がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

尻高田から須賀川で2基

黒羽の年配の人が「南方 川上 尻高田」と語呂の良い言い回しでいうのを何度か聞いた。要は八溝の麓の辺鄙な処ということなんだろうか。南方、川上は鰻坂の件で訪問済みだ。今回初めて、尻高田の集落を訪れた。シッタカダなんて響きからして興味深い。棚田の風景で知られる場所だ。清水内南方林道の入口の石仏群に道標がある。

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北野上尻高田入の馬頭観音
76×52×27cm 文化元年(1804) 36.879852,140.177387

36.87992, 140.17749
36.87992, 140.17749
36.87992, 140.17749

右 川上
  やみぞ
文化元甲子年
馬頭観世音 尻高田村中
左 きさみ
い越(を)ふの

武田耕雲斎率いる水戸天狗党は唐松峠を越えて、尻高田から木佐美に抜けても良かったはずでは。多分唐松峠から西へ行くルートは黒羽藩が一番警戒していた道だったろうし、北上してマイナーな鰻坂ルートを選択したというところか。川上側の出口は西の入の川沿いの道だ。

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須佐木轟の馬頭観世音
112×55×44cm 天保2年(1831) 36.838141,140.192772

[右]
          右 大山田
[正面]
天保二辛卯年 西 くろはね
馬頭観世音
二月大吉祥日 左 やみそ
[左]
世話人 金子定左衛門
     大森源助
     屋代蔵左衛門

このあと、須賀川須賀川坂の上の馬頭観音、須賀川根岸の大乗妙典、須賀川小元の道標を探しに行くも見つけることができず。須賀川地区は近年、道路の圃場、拡幅が頻繁に行われている。早いうちに探し出さなければ。