がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

鹿野崎の出釜跡

PUUさんに教えて頂いた鹿野崎の出釜跡に行ってきた。

波立道は高林街道と交差して塩野崎で弥六道と合流する。戊辰役、板室の戦いの前哨戦である塩野崎の戦いのあった薬王寺、峰薬師の脇を通って鹿野崎に至る。この道は板戸河岸の坂本家の古文書に出てくる新道海道 坂下たばこ太賃の荷街道だ。

何度か通ったことがあったが、この集落付近に出釜があると聞いて興味を覚えた。那須野ヶ原扇状地形において、蛇尾川・熊川の再湧出地点や湧水群は標高220~250mにみられる。これは地下水面と地表面の接近する(扇状地の扇端部となる)のがその標高だからだ。鹿野崎付近は標高335mであり、湧水があるとすればかなり特殊なケースといえる。

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霧雨が降る生憎の天気、カメラを持ってきたつもりが、メモリカードを入れてくるのを忘れた。仕方なく携帯電話のカメラで撮影する。
鹿野崎の集落から山中に入っていくと、山道の脇に深さ1.5m程の堀が作られていることに気付く。これが、PUUさんの云っていた古い水路跡か。

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道の左手斜面に神社が置かれている。出釜の場所を聞いたおじいさんの話だと湯泉神社とのこと。鳥居に刻まれた年号は享保4年(1719)。社殿脇には灯籠と明治29年の山神社熊能山の石碑があった。

温泉神社・湯泉神社=水神説は俺の中ではかなり濃厚。この前行った矢板の湯坂は、年間通して水温の一定した湧水、つまり温泉(冬でもあたたかい泉)が湧いていた、というのが坂の名前の由来だった。近くには湯泉神社と温泉神社があった。まあそれ以前に那須氏の領地内で、領主のお気にの神社だから勧請されまくったのだけど。

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さらに山道を進むと堀跡が左に90度曲がってすすんでいる。堀を跨いで道はずっと続いており、分岐点の処に江戸期の庚申塔が現存している。

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林を抜けるとそこは那須アウトレットモール前のバス停だった。アウトレットモールがあるからここにバス停が出来たわけではなく、鹿野崎集落とを結ぶ生活道の出口がここにあるから、バス停が作られたのだ。数年前は「鹿野崎」バス停だったことだろう。

それにしてもこのYahoo!地図の詳細さたるや。山林の中に残るかつての生活道がちゃんと地図に載っているよ!Yahoo!地図はALPSLABをグループ傘下にしてgoogleに対抗してるんだけど、航空写真からの情報だけでなく、住宅地図にわずかに載っている山中のかつての生活道・旧道まで網羅しているのがすごい。しかも更新の早さが尋常じゃない。残念なのはALPSLAB baseにあった緯度経度表示は継承されなかったこと、Yahoo!地図Web APIでもデフォルトはTKY(日本測地系)だったりする点だ。

HPで道標地図表示やルート表示にALPSLABを使っていたのだが、3月末でサービス停止になってしまう。はやいとこ別地図に差し替えねばならないのだが、手を打たずにこの時期まできてしまった。


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左に90度曲がった堀跡沿って進んでいくと、深さ3m程のすり鉢状の場所に行き着く。ここが鹿野崎の出釜跡だ。周りの木々は緑色に苔むし、この周辺だけ湿度が高いことがわかる。底に降りてみても現在は全く湿り気はないが、かつてはこの出釜の湧水を利用して、用水を引いていたようだ。水不足の際には、この出釜の近辺で雨乞いを行い、湯泉神社に湧水を捧げたことだろう。 湿度が高い分、フィトンチッド(@妙雲寺)・マイナスイオンも豊富そう。ちょっとしたパワースポットだ。