がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

再び尾頭峠

[2009.12.01修正]

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尾頭峠に国道400号線 尾頭トンネルが開通して既に20年以上経つ。今ではトンネルを抜けて数分で通過する尾頭峠であるが、平成になるまで急峻な地形で道幅も狭く交通の難所として知られていた。

尾頭峠越えの道は、鎌倉時代の安貞元年(1227)に開かれたと伝えられる。当時塩原の豪族、塩原八郎家忠は、三依から横川までを領地としていた。いわゆる三依古道、元尾頭沢沿いを通っていた元尾頭道がそれである。

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江戸時代に入り、天和3年(1683)の日光大地震により戸板山が崩れて男鹿川が塞き止められ、会津西街道が遮断され、脇道であった尾頭峠越えの高原街道、塩原通りが改修され、バイパスとして利用された。

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塩原ビジターセンター資料に加筆したもの

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小滝の尾頭新道入口

明治17年(1884)栃木県令三島通庸は、三島から関谷、塩原を経て山王峠を通る三島道路、塩原街道の開削を行った。この時は、尾頭峠ではなく、善知鳥沢沿いを通り横川に出る全く新規のルートであった。しかし各地で土砂崩れ等が起こり、また善知鳥沢、男鹿川に架けた橋が朽ちてくると復旧されないまま放置され、廃道となった。明治26年(1893)、塩原の有志が県に働きかけ尾頭峠を通る江戸期の尾頭道とは別のルート(尾頭新道)を開削し再び開通する。

明治37年(1906)磐越西線が開通すると、鉄道による荷物輸送がメインとなり、尾頭峠の荷駄による輸送は途絶え、それ以降は生活道として使用されるに留まった。昭和28年(1953)国道121号線の整備により、尾頭峠の道は完全に衰退してしまった。

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昭和46年発行のJTB旅行ガイドより

昭和40年代の自動車普及により、車両の通れる路肩幅を全面確保できない道は、現実的に一般道と扱われなくなった。この頃塩原から三依方面に向かうには、昭和13年(1938)に開通している日塩道路、あるいは元湯から大塩沢林道で五十里に出るしかなかった。

大塩沢林道は「奥塩原の森林資源開発と、塩原・川治両温泉を最短距離で結ぶ観光道路」をキャッチフレーズに昭和40年(1965)の秋に完成した。元湯林道が4.2km、大塩沢林道が7.9kmで、この林道を通ると日塩道路のルートの半分の距離に短縮できた。しかし地盤が弱く、大雨のたびに土砂崩れが続き改修工事に追われた。昭和42年の台風で塩原町・藤原町の境付近のヘアピンカーブを中心に数箇所が崩れ不通となった。特にこのカーブ付近は石英粗面岩のため非常に脆く、2.2kmを付け替える計画も浮上したが、採算がとれず棚上げされていた。尾頭峠のトンネル化実現により大塩沢林道の意義は失われ、現在まで改修工事は再開されていない。

昨年塩原ビジターセンター主催の「紅葉ウォーク1 尾頭峠」に参加して、尾頭峠から先の「高原道」を新大塩沢峠まで歩く機会に恵まれた。これを機に尾頭峠の全貌を探りたいという思いは募り、資料などを探してみるが、行動に移すことが出来ないでいた。新大塩沢峠の先、地蔵曽根を通って高原新田まで向かう「高原道」は距離的に躊躇してしまうが、「今尾頭道」「尾頭新道」は小滝から峠まで各6キロくらいか。今尾頭道入口の旧峠さえ見つかれば、往復で探索できそうだ。中世の「元尾頭道」については今だ史料が乏しい。

手始めに上三依側の尾頭峠までの区間の尾頭新道の探索を行ったので次回UPする。