五十里湖に来た。最初は塩原側から向かおうと思ったのだが、タイヤもノーマルだし、尾頭トンネルの三依側の日陰がどんな状態か不安だったので今市側から向かった(塩原も降雪があったそうだ)。放射冷却で夜半から朝方に掛けて雪が降ったようで、山肌や路面に白いものが残っていた。海尻橋で東岸の旧道に入る。
海尻は古五十里湖時代、男鹿川が堰き止められた場所で、現在は海尻橋が架けられている。
海尻橋より上流、この川幅が広がる部分を江戸時代から「海跡」と呼んでいた。
西岸が戸板山(葛老山)だ。天和3年(1683)、日光大地震により葛老山の斜面が崩落し、関門と呼ばれた戸板山と布坂山がせり出した狭い谷を土砂が埋めて男鹿川を堰き止め、周囲約30km、湖水長約6kmの大湖水が出来た(古五十里湖)。五十里村、西川村が湖底に沈み、五十里宿集落の31軒のうち21軒は段丘上の上の屋敷に移った。残りの10軒は船頭に転職し、独鈷沢の石木戸に移り住んだ。
こんな伝説がある。会津藩は湖の決壊による洪水を恐れ、五十里関所の支配頭だった高木六左衛門に掘割りの工事を命じ、湖水の安全な水抜きを図った。しかし工事は厚い岩盤に阻まれ難行し成功することはなかった。高木六左衛門は責任を取って自害した。
高木六左衛門の名は家世実記では確認できないので実在の人物ではないようだ。
海尻橋を渡り、すぐ左の丘陵に上がっていく道がある。これが布坂山で、別名「腹切山」と呼ばれている。かつては五十里湖を見渡せる展望台の駐車場であったが、訪れてみるとプレハブの大きな建物が何棟も建っていた。五十里ダムの駐車場で大きな発破の音を聞いたが、その工事のものか?この場所は会津藩の五十里関所があった場所で、この辺りが「掘割」という地名になっている。当時の工事の掘割跡が布坂山側の斜面に窪みとして残っている。
高木六左衛門は工事の失敗の責任を取り、堰を見下ろせるこの高台で切腹、自害したという。当時村民の建立した「六左の墓」の祠が実在している。伝説とはいえここまでリアリティがあると別のだれかが責任をとって自害したのかもしれない。
享保8年(1723)8月、連日の雨で古五十里湖は水位を増し40年続いた湖は決壊した。(五十里洪水)。川治村の記録に「村形全ク一変セリ」と書かれるほど下流域に甚大な被害を起こした湖水抜であったが、村民にとっては念願の喜びの日。村民はこの日を「海抜け十日」といって明治初期まで毎年祝賀行事を行っていたという。
参考:現地案内板、「栃木の街道」ほか