がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

立春に流す

家族で車で買い物に行った帰り際、子供たちが寝に入ってしまったのでちょっと車で流すことにした。上石上から大貫を通り関谷に出る道を通った。この道は今では「大貫街道」などと呼ばれているが、三島通庸が三島から塩原に引いた三方道路の塩原新道(現R400)ができる明治17年(1884)までは、塩原に通じる重要な元祖「塩原街道」だった。その名残がR4の入り口の道標に残っている。この街道沿いは実に塔碑が多く、かつての集落の繁栄ぶり、そして旅人や荷物の往来はかなりのものだったと推測される。会津西街道塩原通りと会津中街道の道だからして、そりゃもう国道並みの交通量だろう。今でもR400は、R49を通っての日本海方面やR121での山形方面のトラッカーが抜道として通っている。 大田原でもフッカケがちらちらしていたので、山沿いは降ってるかな?と思って関谷まで上がってきたが、ちらちらさえもしていなかった。このままR400で帰っても千本松あたりでスキー帰りの渋滞に逢うのではと思い、県道30号で接骨木街道まで行って帰ろうかと思った。 ふと今月の広報誌「なすしおばら」に載っていた「蟇沼餅つき歌」を思い出して、逆方向の蟇沼集落に行ってみることにした。「カラスメガ・キカラ・ボゴジテ・ヨマイゴト・ニドト・ノンボルマイ・アノカレキ・コエダニ」という歌詞なのだが、いったいどんな節回しなのか実に興味深い。 蟇沼集落は蛇尾川の段丘の上にあり、川に下りるには細い急坂を下っていかなければならなかったが、近年別の場所から降りる広い道が作られたようだ。というか、僕もどう降りるかわからなくて、通りかかった工事車両のおんちゃんに聞いたのだが。無事蟇沼大橋を渡り、大蛇尾・小蛇尾を超えて湯宮に入る。Y字路に山の神の碑があった。ここから坂を上がって鴨内~茅ノ沢~百村に出て、雪原の笹野曽里の一里塚を観てこようと思ったら、砂利道の振動で子供らが起きてしまった。県道30号に戻り接骨木街道沿いの横林の一里塚の工事の進行状況をみて帰ってきた。
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