がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

尾頭峠上三依側 文献より

熊野堂上の尾根突端の石仏群の存在から、江戸期の尾頭道のルートとして、尾頭沢の左岸を通る道があったのではないか、という推論で押し進めてきた俺であるが、あの岩場続きの難所を目の当たりにすれば、次第に主張も勢いがなくなるというもの。

明治尾頭新道ルートの基礎が江戸期に開削されたものと考えるのはかなり無理がある。素直に沢底を進むルートだとしたら尾根突端の石仏群の存在は何なのか、ということです。

Yoshiさんも追調査をしてくれて 上三依・江戸期尾頭道の探索  、尾根突端からの正しい道跡を見つけてくれています。R400下を平行して進む道跡は気になって辿ったのですが、途切れていたのでそれ以降は調査せずに判断材料から切り捨ててしまっていました。道標の左右に関しても、あくまで左岸上から降りてくることしか想定していませんでした。

そもそも江戸期のルートが沢沿いの道であるということを否定していた根拠は何だったんだっけ?尾頭トンネル左手から上がる東電巡視路、二十七曲がりは江戸期尾頭通りではない、という基礎情報からだ。出処はビジターセンターの地図?紅葉ウォーク尾頭峠に参加したときに質問したら、二十七曲がり部分は江戸期のルートでなく、それ以前の古道の名残り、と教えてもらったんじゃなかったっけ?どちらにせよ俺の思いこみから始まったことなんだ。

谷底から熊野堂に進まず、分岐して尾根上へ。そこには何があったのか書いてある書物をみつけましたのでその部分を転載します。塩原の郷土史家、君島榮七さんの「塩原の歴史(上)」10P11Lより。

会津脇街道筋の七弦滝の上に大聖不動明王の仏堂を、一貫四百三十文(約三万五千円)寄進、唐柱ならびに鰐口等を奉納して元禄八年(一六九五)再興した。書籍[A|31|201P]棟札録を見ると、「元禄八乙亥年仲春吉祥日、下野国塩野荘塩原郷古町村大聖不動明王霊社信心旦那再興。宮主君嶋安兵衛、世話役の渡辺長四郎、君嶋利兵衛、渡辺半三郎。御寄進した人は、門前渡辺長四郎外十三人、鰐口を門前渡辺半三郎、唐柱を孫四郎が奉納。大工は米沢勘兵衛」とある。庄屋格の渡辺長四郎が願主となり、門前村の古町、門前、畑下戸、塩釜、塩の湯、福渡戸の宿場の主人と中村(中塩原)の村人が浄財を寄進した。

とあります。元禄8年といえば会津中街道開通の年です 。

さらに、熊野堂から小滝宿場に通じる今尾頭道のルートを説明する部分もありました。 14P1Lより。

道筋は、上三依熊野神社追分を沢伝いに遡り、今の尾頭トンネルの入口付近から九十九折の坂道を登り、ゆるやかな坂道を登り尾頭峠を通過、中道沢沿いに四十七曲がりを下り、なだらかな今尾頭川沿いの街道を下り大戸原(うどがはら)の自然石の道標がある、分岐点を過ぎ小滝宿場までの三里(十二キロ)の道程である。

探索の2の帰りに図書館でコピーしてきたのですが、ずっと放置してました。この本は自主制作本で数冊しか作られていないようなのですが、「塩原町誌」が残念な内容なだけに貴重な存在です。