江戸時代を通して、会津西街道・小佐越新道沿いの藤原地方は、3つの異なる系統の領主によって統治されていた。鬼怒川の左岸(高原新田・藤原村・大原村・高徳村)は宇都宮藩領、右岸(西川村、川治村・滝村・小佐越村・柄倉村)は日光神領、海尻以北の三依郷六が村(横川村・上三依村・芹沢村・独鈷沢村・五十里村)は幕府の領地である天領になっていた。この3つの異なる領地の三方境の境界石が「御判石(ごはんいし)」だ。江戸時代中期の宝暦年間に、高原新田と五十里村の間で山境の争いがあり、幕府評定所の役人が来て境界を決め、今後こういった争いがないように三か村(高原新田・西川村・五十里村)の境にあたる五十里川(=男鹿川)の中央に大きな自然石を建てたという。
藤原町史通史編より
御「判」は、わかつ・わかる・さだむる・さばく の意味で、境界を分ける、定める石という意味だ。
古絵葉書 (川治温泉)史蹟を伝える御判石 星野屋印刷発行
古絵葉書(鬼怒川温泉名勝)川治附近御判石 星野屋印刷発行
高さ四十尺(13m余)、ちょうど四角な深鉢を伏せたような形で、頭上の平面には「東西南北」に方位が刻み付けてあった。明治・大正と御判石は揺るぐことなく立っていて藤原地域の名所として親しまれてきた。ところが、昭和15年頃の台風による洪水で、その水勢に逆らいきれず横倒しになってしまった。その後五十里ダム建設による五十里湖の出現で湖底に沈んでしまい現在に至る。
昭和15年頃の台風の洪水で横倒しになってずっとそのまま、とのことだが、享保8年8月の古五十里湖が決壊した際の洪水のすさまじさは計り知れないものだったろうし、その時も瓦礫の中から御判石を見つけ出し、皆で元の位置に建て直したのではないか。上の古絵葉書の発行は大正から昭和初期ぐらい、絵葉書で紹介されるくらい当時も有名だったのだ。五十里ダムの最初の工事は昭和4年、その後昭和17年に10か年継続事業として2回目の工事が予定されていたが、ようやく戦後昭和31年(1956)になって完成する。
長らく五十里湖の底に沈んでいた御判石だったが、2017年の秋口からその姿を実際に観ることが出来る機会が訪れた。五十里ダムの堤体に新たな放水路を作る工事を行うため、ダムの水位を下げる措置が取られているというのだ。
参考:「藤原町史通史編」「鬼怒川・川治 民話と旧跡」