館と名画座みたいな使い方になっていると思うが、もともとは都市部から地方へのフィルムの流通のしくみでも使われていたようだ。
昭和30年前半はテレビも即席麺もない時代である。娯楽の殿堂 東毛座は大盛況で、その向かいのすみれ食堂はてんてこまいだった。東毛座の経営者のお子さんも小学生だったが切符切りのお手伝いをしていたそうだ。その頃はラーメンが25円か30円の時代、お向かいのすみれ食堂も映画のお客さんで昼時は忙しかった。このへんの食堂は花月の前の鎌倉屋とすみれくらいだった。須佐木や須賀川のほうからも唐松峠を越えて皆自転車で観に来たんだから。駅前通りの「つちや食堂」に226事件の年の書いてあるタライがありましたけどあそこは?と聞いたら、いやあそこはうちほど古くないよ、つちやのマスターも若い頃いっしょに掛け持ちさんをやっていたんだ、とのことだった。
東毛座は当時常設映画館であったが、歌手や芝居の公演も行われた。曰く、東毛座に来なかったのは美空ひばりと裕次郎くらいじゃないか、有名どころはほとんど来た、とのことだった。お話で出てきたのは三波春夫、春日八郎、三橋美智也、島倉千代子などなど。テレビが普及する以前、歌手の活動のメインは地方公演回りだった。今でこそ芸能人とヤクザの関係はダメなことになっているが、当時は芸能人を呼ぶと必ずヤクザが用心棒としてついてきた。ボディガードやセキュリティーの業務を行うのはこわもての人たちの仕事だった。興行と暴力団の関係は仕方のないことだった。あの頃名の知れた歌手を呼ぶと1日の興行で60~70万、美空ひばりは300万だった。宿泊の世話は花月旅館に泊まらせた。町一番の宿泊施設だったし、きっとサインや記念写真がたくさんあるんじゃないだろうか。王将で有名になる前の村田英雄を東毛座に呼んだ時「掛け持ち」で大山田下郷の小屋(河原坊劇場)に連れて行ったとのこと。
黒羽東宝(くろばねとうほう)
黒羽町田町330 / 335 / 313 現住所:大田原市黒羽田町330-2
木造二階建-一階建ての記述に 150-600席
開業1948年2月 1963年までの営業は確認 閉館年は不明
「映画年鑑」の資料からみると、映画館としての黒羽東宝のスタートは、大田原東宝を経営していた加藤栄次氏が黒羽に拠点を出したものであったと思われる。当然、大田原東宝と黒羽東宝間での掛け持ちの営業だったのではないか。その後1956,7年から興行主、支配人が東毛座の鈴木羊四郎氏になっている。大田原東宝のほうも1957年から経営が日本映芸~五十嵐富衛氏に代わっている。
以降鈴木氏は東毛座、黒羽東宝、湯津上東映館を経営していたことになる。また1964年から黒磯の金剛館の経営にも参画している。
松井天山 黒羽町及川西町真景図 部分 大正13年 福井座と中島屋
黒羽東宝はR461から中島屋(パン製造、現在は民家)と黒羽信用金庫(現在は那須信用組合黒羽支店)の間を入った路地にあった。当時、黒羽信用金庫の隣には黒羽町役場があった。那珂川右岸の黒羽向町はかつて河岸で栄え、大田原に繋がる鉄道駅が出来て商業が盛んだったが、左岸の黒羽田町はもともと城下町で八溝山地に近く、林業の盛んだった黒羽の経済を支える地域であった。この付近は駅前通りと並ぶ黒羽の中心地で、そんな繁華街の裏路地に劇場があったのもうなずける。当時の建物は存在しない。現在は高和道路工業㈱の事務所になっている。
その後、娯楽の主役はテレビとなり、爆発的普及により地方の映画館は次々と閉館する。東毛座、黒羽東宝は閉館を余儀なくされるが、近隣の大田原市、西那須野町の映画館は1990年代まで存在した。当時の映画館に関する思い出話や資料などありましたら是非教えてください。
追記
「黒羽ふるさと雑話」に黒羽の芝居小屋に関連する記述をみつけた。
常舞台(じょうぶたい)
歌舞伎の常舞台は、明治15、6年(1882、3)ころ田町の那珂川べりに設けられ、十年後 福井座(のち東宝となる)ができ、主に芝居を、のち活動写真も上映した。その後向町に東毛座ができ、廻り舞台もつくられ、幕合いには「あんか」や「せんべい」も売られたりした。また河原の関谷権之亟・初太郎氏らは地芝居をおこなった。今も当時の幕や舞台道具などが大切に保存されている。
黒羽田町の劇場「福井座」は明治25,6年(1892,3)頃には営業を開始。「のち東宝となる」とあるので、その建物を利用して常設映画館としたのが黒羽東宝なのだろう。河原横道の地芝居についてはまた調べてみよう。